- 遺伝子の技術、遺伝子の思想 ―― 医療の変容と高齢化社会(広井良典、中公新書、1996年)
- 医療・福祉行政をめぐる論者の中で、最近わいがもっとも注目しているのがこの広井氏である。彼は1961年生まれ。東大の科学史・科学哲学科を卒業した後、厚生省勤務を経て、現在は千葉大経済学科助教授。故廣松渉氏に「圧倒的な影響を受けた」というのが興味深い。ゆえに(?)このような医療政策を扱った著作であってもひじょうに哲学的な方向へ流れたりする。例えばこんな具合。
> 究極的には高齢化社会の問題とは「遺伝子」と「文化」の対立の問題、すなわち
> 「遺伝的進化が予定していないところまで文化的進化が急速に進んだ」ところに生
> じた問題と考えられる。
しかし、誤解されぬよう。本書はエッセイ集ではない。「高齢化社会における医療」についての、実に示唆に富む政策提言の書である。
- 医療保険改革の構想(広井良典、日本経済新聞社、1997年)
- 上と同じ広井氏の著作。「遺伝子の技術、遺伝子の思想」では彼は自分の問題意識のおもむくまま、かなり自由闊達に筆をふるっているが、こちらのほうはタイトルそのままに、より政策提言的である。医療保険改革はいまや業界内の狭い話題にとどまらず「国民的」課題になっているし、主管官庁たる厚生省は近頃なにかと話題になってもいる。この医療保険行政のトレンドを理解したい方にはまずこの本をお勧めする。
- 日本の社会保障(広井良典、岩波新書、1999年)
- 広井氏の著作の特徴は、医療・福祉といった一見専門性の強そうなテーマとはミスマッチと言えるほどの文明論的考察豊富な論述にあり、本書にもそれが発揮されている。
中でも、経済のグローバリゼーションや地球環境問題から「国民国家フレームの揺らぎ」がおきている現状を論じ、そうした国家像の変容の中で社会保障のあり方を探る試みを展開するなどは氏ならではである。
「国家論」のひとつとして、本書はオススメである。
- ケアを問いなおす ―― <深層の時間>と高齢化社会(広井良典、ちくま新書、1997年)
- 現在「高齢化社会」「介護問題」というのは旬のテーマである。ケアという言葉を目にする機会も増えている。しかしケアとはそもそも何ぞや? 本書では「ケアする動物としての人間」という視点から出発し、ケアをめぐる著者お得意のテツガク的考察が縦横に論じられる。
この中で、ポスト産業主義社会における主産業が生命/ケア産業であり、この段階においてモノ/資源の大量消費が反転をおこすという展望を語る部分は興味深い。やや楽観主義的に過ぎやしないかという気がしないでもないが……。
- 日本の医療(池上直己・J.C.キャンベル、中公新書、1996年)
- 上の広井氏の著作と比べると本書のトーンは非常に抑制されている。教科書的である。否、「日本医療政策概論」とでも言うべき教科書そのものといった趣の書である。日本における医療政策の決定にあたって競技の主役が誰で支援者や観客が誰なのか、競技場となるのはどこなのか、現行の医療保険制度の問題点は何であると見なされているのか、そういったことの説明がやさしく書かれてある。思えば一般教養書で、こういったテーマを扱ったものはあまりお目にかかれない。貴重である。
- 医療と福祉の経済システム(西村周三、ちくま新書、1997年)
- 上の「日本の医療」を教科書とすると、こちらは長大なレジメであろうか?
時々論点が拡散するのは「遺伝子の技術、遺伝子の思想」とも共通しているが、広井氏が興味の方向が哲学であるのに対し、西村氏の方は経済学である。その点経済が苦手なわいには少々難解な面もあった。しかし、薬価や国保の問題など他の著作を補う記述も見られるし、氏の提唱する「長期積立型医療保険制度」案に関しての広井氏の批判(→医療保険改革の構想)に対する反批判もあったりしてけっこう興味深い。
- 友人たちの2010年 その時私は(村田恒有、地域医療研究会、1997年)
- 村田氏は千葉徳洲会病院院長にして「地域医療研究会 97 in 千葉」の会長(地域医療研究会についてはおこのみSITESEEING参照)。本書は氏が66人の友人から「私の2010年」をテーマに原稿を集めて本にしたもの。立場上とうぜん医療関係者の文章が多いが、寄稿者の中にはさらぎ徳二とか荒岱介などという名前も見える。とうぜんこれは村田氏が元ブントだからである。(このくだりは普通の人は理解できまい。メール質問可。)
それはともかく、真面目な文章と不真面目な文章の混在したけったいな本である。
下記に連絡すれば多分入手できる。 1,800円。
千葉徳洲会病院 地域医療研究会事務局
〒274 千葉県船橋市習志野台 1-27-1
TEL 0474-66-7111 FAX 0474-69-1712
- 戸籍・国籍と子どもの人権(大田季子他、明石書店、1994年)
- 思うに国家、とりわけ戸籍制度という独特のシステムを持つ日本国というものは、とかく人々にラベルを貼らねば済まぬ存在らしい。戸籍・国籍をつうじたクニの論理からするラベリング、管理、排除、あるいは取り込みといったシステムは、この国に住む諸個人の多様な生活、多様な価値観と不整合をおこしている。本書はそういった不整合を、とくに「子供の人権」に着目してレポートした事例集である。
ところで'85年の国籍法改訂について。この改訂で国籍法はこれまでの父系血統主義から父母両系主義になり、国際結婚によって生まれた子は国籍を選べるようになった、とわいなんかは結構呑気に考えていたが、どっこいそんな単純なものではないようである。詳しくは本書参照のこと(^_^;)。
- 荊冠旗とともに(藤沢喜郎、部落解放同盟高知市連絡協議会、1996年)
- 藤沢氏は1911年生まれ。戦前の社会主義運動を経て、戦後高知県での解放同盟組織化に尽力。1981年まで解同県連の書記長を、また1971年から1978年まで同高知市協議会委員長を務めた人である。さらに中央でも中執、副委員長を経験している。「土佐の松本治一郎」という声もあるらしい。1995年没。本書は氏の歩んだ道についての聞き書き、対談、追悼文集からなる。
聞き書きの部分。故朝田善之助氏の自伝、「差別と闘い続けて」を思い起こさせるような内容で楽しく読める。対談。相手は現在の市協議長で県議である森田益子氏。わいはここが一番面白かった。なかでも生活保護の男女格差をなくした闘いが傑作。朝田理論のもっとも良質な部分(物取り主義と一線を画す精神というか……)がこの人たちのなかに体現されているな、と不遜ながら感じ入ったものである。
本書は店頭売りはしておらず、購入(2,300円)は市協への直接申し込みになる。(TEL:0888-23-2828)
- 「部落史」の終わり(畑中敏之、かもがわ出版、1995年)
- 挑発的なタイトルである。しかし内容は必ずしも突拍子ないものではない。著者の立場はこうである。「部落差別は近世の身分差別の残滓を条件にして成立したものではあるが、日本近代固有の構造的な身分差別である。」つまり、部落差別は封建遺制ではない。そして俗流の(?)部落解放運動論が陥りがちな「(近世身分制への抵抗者あるいは中世以前以来の文化、芸能の担い手たる)先祖を誇りに思おう」式の議論を、「血の系譜論」として鮮やかに処断する。著者の批判の視点は単なる「権力決定論批判としての近世政治起源説批判」よりももっと深いところにある。
著者の政治的立場は「全解連」系の主張である国民融合論である(→注)。とうぜん「全解連」と鋭く対立している「解同」の主張とは対極にある。しかし一応(?)解同シンパのわいから見ても、部落の本質論ないし認識論とでもいうべき点に関して、じつに示唆的な本である。世の「解同」派の人にこそ読んでもらいたい。
(注) もっとも著者は「国民融合論」という、国民、民族としての同質性を前面に出したネーミングは、民族主義と民族排外主義に至る危険性を孕んでいるとして、不適切だと言っている。 ←まさに同感(^_^)。
- 部落解放理論の行方(柚岡正禎、「こぺる」1996年10月号)
- 雑誌こぺるはわいのいちばんの愛読誌である。以前は京都部落史研究所の所報だったが、一度廃刊になったあと現在はこぺる刊行会が発行している。いろいろ示唆に富む論文が度々掲載され、わいの脳味噌を刺激してくれる。この柚岡論文もその一つ。
> 前近代からの賤視観念は、賤視観念を核とする近代的部落差別意識に転化し、現在
> では「同和はこわい意識」として生き延びている。
>
> 私たちは、差別はいけない、人間はみな平等であるという価値規範を内面化しつつ
> 生きている。「同和はこわい意識」は、その価値規範に対する侵犯者だとみなされ
> ることへの近代人の恐怖からくる。
>
> 部落差別の解消は、遅れた人々の中にひそんでいる「けがれ意識」を啓蒙や啓発に
> よりいかにして取り除くかではなく、差別・被差別の両側の協力により「こわい意
> 識」をいかにして解体するかにかかってくる。
うーむ。何となく思い当たるフシがある。わいは普段フェミニズム同調者のような口をきいているが、一度ひどく酔ってヨメはんに女性差別的な暴言を吐いたことがあるらしい(記憶にないのだが)。あの時の怖さといったら……(^_^;)。
「こぺる」は一部300円、年間4,000円。こぺる刊行会は、TEL:075-414-8951 FAX:075-414-8952。
- 綱領改正は間違いか(柚岡正禎、「こぺる」1997年12月号)
- 同じく柚岡氏の論文である。1996年10月号の論文と同様、この人の文章は歯切れが良い。
> 解放同盟の「行政依存」を指摘する声は近年、同盟の内外で聞かれる。だが同盟は
> 以前から行政に「依存」しているつもりはなかった。行政や国と闘っているつもり
> だった。その闘いの論理の何が今日の「行政依存」をもたらしたのか、そこを総括
> しなければならないのである。マルクス主義の道具主義的な国家観を反省しないま
> まの行政依存批判は、行政闘争全体を総括する視点にはなりえず、無力であり、あ
> る意味で「身の程知らず」である。
>
> 部落解放同盟の危機は、時流に乗って階級視点を放棄し、人権や人類的価値をめざ
> す方向に路線転換したことにあるのではない。階級視点やその残滓をきっぱりと清
> 算し、人権戦略に路線転換することの意義や必然性を、ほとんど分からないままそ
> うしてしまったところにある。
いまだに心の片隅でマルクスへの信心を続けているわいとしては心に刺さるお言葉である(^_^;)。だが、なんか、すごく納得できるような気がする。
- 差別は幻想か(住田一郎、「こぺる」1998年5月号)
- いわゆるカムアウトに対して前掲「『部落史』の終わり」の畑中敏之氏は次のように述べている。
> “「部落民」であること”を、隠す=卑下するのか、公表する=誇るのかという二
> 者択一の生き方を迫ることは間違いである。いずれにしろ、本人の主体的な選択の
> 問題であることを前提にして、もう一つの選択肢があることを言わなければならな
> い。それは、“「部落民」であること”を積極的に否定する生き方である。それは
> “「部落民」であること”と“「部落民」ではないこと”とを、ともに否定して、
> 自他ともに“「部落民」であること”の自己認定を認めない生き方である。
(畑中敏之前掲書、18頁)
このような考え方について、わいは「個人の生き方」の問題としては大いに了解できるものの、「運動論」としてとらえ返す場合、何か残胃感のような感覚を感じざるをえないでいる。
この点につき、住田氏の本論文はいくらか応えてくれているように思える。以下一部引用。
> もちろん、名乗らない立場も、「カムアウト」が強制されるべきものでないことも
> 当然として認めるが、その場合でも両者に優劣があるわけではない。敢えて、私が
> 「カムアウト」にこだわるのは、部落差別問題における< 幻像と実体とのずれ・歪
> み >を双方の対話によって確認し、ただすためなのである。実像は< 実体の顕在
> 化 >に基づく対話によってしか明らかにならないとも考えている。
- アイデンティティを超えて(鄭瑛惠、岩波講座現代社会学15「差別と共生の社会学」より、1996年)
- 97/12/14付「脳味噌煮込みうどん」欄で紹介した鄭瑛惠論の、批評対象となった当の文章である。本文中で彼女が引用するヤン・N・ピータースによれば、植民地主義という差別に対する闘いには三つの歴史的段階----政治的な脱植民地主義化、内的な脱植民地主義化、ポスト植民地主義----がある。鄭はこれを日本の状況にあてはめ、「在日朝鮮人」における脱植民地主義について論じている。
また、このさい彼女はアイデンティティやカムアウトといった問題について、じつに示唆的な批評を加えている。「在日」問題に限らず、例えば部落解放問題にとっても(←もっともこうした**問題なる画一的「分類」自体に「罠」が潜んでいるのかもしれないが……)、大きな刺激となるに違いない一文である。
- 部落史は終わったか ―― 歴史の方法をめぐって(師岡佑行、「こぺる」1999年2月号)
部落史は終わったか ―― 畑中敏之著『「部落史」の終わり』によせて(師岡佑行、「こぺる」1999年6月号)
- 満を持して、とゆー感じである。師岡佑行氏による畑中批判。おそらくはこれから続くだろう「部落史の終わり」論争の端緒となるはずの論文である。師岡氏による批判の中で、わいが重要だと思うのは2点ある。そのいずれもが、さすが学者らしく、論理はしっかりしている。畑中氏の反論が楽しみだ(^_^)。
(この論文についての論評はやや長文ゆえ、ページを改めた。ここをクリックして下さい)
- ちびくろサンボよすこやかによみがえれ(灘本昌久、径書房、1999年)
- 有名な絵本「ちびくろサンボ」は日本では'89年、突如として絶版となった。世界的なサンボ批判の流れを受けてのものではあるが……。
本書はそうした「絶版派」批判の書である。が、単なるサンボラバーの郷愁的な本でもなければ(もっとも著者がサンボラバーであることに違いはないが)、「表現の自由」が「反差別」と相反する状況を問題としているのでもない。これは部落解放運動を含む反差別の運動論における問題提起の書である。内容は「差別の痛み論」批判をはじめとして深く、鋭い。
また本書は論争の書にふさわしく、著者のホームページ上でこの問題に関する議論を受け付けるスタンスをとっている。こうした姿勢は天晴れである。
※なお、「ちびくろサンボ」は原作者ヘレン・バナーマンの絵によるオリジナル版が灘本昌久訳にて径書房より'99年、復刊されている。
- 下下戦記(吉田司、文春文庫、1991年)
- かつて水俣に8年間住みつき、「若衆宿」を主宰していた著者による、水俣病闘争の異色のドキュメントである。書名は見ての通り、ル・グウィンの「ゲド戦記」のもじりである。
本書の最初の発表(雑誌「人間雑誌」への連載)は1980年。このとき本書は、患者家庭の恥部を赤裸々に暴露したものと、「厄災の書」扱いされることとなり、著者自身も水俣から追放同然となる。その後7年の封印を切って白水社から単行本化されると、今度は大宅壮一ノンフィクション賞受賞と相成る。91年、文庫化。
- 世紀末ニッポン漂流記(吉田司、新潮社、1993年)
- 前掲「下下戦記」の著者によるキョーレツなルポ集である。
与太り、絡むような文体で橋本龍太郎から松田聖子、果ては三里塚の農民や、湾岸戦争反対の文学者グループ、早大全共闘の同窓会まで斬りまくる。
この人の文章の独特なスタイルには、前掲「下下戦記」出版に係るゴタゴタが少なからず影響しているのだろう、「どうせオイラは嫌われる」的な、退路を断ったような、ある種の開き直りとも言える凄味がある。
93年の出版だから、やや古くはあるが……。
- 南アフリカ----「虹の国」への歩み----(峯陽一、岩波新書、1996年)
- 周知のように、南アフリカは長年にわたった白人少数支配を脱した。あの悪名高かったアパルトヘイト体制から抜けだし、全人種参加の総選挙を行い、新憲法を制定し、新しい社会の形成にむけて船出した。わいは英語は苦手だが、ネットから拾ってきた新憲法の前文(英文)を読むと、その崇高な思いが伝わってくる。「united in our diversity」、なかなか良い言葉だ(^_^)。
さて本書はこの現在の南アの状況をこれまでの歴史とともに、かいつまんで知る上で非常に好都合である。コンパクトでまとまりがある。ちなみに「虹の国」とは、マンデラ大統領が、全ての人種・エスニックグループが「違いを認めながら統合する」新しい国のありようを指していった言葉である。
【参考資料】
南ア新憲法(前文〜第2章)(33キロバイト)
- PANDORA REPORT 喝采がお待ちかね(八木啓代、光文社、1996年)
- パソ通の NIFTY-Serve 上では伝説的ともいえる人気連載の活字版である。
著者の八木氏はメキシコ、キューバなど中南米で活躍している歌手。現地ではそうとうの修羅場(何のや?)をくぐり抜けてきた経験がおありのようで、かの在ペルー日本大使公邸占拠事件のさい、こちらのTVにコメンテータとして出演したおりには「中南米のゲリラ事情に異常に詳しい」との紹介テロップが出たような人である。
で、本書のテーマはかの地の音楽業界から見たラテンアメリカ、とくにキューバ事情。まあとにかく面白い。大物が続々と登場するわりにはスラップスティックなノリの本である。さすが大阪出身。あまりのおかしさゆえにどこまでが真実なのかという疑念(^_^)すら沸くが、著者に言わせるとそれがラテンアメリカの「魔術的リアリズム」とやらの正体なんだそうである。
(*本書は98年文庫化された。→光文社文庫)
- 危険な歌----世紀末の音楽家たちの肖像(八木啓代、幻冬舎文庫、1998年)
- 91年刊行の「ラテンアメリカ発=音楽通信」(新日本出版社)が7年の時を経て大幅に加筆訂正され、文庫化したのが本書である。前掲の「PANDORA REPORT」と比べると、明るいながらもかなり抑えた筆致になっており、内容的にもラテンアメリカ現代大衆音楽入門編といった趣。
それにつけても、LA各国をバッグひとつで歩き回った著者の足跡もさることながら、音楽と政治とが生き生きと結びついているラテンアメリカの音楽世界とは何と魅力的なことか。シルビオ・ロドリゲス(キューバ)が何としても聴きたくなった。
- 狼煙を見よ(松下竜一、社会思想社 現代教養文庫、1993年)
未決囚11年の青春(荒井まり子、社会思想社 現代教養文庫、1994年)
- 従軍慰安婦など教科書における歴史記述をめぐって「反日史観」「自虐史観」だのといった言葉が論壇で飛び交っている。思えば「反日」という言葉にポジティブな思いをのせて、われわれに衝撃を与えた人たちこそは東アジア反日武装戦線の人たちであった。多数の死傷者を出した企業爆破闘争の誤りは誤りとしても、わいには彼らの孤独な闘いの時代から、よくぞ現在のように教科書が一部の(少数?)勢力から反日的と悪罵を投げつけられるほどに時代が変わったものだという、逆説的な感慨がある。スタンダードが変わったのだ。そういう意味では、東アジア反日武装戦線の人たちの闘いの意味合いについて今いちど反芻してみるのも悪いことではないだろう。2冊の本はどちらも現代教養文庫の「ベスト・ノンフィクション」に収載されている。なお、荒井まり子著の方の原書名は「子ねこチビンケと地しばりの花」(径書房、1986年)である。
- 流転----その罪だれが償うか(高知新聞社会部編、高知新聞社、1998年)
- 96年9月から12月にかけ、高知新聞紙上に連載された記事の単行本化である。県下在住の元731部隊々員、尾原氏の証言と、彼の96年7月、ハルビンへの旅への同行取材を中心に、他の関係者等からの証言やインタビューをも交えて綴ったのが本書である。巷に731部隊関連書籍は種々あるが、記録性という点で本書はなかなかのものなのではあるまいか。
本書の元となった連載は第40回日本ジャーナリスト会議賞(JCJ賞)を受賞している。
- 唯脳論(養老孟司、青土社、1989年)
- わいのこのコーナーには珍しくメジャーな本である。養老の本はここ数年じつに数多く出ている。しかし、やはり本書が、養老の考えが体系的に述べられている点で外せない。一度読んでおいて損のない本である。
> 現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳
> そのものになったことを意味している。
> 都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物は、脳機能の表出、つまり脳
> の産物に他ならない。
> 現代人はいわば脳の中に住む。
> ヒトの歴史は、「自然の世界」に対する、「脳の世界」の浸潤の歴史だった。それ
> をわれわれは進歩と呼んだのである。
(「はじめに」より)
この世界観、歴史観。「パラダイムの転換」とまで言ってしまうと大げさだが、実に刺激的である。
- 生命の意味論(多田富雄、新潮社、1997年)
- 近年、哲学・思想界に大きな波紋を投げかけた生物学者といえば、その代表の少なくともひとりは、「生物=生存機械論」「利己的な遺伝子」の、R・ドーキンスであろう。彼によれば、自らのコピーを増やし、それを後世に伝えるために利己的にふるまうのが、自己複製子たる遺伝子の本性であり、その遺伝子からすれば、個体なんぞは単なる“乗り物”にすぎない。
さて、著者はこのような、一種の「DNA決定論」を批判し、「超(スーパー)システム」としての生命という概念を提唱する。すなわち「DNAの決定から離れた自己生成系としての生命」との観点であり、その典型は免疫系の生命現象に見られる。
著者自身述べているように、本書は系統的に書かれた本とは言えないし、本書終章において上述の観点を敷衍して述べている、超システムとしての「都市」とか、「企業」「大学」「官僚制度」などといったものも、必ずしも説得力があるようには思えない。
しかし、本書において時にはかなり細部にまで踏み込んで述べられる、生命諸科学の前線からの様々な成果の紹介は、たしかに生命の持つ「超システム性」なるものを匂わせ、興味深い。一読してみる値打ちのある本である。著者は免疫学者。
- 新装版 法律学の正体(山口宏・副島隆彦、洋泉社、1995年)
裁判の秘密(山口宏・副島隆彦、洋泉社、1997年)
- どちらも異色の、というよりホンネの法学入門書である。法律(条文とかその解釈とか)というのは何か官僚答弁みたいなもので、「ホンマのとこどうやねん!?」というような印象をずっとわいは抱きつづけていた。そうした疑問にひとつの光を与えてくれる本ではある。
(以下「法律学の正体」あとがきより引用)
> 今になって考えれば、法律学は、なるほど大人の学問だった。たとえ、良心の命ず
> るところに反しても、生きていくうえでは、あらゆることに、大人はいずれ決着を
> つけなければならない。そして、そうすることによって是が非でも、社会の秩序を
> 作り上げ、守りとおさなければならないのである。だから、今、僕たちは、学生時
> 代のあの頃の自分の、法解釈学を懐疑する精神をはっきりと軽蔑することができる。
> だが、この秩序の深奥は、依然として闇のままである。