阿波藩の起こり 》

阿波は南海道である。
この道(どう)というのは、文武天皇(683〜707)のときに定められた制度で、実に古い。全国を
七道にわけ、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道としたのだが、この
うち南海道というのは、紀伊(和歌山県)を出発点とし、淡路国へわたり海をへだてて、四国ぜ
んぶをふくめる。

ところで、阿波藩の殿様、蜂須賀家は、『太閤記』で大いに迷惑をしている。この家の祖の蜂須
賀小六正勝は、戦国のころ、尾張の野伏・野盗のたぐいだったということが、江戸時代の人々に
とって通説になってしまったのである。泥棒が大名になるなど、話好きの江戸時代人にとって、
うってつけの話題だったのではないか。その通説のもとは寛永二年(1625)に成立した小瀬甫
庵(豊臣秀次の儒医)の『太閤記』だった。

尾張の織田信長が、まだ尾張一国の勢力で、となりの美濃を攻めあぐんでいたころのことであ
る。美濃を攻めるには兵力が足りなかった。そこへ小身者の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が進み出
て、「当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵ども多く候」案外、泥棒には使える兵が多う
ござんすよ、といって名簿を差し出した。名簿の人数は千二百余人という多さである。藤吉郎は
更にいった。「其中にても武名も且々人に知られ、番頭にも宜しからんは稲田大炊助、青山新
七、同小助、蜂須賀小六、同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六太夫
松原内匠助等也」信長はこれらのいわば特別部隊の編成と使用を秀吉に許し、国境の墨股で
いわゆる一夜城を築かせ、やがて美濃に攻め入る先鋒にさせた。この企てが大いに成功した
ので、信長はこのなかの主だつ者を家来にし、秀吉に付属させたのである。以上は、甫庵の
『太閤記』の中のハナシであって真偽のほどはたしかめようもない。

秀吉は、蜂須賀小六をもっとも重用し、稲田大炊助についてもこれを軽んじなかった。もっとも野
武士だったころ、蜂須賀と稲田は同格だった。秀吉はやがて蜂須賀を主とするようになり、稲田
をその客分として従属させた。しかし、稲田にすれば、「わしは蜂須賀の家来ではないぞ。」とい
う気分が当初からあっただろう。その気分はずっと続き、江戸時代になってからも両派は相反発
し、明治初年の“稲田騒動”にまでつながるのである。

秀吉が天下をとると、蜂須賀氏を阿波に封じた。蜂須賀氏は、すでに小六の子の家政(蓬庵)の
世で、阿波で十七万三千余石という大身になっていた。そのうち九千何石かを稲田氏のために
割いたというから、稲田氏がいかに特別の待遇をうけていたかがわかる。

関が原および大坂ノ陣のとき、蜂須賀氏は徳川方につき、それらの功で元和元年(1615)徳川
幕府は蜂須賀に淡路(八万余石)もあたえた。これで蜂須賀家は石高二十五万七千石になっ
た。このとき稲田氏の待遇もあがった。淡路の仕置職になったのである。しかも洲本城をあずけ
られ、石高は一万石を越えたから大名然とした存在になった。徳川時代では一万石以上が大
名である。二十万石台程度の大名が、大名なみの家老をもつなど珍しいことだが、それほど稲
田氏を特別扱いをしたのである。もっとも幕府にも理由があり、大藩の勢力を、この式の分割に
よって殺ぐというのが常套のやりかだった。

近代以前は、どの国でも差別で世の秩序をつくっている。人々は絶えず、自他の格≠考え
る。淡路の稲田氏は、三百戸ほどの家士がいたが、彼等はむろん徳島城下の侍と同格だと思っ
ている。しかし徳島の方は「稲田の侍が侍なものか。稲田はたとえ万石でも蜂須賀家の家老にす
ぎないし、その家来となると陪臣(又者)にすぎない。」として露骨に侍あつかいしなかった。こ
の感情の対立が深刻になり、幕末、阿波蜂須賀家は濃厚な左幕色だったのに対し、淡路の稲
田氏は一種独立の気勢を示して、勤皇倒幕の色あいをみせたのである。