私には15歳年上の兄がいました、結婚して子供も一人うまれて
我が家も安泰していました、
そんなあるとき 兄は病気になりわずか 27歳でこの余を去ってしまったのです、 私が小学校5年生の時でした、
私の母は 一人っ子で養子娘でした、若い頃から家のことをすべて切り盛りしてやってきたので気が強い面もありました

しばらくしてだいぶ落ち着いた頃 残された 義姉に母はこう
言ったのです、
あんたもまだ若い このままこの家に残ってくれるのもいいし 
もし もう一度人生をやり直そうと思うのなら 我が家のことは気にしなくていい この子は私達が育ててあげるから 良く考えてみなさい、
義姉も考えた挙句 涙ながらにその道を選らんだのです、
そして母は家の命運を私にかけたのです、
やがて娘は 私達の兄弟として大きくなったのです、
そのうち義姉も再婚して 新しい人生へと向かったのです、
子供もできて第二の人生を送るようになりました、
妹も成人して 京都へ就職して 良き主人に恵まれて子供も生まれ幸せな生活を送っていました、
しかし 運命と言うものははかないもので 義姉も50歳を待たずに
この世を去りました、
そして妹もがんに侵され2人の娘を残して45歳の生涯を閉じ 
兄一家は絶えてしまいました、


父はとてもよく働きました、山を買って立ち木で炭を焼きその後へ
植林をするのです、当時は木材の値段も高く 植林することが
良く行われていました、
この木が大きくなる頃にはお前達は裕福になるから 頑張って
植えておいてやるからな、そう言って山林もずいぶん増やしました、
私も 24歳の時家内が来て 花作りの合間に山の手入れに行ったものでした、
やがて年月とともに父もいつしか床に伏すようになり、気丈な母はすべて自分で父の世話をするようになったのです、
私達も商売が忙しくなりほとんど世話をしてやれなかったのですが85歳でなくなるまで8年間 病院へ行くときもありましたが 大部分が家でほとんど世話をしてくれました、

一人になった母は 家の周りの掃除や草引き、洗濯物の取り入れからすべて自分の役目としてやってくれました、
朝早く5時に起きて まず般若心経を5回唱えて それから掃除を始めますそれが終わると家の周辺の草引きやかたずけと全くじっとしていないのです 私達は花屋をしていたため 昼食を母の部屋へ持っていておいて町へ出て行くのです、
夕方には洗濯物をすべて入れてたたんで仕分けして置いてあるのです、

やがて90歳も過ぎ 年とともに デイサービスへ行くようになりました
そしていろんなものを習ってきて作るのです、折り紙 五円玉手芸、などいろんなものを器用に作って自分の部屋へ飾ったりしていました
そんなある日 台風がやってきて回りの木の枝や葉っぱなど山のように積もってこれは掃除がなかなか大変だなと思っていました、
そんな朝 友達のおばあさんから電話がかかってきました、
お母さんデイサービスに行くようにいってますか?との電話でした
どうするん、 と聞くと それどころでない と言ったと思うと夕方までかかってきれいにかたずけてきちんと掃除しているのでした、
そして年とともに足も弱くなり 歩くのも充分出来なくなりました、
それでも足を引きずりながら草引きをするのです、
洗濯物の取り入れも出来なくなり 私が取り入れてきて母の部屋へ入れておくとたたんで仕分けして 持って来れないものですから部屋へ並べてあるのです、
気力と言うか すべて自分でしなければいけないとの思いで頑張っているのか 私達にはまったく世話をかけないのです、
やがて98歳になりました、
その頃から少しずつ体力の低下が見られるようになりました、
食事も少なくなり、ベッドですごす時間も多くなりました、
それでも部屋の中はきちんと整理して すべてをかたずけているのです、
おとうさん お母さんへ、、、 私が死んだときに着るもの と書いて箱の中に 大切にしていた着物と元気だった頃四国88ヶ所を回ってきた白衣装を入れて 貯金ももう私は必要ないからと通帳も渡し 準備しているのです、

やがて認知性の兆候が見られるようになりました 時々昔のことを言い始めたのです、
私がおしめを替えているとそんなに動かしたら横に子供が寝ているからつぶれる  と言うのです、なんと言う名前のこども?と聞くと、、、忘れた、、それじゃ誰の子供? と言うと 私の子供、と言うのです
遠い昔の私達が小さかった頃にタイムスリップしているのです、
爺さんこのごろちっとも来てくれないが どうしたんだろう、薄情になってしまったものだ、、、、、
そりゃちょっと来れない、こっちから行かなければ、、、、
ご飯も食べさせてやっていると 2口くらい食べて もうよさそうな、、
と言うのですが何とかきげんを取って食べさせるのです、

しかし 98歳の12月頃になるとほとんど食事を取らなくなってしまいました、
夜中に何度も起きてトイレ介助なども重なり1日に4〜5回も汚されることもありましたが 私は1度も怒ったり 愚痴を言ったことはありません
元気な頃は怒ったりしても 母も反対に怒り返したりしていましたが
大勢いた家族も少なくなって いつまで世話をしてやれるのかな?
そんな気が先に立って怒る気にはなれませんでした、
やがて年も明けて ほとんど食事も入れなくなり 病院へ連れてゆくことになりました、
家を出るとき もしかしてこれが最後になるかも知れないとの思いから あれが我が家、 そしてあれが我が家の山、
若い頃親父とよく炭焼きしたなあ、おぼえてるか、何度も車を止めて見せながら行くのですが
分かっているのか分かっていないのか うん うん といいながら病院へ向かったのでした、
しかし点滴をするようになると再び元気を取り戻し数日で帰って
これるのです、こんなことが3回ほどありました、

しかし やがてその3月いつものように夕食を食べさせていたのです
2口ほど食べてから 次第に呼吸の間隔が長くなりそのまま眠るように苦しむことなく息を引き取って この家に生まれて98年の生涯を閉じました、
半年ほどの世話だったのですが 家で看取ってやれたことが何よりでした、
翌日 体を拭いて清めて着替えてやりながら 良く頑張ったなあ、
爺さんが待ち焦がれているぞ、やっと逢えるなあ、また昔のように山へ行こうなあ、、、
そして 母の部屋から灯りが消えました、
子供が親の葬儀をするのは自然な姿です、 しかし親が子の葬儀をするのは悲しいことです、
私の上に二人の姉がいたのです、小さな頃に亡くなって母は3人の子の葬儀をしたのです、

私も母のような生き方がしたく思っています、
子供達にも迷惑かけることなく一人で 足を引きずってでも頑張って一生懸命家の足しになることをし 動けなくなったら いさぎよく老人ホームへ行く覚悟でいます



     元のページへ戻る










私の回想録

第48回 母の生涯