私の回想録
第19回   アマチュア無線局の開局、
24歳の時でした、中学時代からの夢であった アマチュア無線の資格を取るために

通信教育を受けたのでした、
そして試験を受けるべく松山の電波管理局へ電話を入れたの

です、
しかし4月の試験には申し込み期限が過ぎていると言うことで今度は10月と言うこと

でした、
しかし丁度その年の夏 近くの水産高校で講習会があったのです、

これは幸いとすぐに申し込みました,
私が2番目でした、
1週間くらいの講習会だったように思いますが、終了後テストがあり電話級(現在の4級)の免状

がもらえ
たのでした、さらに翌年モールス信号の送受信を覚えて電信級(現在の3級)の免

許をもらうことができました、
其処でアマチュア無線局の開局へと進んで行ったのです、
今まで作ったラジオの部品を集めて5Wの送信機と通信形受信機を作り開局申請を出しました、

1968年12月 私のコールサインは JA5DOO と通知が来たのです

アンテナを張り早速開局したのですが、近くにローカル
局もなく電波は出ているのですが全く

応答がありません
でした、
其処で仕方なく翌年 メーカー製の無線機を買ったのです、それは実にすばらしい性能を発揮

してくれました、
あっと言う間に沖縄から北海道まで国内数百局との交信が出来たのです、

学生さん、若い方、年配の方、
女性の方等いろんな人達との出会いがあり なじみの方達も

増えました、
そしてさらに性能の良いビームアンテナ(2エレメント キュビカルクアッド)を作り 東南アジア

から大平洋周辺
の国々との交信が成立したのです、
私の家は四方が山に囲まれているのですが南側は少し開けているので南に向かっては何

とか電波が飛ん
でくれました、
タイ、フィリピン、マレーシア、オーストラリア、ハワイ、アメリカ、ソビエト、等との交信も出来

ましたが裏には山
が控えているためヨーロッパ方面は全く出ませんでした、しかし自分の声

が太平洋を超えて未知の国へ飛んで
行くことにすごく感動し夢中でマイクに叫んだものでした、
と言っても英語は全く出来ませんが本で覚えた決まり文句だけでなんとか交信は成立しました、

数ヶ月してから海外のカードがおくられて来た時は本当
にうれしくて遠くの夜空を眺めたもの
でした、
そんな事が数年続きました、
其処で今度は2級の免許を取るべく準備を始めました、
しかしその頃丁度石油ショックとなったのです、遊びどころではありません、無線もそれから

十数年ほとん
ど閉局となりました、
石油ショックは2〜3年で安定しましたが今度はバンド演奏の方に傾いていったためです、
しかしアンテナと無線機はいつでも電波を出せるようにしてありました

いつかは再び無線が出来ることを思いながら、
そして無線局の免許も忘れず更新して

行きました、
昨年無線で交信していると秋山さんとは二十八年前にお会いしていま

すと言うメッセージがあり感動しました、
その頃にはまだ始めたばかりの学生さんでもすでにベテランの世代に

なっていたのでした、

 

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