私の回想録

第36回  浜辺の生活

小さな子供の頃のことでも
心に残った事はいつまでも
覚えているものです

戦争が終わったのは 私が
まだ2歳になる少し前の
ことでした、

終戦と共に食料難の時代
となり 食料と共に調味料
の塩が不足したのです、

そこで村のほとんどの人達
が山を越えた明丸海岸の
浜へ出かけて行きそこに
住まいをして 塩炊きと言っ
て大きな鉄板で海水を炊き
塩の製造を始めたのです、

我が家も山の木で炭を焼き
その残りの木で塩炊きを
したのです、
祖父母が家を守り 若い人達はそれに専念したのでした、
そして海岸には塩炊きの小屋がずらりと並んだのです、




食料難の時代でしたが前の海へやってくる漁師の人達とも親し
く 魚には不自由しなかったそうです、
その頃には魚や貝なども豊富にいたのでした、
塩は絶えずやってくる仲買人に売り 我が家の祖母は海から離れた山村へも売りにも行ったそうでした、
その頃は我が家も船を持っていました、
私もこれには記憶があります、
砂浜で何度も船に乗っては落ちたことを覚えています、
また砂浜で貝を採ったり 一人よく遊んだそうで 近所の人達も
大変かわいがってくれました、
時々 食料などの補給に来る祖父母達 子供にとってうれしい
ものでした、

今孫がちょうどその年なのです、自分にもこんな時代があったの
だなあと思うと共に子供は小さい頃はうんとかわいがって甘え
させてやるべきと思うのです、
小さい頃に心に刻まれたことはいつまでたっても忘れないもの
です、
年配の人に聞いた話ですが 当時は村の人全員が経済的に
潤ったのだそうでした、
隣のおじさんなど毎日夕方になると おまえら早う戸を閉めて来い と言ってお金の勘定をするのでした、
そんな生活が続きました、
そしてそのお金を持ち寄って自分達の村に電気を引いたのです
皆で助け合って 何もない貧しい時代でしたが心豊かな時代
だったのかも知れません、
子供心にも幸せだったことを覚えています、
だがやがてその頃 南海地震と津波がやってくるのでした、

昭和21年12月21日 朝4時頃のことです、
塩炊きは昼夜関係なく定期的に海水を汲み取ってきて補充
するのです、そのときある人が偶然その時間に塩汲みに行ったのでした、
すると海水が異常に引き潮になっていて はるか遠くまで行かなければ海水を汲めない状態になっていたのです、
少し前に地震があったことから これは大変なことと察してすぐに
全員にふれたのです、
村の人達はすぐに裏山へ非難したのでした、
やがて大きな津波が押し寄せてきたのです、
布団や家財道具などすべてが流されてしまいましたが 誰一人
被害者も無く各地で大きな被害が出ましたが 一人の的確な判断で村の人たち全員の命が守られたのでした、

やがて夜明けと共に家でラジオから津波のニュースを聞いた
祖父母達は海岸の状態をよく知っているだけに腰を抜かさんばかりに驚いたのです、
もはや4人とも生きてはいない、せめて一人だけでも生き残っていてくれたらの思いで 狂気のごとく山を駆け登ってきたのです、
皆の無事を知ったときの祖父母の喜びはさぞかし大きかった事
と思います、
私が3歳の時でした、
山の小屋へ避難したことを覚えています、

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syクリョウ

我が家ともう1軒がいた
東の海岸

ほとんどの村人達が
集まった 明丸海岸