順調に思えた洋ラン栽培も生産者
の増加と反比例して 値段がだん
だんと下がり収入もしだいに少なく
なりました、

そこでやっとの思いで家内を説得
して花屋を始めることにしたのです

平成元年2月 場所も決めて工事に
かかりました、
日和佐町の国道沿い 120坪に鉄骨
のハウスを建てるのですが今までの
経験を生かして全部自分で製作しま
した、

1ヶ月あまりかかり 陳列台もそろい
3月下旬ようやく花を少しずつ置き
始めたのです、
するとまだ工事中にもかかわらず
2万〜3万と売れたのです、

そして小さな看板を立てると今度は
8万〜9万と売れたのです、
まず最初は売れないだろうと計算し
ていたものですから思いがけない
展開に驚いたものでした、

やがて郡内に新聞の折込を入れ
4月3日最後の仕上げで夜11時ま
でかかり花を並べ値段を付けて準備
しました、
そしてその夜 10時半に客があり
花が売れたのです、
新しいことをすることは実に楽しい
ものでした、
人事を尽くして天命を待つ という言
葉がありますが 私は新しく花屋を
始める事に全く不安感はありません
でした、
なぜかと言うと外商だけで生活費が
まかなえていたし家内の副業と言う考えでいたからなのです、

そして翌日待望の開店日です、
朝早くから店へ行き準備をし8時半に開店と同時に大勢の
客がきてくれました、
春休み中の高3の娘にも手伝ってもらって 慣れてなかった
せいもありますが 1日中3人が走り回ったのです、
昼食をとる暇などありません、日が暮れて客が帰りやっと
一息つき我に返ったものでした、


今に思うと時期的に1番良く売れる季節だったのです、

それからもよく売れて花屋の開業は成功でした、
しかし夏に近ずくにつれてさすがに売り上げも落ちましたが
さらに秋には切花にもレパートリーを広げ それから3〜4年
は毎年500万円ずつ売り上げが伸びて行ったのです、
また家のランの株は仲間の生産者に安くしてほとんど売り
18年続いた洋ラン栽培も終止符が打たれました、
ハウスも取り外し田んぼは再び昔に戻りもとの米つくりと
なったのです、


切花も葬儀屋さんと提携することになり日和佐町と隣の由岐
の葬儀花の95パーセントをカバーを出来るようになり 町内
の2軒のホテルも結婚式の花を使ってくれるようになったのです
そして行政機関 学校関係すべてが注文をくれるようになり
近所のスーパ−にも花を卸すようになり 花キユーピットにも
加入 花束 アレンジメントとすべてのことにレパートリーを広げ
ていったのです、
順風満帆 良き時代でした、
バブルの崩壊とともに売り上げもだいぶ落ち込みましたが 
切花は我が家だけの強みもあり順調に推移していました、
しかし思いがけない家内の病気で16年続いた花屋も閉店へと
追い込まれてゆくことになるのでした、

         
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私の回想録

第23回   花店開業