私の回想録、
第2回  北海道大洪水の思い出
私が北海道へ最初に行ったのは 高校3年生の夏休みでした、
行きのキップ代と小使いをもらい北海道の農家で1ヶ月働いて帰りの

旅費を稼いで帰ると言う計画でした、
友人と小松島港から船で大阪へ渡り、夜更けの大阪駅で2時間並び

急行(日本海)に乗り込みました、
急行と言ってもそのころの北陸本線は電化されておらず14〜15両

車両を蒸気機関車2台で牽引するので実に
ダイナミックでした、
それでも青森まで行くのに22時間は充分にかかりました、

一夜開けて雨の北陸本線、遠くに佐渡ケ島を眺めながら一路北へと

向かって行ったのでした、
当時の長旅は自然と同席の人たちと親しくなれたものでした、
おまえ達 どこからきた?、 と前の席のおじさん、僕たち四国の徳島

からです、
おじさんは?  と言うと俺は山形だ、これから北海道の親

の家へ行くところだ、色々話しているうちすっかり親しくなり
おじさん僕たち食事に行ってくるから荷物たのむわ、
ああ いいよ、そして帰って来ると交代である、

青森から青函連絡船に乗り換えさらに函館から急行(いしかり)に乗り

込んだ時  車内放送がありました、
現在北海道は大雨で各地で大きな被害が出たと言うニユースである、
  
北陸本線のときの雨が北海道へ移動し 洪水を
もたらしたのである、
次つぎとニュースが入るたびに被害が大きくなって行きました、
道路、線路が各地で寸断され 列車も各駅で何時間単位で立ち往生

されました、
長万部(オシヤマンベ)の駅でのことでした、当時の国鉄もいろいろ

慮してくれて地元の婦人会の方の握り飯の差し入れが
あったのです。
いっしょについてきた山形のおじさん, 居眠りをしていて突然
ガタン、と頭を灰皿にぶつけて目がさめました、
あははは、、、、   と皆に笑われてしょう気になり、
私たちの食べている握り飯を見て おっ? そんなのどこにあった?
今配って来てくれています、 
と言い終わらないうちに  おれもくれー、

又礼文と言う名の駅がありました、この駅でも数時間滞在しました、
最初に滞在時間を知らせてくれるものですから、近くの山へ大勢の方

が登って行っていたことを思い出します、
さらに何度も何度もいろんな駅で立ち往生させられ一夜を車内で明か

し翌日午後になつてようやく開通したのである、

天気も良くなり、修理された線路をゆっくりと列車は進んで行きました、
両側で見守る修理班の人たち、昨夜は徹夜で作業をしてくれたのだ

ろう乗客の人たちも窓を開けて体を大きく乗り出し口口に
有り難う、  有り難う  と何度も何度も手を振る、修理班の人たちも

笑顔で手を振って答える、

山形のおじさんとも沼ノ端駅で別れて岩見沢行きに乗り換え、目的地

へ付いたのが家を出てから4日目近くの赤い夕日の
夕暮れでした。
山形のおじさんその後元気でいるのだろうか?
時々懐かしく思い出す、

       古き良き時代だったような気がする。

 

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