第31回 酪農時代
私が最初に始めたのは酪農
でした、と言っても私が始め
たわけではありません、
父が以前からやっていた
のですその頃私の部落では20戸
の農家のうち7戸まで乳牛がいたのです、
北海道の牧場にあこがれて私はそれから9年間頑張ったので
した、4頭から始めて少しずつ増やして行きました、1,1ヘクタールの
水田もやがて全部牧草に代わり裏の1ヘクタールの山林も放
牧 場になりました、
と言っても雑木林 のまわりに鬼針線と電気牧柵を張りその中
に牛を放すのです、それでもほとんど怪我をするようなことは
ありませんでした、
牛は案外たくましいのです、昼は山の上の方に登って行きどこにいるか分からなくなります
が朝夕の餌をやるときにはバケツをたたくと一目散に降りてき
ます、やがて牛もだんだんと増やし20歳のとき写真のような畜舎も
建てて5〜6年後30頭近くまでになりました、朝5時からの搾乳で6時に集乳車がきますそれに遅れないよ
にしなければいけないのです、始めた当時は農家の収入の目標として7桁農業と言うことが
よく言われました、つまり年間の売り上げ額が100万以上と言
うのです、
それから数年して今度は一万ドル農業に代わってきたのです
当時の為替レートは1ドル360円で360万と言うことなのでし
た、初めてから5〜6年後なんとかそれに当てはまるようになりま
したがきつい労働の割合にはあまりお金は残りませんでした、
しかしこの9年間にはさまざまな思い出が残りました、メスの子牛が生まれたときの喜び、親牛の病死、6時間にわた
る難産、県の共進会(牛の品評会)への出場、等私にとって一
番心に刻まれた時代でした、そして試練の時代でもありました
農業関係の雑誌も毎月5冊購入し勉強もしました、
春が来ると牧草を刈り取り夏の飼料の準備をします、そして夏
の牧草の種まきをし 秋にはサイロに牧草をつめて冬場の飼
料の確保をします、
忙しい毎日でいろんな苦労もありましたしかしそのうち一つの壁に突き当たったのです、その一つは
全く休みのない仕事と、さらに狭い耕地ではこれ以上の規模
拡大が出来ないのでした,つまり国際競争力にはついて行け
ないのですそんなある日 家内を連れて母校へ行ったのです、 学校もす
っかり変わっていました、昔の先生と話をするうち洋ランの切
り花栽培が最近注目されて学校周辺の農家で初められてい
ることを聞いたのです、なるほど 狭い面積で出来る高度集約農法ならこれからなん
とかやっていけるのではないだろうか ? とそんな気持ちから
早速試験的に300株のランを購入して栽培を始めたのです、
やがて1年が過ぎランも予想通り生育してくれたのです、其処で思い切って畜産から園芸へと転向することにしました、今まで飼っていた牛を全部売却したのです、秋も深まった10月なじんできた牛が1頭ずつ車に乗せられて
出て行きました、その一つ一つに懐かしい思い出があり最後
の心配り をしてやったのでした、その売り上げ代金に更に
農業近代化資金を借りて心機一転洋ラン栽培へと進んで
行ったのですが何をしても そう簡単には行くものではありませ
んでした元のページへ戻る、