私の回想録 
               第42回 終戦の思い出

 子供心にも危機感に迫った時のことはよく覚えている
ものです

戦争が終わったのが昭和20年8月でした、私がまだ2歳になって
いな
かった頃でした、それでも村の住職が 戦争は   やめる
ことになりましたと大きな声
でふれてきたことを覚えています、
又我が家の西の防風林の下には防空壕が有ったのですL字形に
っており、中に入るとタタミ2枚くらいの部屋が有り米軍機の編隊
が飛んで
来ると其処へ全員が非難したのです、
子供心にも怖さで泣きもせずにじっと辛抱したのでした、その中で
母がランプの明りで縫い物をしていたことも記憶に有ります、
又戦争中は列車が空襲に遭ったり山を越えた所へ爆弾が落ちた
こともありました、

列車は空襲に会うと急いでトンネルへ逃げ込んで その中で空襲が
収まるまで待機するのでした、

防空壕は 父か祖父が掘ったのでしょうがよく掘ったものでした、
やがて戦争が終わると其処は子供達の遊び場になりました、
其処へ入るとしばらくは暗くて少し経って目が慣れるまで何も見えま
せん
でしたが格好の遊び場でした、
それが10年くらい有りましたがやがて年月
と共に土に埋もれて
しまいました、

そして少し離れた山の中には疎開小屋も有りました、其処へ避難した
記憶は有りませんが良く遊びにいったことが有ります、
やがて戦争が終わり村人達は復興に向けて頑張ったのです、
しかし食べるものもほとんどなく貧しい生活が続いたのでした、
今世界中で貧しい国の子供達の様子がよく放映されます 今、日本の
子供
達と比べると大変気の毒に思いますしかし私はそれほどには
思いません、
なぜならば私たち子供の頃を振り返ってみると私たちにもそのような
時代
があったのです、そしてまた当時すべての子供達がそうで
あったのでした、
少しのことにでも喜びを見つけ出して一生懸命家の手伝いもして別に
つらいこともなくそれが当然の暮しだったのです、
親達は自分達が食べなくても子供達に与えて子供達もそれを良く
知って
いました、家族に守られて貧しい中にも私たちには幸せだった
ように
思います、
今日本の国も世界一の借金大国になってしまいましたが国が破綻しても
無一文になっても どんな時代が来ても私達はそれに対応
してゆく心構え
だけは持っています

 

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