第14回 洋ランの栽培、私が洋ランの栽培を始めたのは
27歳のときでした、それまで
9年間続いたをやめて
畜産から園芸へと転換した
のです、
酪農がだめと言うことでも
ないのですがやはり耕地の狭い所では規模拡大が難しくこれから
貿易自由化の波について行けないと思ったからなのです、今まで共にしてきた30頭近くの乳牛を全部売却したのでした、
そしてその代金と農業近代化資金を借りてハウスを建て理想の
洋ラン園を夢見て洋ラン(シンビジュウム)の株を買い集めたのです、やがて翌年からだんだんと株も増えて行きました、ハウスは600坪ですがランが増えるまでいろんな物を作ってみた
のでした、ハウス生姜の促成栽培 電照菊 と意欲に燃えたのですがなか
なかうまく行きませんでした、
やがて600坪のハウスがランで一杯になりました、しかしこれからの数年間が人生最大の試練の場に成ってしまった
のです,30歳のときでした、その頃 中東戦争が始まったのです、
アラブ諸国6カ国とイスラエルが対立したのですが
イスラエルは先進国、1週間ほどでイスラエルの全面勝利に終った
のですしかしアラブ諸国が石油戦略に出たのでした、最初 原油1バーレル 3,5ドル位だったのが10ドル、15ドル
20ドルと上昇し最高38ドルまで上がったのである、生活用品は値上がりと共に品不足となり一時パニックになったの
でした、
私たちの使うハウス燃料(その頃は灯油でした)もドラム缶1本3000
円から最終的に15000円まで上昇しました、これは大変と私は急いで備蓄(?)したのです、空き地にドラム缶80本を隠したのです、と言っても隠せる量ではあり
ませんが,其処が田舎の良い所 通報する人などいないのです、当時見つかれば新聞に大きく報道せられ犯人あつかいされるところ
ですが何とか無事に済みました、実際に私より少ない量で見つかり 新聞に大きく載せられていた人が
いました、
しかしそんなことをしても儲かるものではありません、当時はまだランの栽培方法も確立されておらず思考錯誤の時代で
花も思うようには出ません、また値段の安値、資材の高騰 さらに借
入金の元金返済が始まりどうにもならなくなりました、始めてわずか3年で倒産寸前へと追い込まれてしまったのでした、当時計算してみると600万円ほどの借金にまで膨れあがっていました
600万と言っても今であればたいした額ではありませんが 一搬給与
が3〜4万位の時代でした、今の時代に換算すると3000万円以上の
金額だったのかもしれません、
30歳の私にはものすごい重圧になったのです、
毎日毎日 考えて 考えて考えぬいたのですがどうにもなるもの
ではありませんでした、私の判断ミスがこうした結果になったしまったのです、惨めなもので子供達がアイスキャンデーをほしがってもなかなか
買ってやれませんでした、 その頃アイスキャンデーは10円だった
のですが箸の2本付いたものを買い半分ずつあたえた事もあり
ました、まったくみじめなものでした、しかし山仕事にも行きやりくりをして何とかその年は暮れたのでした、やがて年が明けてランの花も少しずつ咲き始めました、いろいろ考えた末 何とか3つの案が浮かんだのです、そしてそれを一つずつ実行してみることにしました、その一つは農業雑誌に広告を出し カタログで注文を取って見た
のです、しかしこれは見事失敗、広告代にもならず借金の上塗りと成りさらに
窮地に追い込まれました、もうお金をかけることは許されません、しかし2つめの案からわずかに光りが見え始めたのでした、
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