私の回想録
    第33回  雪の降る町を 
私が3回目に北海道

へ行ったのは   

20歳の の時でした、 

その頃地域の青年

団でお世話になって

いました、
そして県

の青年団連合会で

青年国内研修と言う
企画があり早速


それに申し込

んでみたのです、


運良く採用になり 
その年は

北海道が研修地になって

いたのでした、
北海道の農家で1ヶ月働きながら各地の青年団活動を

学んで来るの
です、
やがて7月 15名の研修生が北海道へと出発しました、
3年前と同じく北陸本線から青森、函館を経て札幌へ到

着したのです、
ここで一同 一泊して市内観光をしたのですが私は一人

別れて3年前
の早来町のK氏の牧場へと飛んでいったの

です、
夕暮れの千歳線 赤い夕焼けが雲の間から覗いて見え

ます、中学生
位の兄弟が暗くなりかけた放牧場から一生

懸命牛を追って帰る光景
が見えました、
Kさんの牧場も3年前とほとんど変わっていませんでした
久しぶりの開拓地 夜遅くまで話し其処で泊めてもらった

のです、
3年前の事が思い出されてあまり眠れませんでした、朝

4時頃目が
覚めて薄暗い牧場周辺を 当時をしのんで散

歩したのです、牧草畑、
白樺林、そして大きなサイロも出

来ていました、
夜明けの北海道は実にすがすがしい気分なのでした、 
しばらくすると しまったと言ってKさん飛び起きてきまし

た、
昨夜遅かった為寝すごしたのです、さっそく搾乳をはじめ 
私も急い
で手伝ったのでした何とかまにあって朝の作業

も終わりその日Kさんは札幌周辺の牧場
見学に連れて

いってくれたのです、酪農雑誌で見た有名な牧場を7〜


軒見せてくれました、
行き届いた管理と規模 更にこうした牧場には夢があり

私も目を見張
ったものでした、
Kさんにお礼を言ってその夜 再び千歳線に乗り札幌駅

の旭川行き
改札口で一同と合流しました、

汽車の中で一夜を過ごし今度の研修
地へ着いたのは翌

日夕方でした
知床半島のふもと 斜里郡清里町が研修地でした、公民

館で一泊し
翌日受け入れ農家の人達が次々と迎えに来

てくれたのです、
私の受け入れ農家はTさんで15ヘクタールの畑作農家

でした、
広大な畑を機械と手作業で仕事を進めて行くのです、
オホーツク海からの涼しい風が通りすぎて行きます、夏

でも残雪の
残る斜里岳や知床の連山が夕日に映えて美

しく浮かび上がって
見えたものでした、

馬鈴薯、大手ぼう、小麦等の手入れをしたように
思いま

す、又1部の地域なのですが泥炭地といって土が火を付

けると
燃えるらしく少しくらいの雨では消えないそうで火

の用心には充分
注意するように とも聞かされ驚きまし

た、
さすがに道東の気候はあまり暑くありませんでした、
又雨など降ると肌寒くストーブを焚いたこともありました、
そして夜は連日のように各地の青年団の方と交換会が

行われます、
いろんな意見交換の後 ,教育委員会のO先生のアコーデ

ィオンに
より 雪の降る町を、や知床旅情の曲などをよく

唄ったものでした、
知床旅情は森繁久弥さんが知床ロケのときに作詞 作

曲して残した曲
でした、

その頃はまだ世に出ていませんでしたが それから数年

して
大ヒットとなったのです、

徳島からも阿波踊りの披露と和やかなうちにも夜がふ

けて行きました、
そして遠くから来た私たちを心から歓迎

してくれたのです、
北のはずれの地で唄った 雪の降る町を、の曲はなぜ

か心に残っ
たのでした、
雪の降る町を、雪の降る町を、思い出だけが通りすぎて

行く、、、、
そして夜更けと共に各受け入れ農家へと帰って行きまし

た、
さらに休みの日 地元の青年の方達とドライブに行った

のです、
知床半島のウトロ港や摩周湖へ行き 摩周湖では山道

を降りて湖岸
まで行ったのでした、日本一の透明度と聞

いていたように思いますが
その日は少しサザナミがあっ

たように記憶しています、
いろんなことがありやがて1ヶ月が過ぎ去りました、
農家の方、教育委員会の方、青年団の方に心からお礼

を言って思
い出の清里町を後にしたのでした、
帰るとき早来町の近くの駅を通る汽車の時間を知らせて

下さい
と Kさんから連絡があり その駅まで来るとKさん土産を持ってわざわざ来てくれていたのでした、
その後 約30年北海道へ行く機会はありませんでした、
この時の記録をスライドのフィルム700枚に収めて今も大切に保管しています、
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