プジョーとの因縁

 今でこそプジョーに乗っていますが、今から振り返ってみると偶然と必然の結果と思えてきます。プジョー購入までの道のりを簡単に振り返ってみましょう。


1985年〜1986年

 モータースポーツ好きであった私はWRC(世界ラリー選手権)にも興味を持っていました。当時のWRCはグループBと呼ばれるマシンが中心であり、現在では想像できないほどエスカレートしていました。その中でプジョーは205ターボ16というマシンを投入。それは400HP以上のターボエンジンをミッドシップに搭載する4WD。
 プジョーは205ターボ16により1985年と1986年の2年連続のメイクス/ドライバーズ(ドライバーはユーハ・カンクネン)タイトルを獲得(右の写真は1985年の205ターボ16)。残念ながら1986年のツール・ド・コルスで起こった事故がきっかけとなり同年限りでグループBマシンは姿を消しましたが、プジョーの活躍は当時まだ20代で血の気の多かった私の頭に強烈にインプットされてしまいました。


1986年11月

 新婚旅行でニューカレドニア(南太平洋に浮かぶフランス領の島)へ行く。そこで乗ったタクシーがプジョー505(右の写真は505GTI)。新車に近い状態でドライバーのお兄さんも自慢顔。カーステレオの音量をガンガンに上げてくれるサービス?もあり。タクシーながら国産車とは違う乗り心地に??。ここで再び頭の隅にプジョーがインプットされました。


1987年〜1990年

 またまたラリーの話題。グループBがなくなったWRCを後にしたプジョー205ターボ16は戦いの場としてパリ・ダカール・ラリーを選んだ。1987年は派手にデビュー・ウィン。それから何と1990年まで4年連続優勝という大記録を達成してしまいます。黄色(キャメルカラー)の205ターボ16や青(パイオニアカラー)の405ターボ16(右の写真)の雄姿は今でも強烈に頭に焼き付いています。当時は特にプジョーを応援していた訳ではありませんが、その強さは尋常ではありませんでした。三菱パジェロの戦いぶりなどと比べて、プジョーが何か未知の強さ(魅力)を秘めているような印象が残りました。


1992年〜1993年

 またまたモータースポーツの話し。パリ・ダカール・ラリーに続いてプジョーが戦いの場に選んだのがスポーツカー・レース。スポーツカー・レースの最高峰であるル・マン24時間レースにも1991年から参戦。そして1992年と1993年の2年連続で優勝。特に1993年は1-2-3位独占の快挙(右の写真は1993年の905)。トヨタや日産は今でもル・マンに参戦していますが未だ勝利なし。この差は歴然。ラリーでもル・マンでも参戦してわずかの期間で簡単に勝ってしまうこの強さの秘密は何?。当然毎年ル・マンをテレビ観戦していた私の頭にはプジョーの強さが強烈にインプットされてしまいました。

 それにしてもプジョーはフェラーリやポルシェにようなスポーツカーのメーカーではないのです。プジョーが作る市販車は派手とか奇抜とかいう言葉からは縁遠く、むしろ地味な印象を受けることもあります。こんなメーカーが一度牙をむくと何たる強さ!。車メーカーとしての底力を感じてしまうのは私だけでしょうか?。
 なお、プジョーは1996年からエンジン・サプライヤーとしてモータースポーツの頂点であるF1にも参戦しています。成績の方は1996年にR. バリチェロがブラジルGPで2位、1997年にG. フィジケラがドイツGPで2位。1998年にいたっては波乱のベルギーGPでプロストAP01にプジョーA16 V10を載せたマシンでJ. トゥルーリが2周遅れの6位に入賞するのがやっと。これまでに優勝はありません。今のところF1での実績ではルノーに負けているかな?。
 昔から特異のラリーでも306MAXIが活躍中。1999年からは206MAXIの登場も期待されます。
 頑張れプジョー!。


1997年6月〜7月

 いきなり時間がとんで1997年。乗っていたアスコット・イノーバが8月末に車検。そろそろ買い換えたい気持ちがムクムクと。何だか国産車に魅力を感じなくなってきたこともあって初の外車に心を引かれる。アスコット・イノーバの取り回しの悪さに嫌気がさしていた反動もあってスモールカーが魅力的に見える。
 まず、VWのポロを見に近くのファーレン高松へ出向き、同時にゴルフも見る。やはりポロは少し小さすぎるしゴルフもモデルチェンジが近いため??。それにしてもセールスマンの対応が非常に悪い。直感的に「ここでは買えないな」。
 しばらくして近くのヤナセへオペルのビータとアストラを見に行く。ビータはやはり小さすぎる。アストラ・ワゴンのやや心を引かれる。セールスマンの応対も問題なし。見積もりを取るでもなく、そのまま2週間程悩んだ後、やっぱり購入を断念。ゴルフ同様にモデルチェンジが近いし何か魅力に欠けるような気がした。
 そしてアスコット・イノーバの2回目の車検を受けました。


1997年8月

 場所は徳島県工業技術センター。仕事の関係で同センターへ行った訳ですが、その駐車場で見たのはピカピカのプジョー306。色は今思うとルシファー・レッド。とにかくプロポーションが抜群、色が抜群。ほとんど一目惚れ状態になりました。
 しかしながら、当時の306はハッチバックとカブリオレのみで、家族持ちの私には無理だと自分に言い聞かせる。所詮は叶わぬ思いなのかと一時は306を諦めた。


1998年3月

 アスコット・イノーバの車検を前年に受けたこともあって車の買い換えの気持ちはほぼ消えていた。が、雑誌でプジョー306のワゴン(Break)が日本で販売開始になったことを知る。この時、頭に蓄積されていたプジョーへの憧れが目を覚ます。
 意を決してカタログをもらうためにブルーライオン高松へ出向く。同じショールームにはプジョー以外にジャガーやマセラッティーが置いてあり、ファーレンやヤナセ以上に敷居が高く感じた。受付の女性に306のカタログをもらいそそくさと去る。今思うとなんとなく情けない姿。その後しばらく同じカタログを毎日眺める。まるで子供状態。


1998年4月

 再び意を決してブルーライオン高松へ。今日は家族同伴。ショールームの306styleを見る。残念ながら目的とする306Breakは展示されていない。6月の輸入車ショーでは306Breakの実車を見ることができるかも知れないとのこと。でもブルーライオン高松って家族的な雰囲気で案外いいぞ!
 2週間後、再び血が騒ぐ。6月まではとても待てない。再びブルーライオン高松に出向き306XSiを試乗。非常に緊張したが国産車にはない独特の乗り心地を経験。
 インターネットでプジョー関係の情報を集める日々。そこで決定的サイトに出会う。その名は横浜市の町側さんが主宰するFrench Blue Park。その掲示板はプジョーの楽しさや自由さであふれていた。これで事実上決まり。もう後には戻れない。
 306Breakの色は何にしようか。ルシファーレッドやファラオンブルーも魅力的だったが屋外駐車のため汚れや傷が目立つこともあって無難なプラチナグレーに決定。


1998年5月

 連休明けに再びブルーライオン高松へ。今度は購入を前提とした交渉が目的。はじめは不人気車ということもありアスコット・イノーバの下取り価格が低いことや予想以上に値引きが悪いことで難航。インターネットでプジョーの値引き情報などを集めて対抗。最終的にはブルーライオン高松の頑張りもあって交渉成立!。5月下旬に納車予定となる。
 出張で東京ビッグサイトへ行く機会があったので、ついでに近くのブルーライオン有明に寄ってみる。購入を決めたにもかかわらず本物の306Breakを見たことがなかったのである。しかしながらここにも306Breakは無かった。しかしプラチナグレーの306styleがあったので色をじっくりと確かめることができた。国産車のシルバーメタリックとはやや異なる引き締まった色。この色は正解であったと今でも思っている。

 納車を間近に控え非常に悲しい出来事。家内の父が逝った。納車は延期。


1998年6月2日

 ついにプラチナグレーの306Break納車の日。義父の葬儀から間もなくということもあり素直に喜べない。でも忘れられない日になりそうだ。

 306 Breakとの極楽日記へと続く