松島地区の経緯

 松島地区は、御坊川の河口に広がる沖積地に位置する。
今橋から千代橋の街道筋が基点となり発達した地域である。

 松島神社境内には、青物市が立ち、
松島の大根売りと言い高松市街地へ行商に出かけていた。

 仙波川は、今橋から上流を玉川と言い、
玉川水門から灌漑用水を引き20町歩の農地があった。


 水門近くの高橋には多賀神社がある。
今橋の東は八丁土提、その東を沖松島と呼ばれていた。

 現在は福岡町となっているが琴電志度線の沖松島停車場が
その名残である。

 大正期には、工業化が進み、丸高製紙工場(現・讃州製紙)を
始め、畑尾鉄工の農機具は高松の三大鉄工に数えられている。

 軍需工場では飛行機の生産もしていたが、空襲で喪失し、
げんざいは、高松商業、高松中央高校の敷地となっている。
 
 香川郡東浜村、福岡下村が明治23年2月15日に合併して、
東浜村になり、大正10年1月1日に高松市に合併し、
福岡町、松島町、花園町、塩上町に分かれた、昭和39年7月1日
に松福町1〜2丁目、松島町1〜3丁目、福岡町1〜4丁目の
現在の住居表示となる。

松島校区世帯数・人口

年度 世帯数 合計
昭和16 1.264 . . 6.262
   20 836 . . 6.262
   28 1.426 . . 5.889
   40 4.594 7.451 8.007 15.458
   50 4.856 6.587 7.095 13.682
   60 4.705 5.607 6.183 11.790
平成 7 4.669 5.008 5.307 10.315
   17 4.651 4.532 4.746 9.278

(単位:人)

                高松空襲

 1945年(昭和20年)7月4日未明、ここ高松市は米空軍B29戦略
爆撃機116機による、焼夷弾の絨緞攻撃を受ける。

 被災地域は市街地の約80%、被害建築物18,913戸、罹災者
86,400人(当時の人口の約60%)、死者1,359名一夜明ければ、

東の空から血の固まりのような太陽が、ゆらゆらと昇り、昨日まで
そこに在った高松の町並みは見るも無残な廃墟と化し、
道端には屍が累々と横たわっていた。

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