第12章

6年生を送る会 …おそらく、どの小学校でも、そのようなイベントは あったに違いない。中学校なら3年生を送る会である。 後に私が進学することになる百間中学校では、 「3年生を送る会では名前がダサい」と生徒会を開いて名前を変更し、 「三送会」になったりしたこともあった。

笠原小では、6年生を送る会はいつも東武動物公園で行なわれていた。 何をやっていたのかは良く覚えていないが、「卒業生の出し物」 というのは毎年あったような気がする。あとは動物園だけに、 動物を見たりしていた。

当時私は、こういう退屈なイベントのときは、必ずといっていいほど ゲームのことについて考えていた。思考の占有率を割合で表わせば、ゲームが9割、 実世界が1割という感じだったであろう。端からみたら 実にボーッとした子供だったに違いない(まあ、ボーッとしていたのだが)。

その日に考えていたのは、まず昨日買ったベーマガのことについてだった。 「帰ったら『緑のみの虫』を打ち込もう。何時間くらいで打ち込める だろうか…2時間くらいかなあ」などと考えていた。 また、その他、オリジナルゲームのアイデアについても思索した。 そのゲームは、異様に面白そうだった。考えるだけで、胸踊る気分になった。

何故、そのようなゲームを思いついたのかはわからない。もしかしたら、 サル山などを見て何か連想するものがあったのかもしれない。 しかし、そのゲームについて考えていたのは、主にライオンのあたりを見ていた ときだったような気もする。

とにかく、そのゲームは、岩山を登っていくゲームだった。 プレイヤーは、横や上に伸びた棒をうまくつたって、上へ上へと登っていく。 何故か、イメージした画面は白黒であった。敵は居ず、とにかくただうまく 自分を操作して登っていくだけのゲームである。しかし、どういうわけだか、 めちゃくちゃ面白そうに感じた。

そのアイデアは、その後少し形を変えた。まず、棒の存在はなくなった。 実際にゲームとしてルールをどう実現するかがいまいち具体化できなかったのと、 プログラムが面倒そうだったというのが理由だ。代わりに、ジャンプが できるようになった。ジャンプ中に左右に動くこともできる。 このアイデアは、おそらく任天堂の「アイスクライマー」が最初だっただろう。 そう、そのゲームは、まさに「アイスクライマー」に影響を受けていた。 「アイスクライマー」は、面白い・斬新・演出がイカす(GAME OVERの ときとか、音楽とか)と3拍子揃ったゲームで、当時のハマり度No.1の ゲームであった。その面白さをなんとか自分のプログラムでも表現したいと 思ったのは当然ともいえる。そうなると、当然画面は縦スクロールである。 ゲームアイデアが先だったかスクロールルーチンが先だったか、 とにかくそのころ私はちょうどマシン語が使えるようになったところだった。 このルーチンを使いさえすれば、あとは難しいところはほとんどない。 私は、そのゲーム「 MOUNTAIN CLIMBER 」の制作に取りかかった。

このゲームの制作は非常に楽しかった。といっても、スクロールルーチン は完成しているので、ジャンプルーチンと落下ルーチンさえ作れば、 あとは難しいところはほとんどない。このゲームの制作に関しては、 「デザイン」の部分が大きかった。それは、タイトル画面からはじまり、ゲームオーバー、クリアの処理などであった。 ちなみに、タイトル画面は、学校から帰ってきた土曜日の昼2時頃に 作ったような覚えがあるが、「よーし、カッコいいのができた」と 思っていたところで 間違ってHOME CLRを押してしまい、 もう一度デザインする羽目になったこともあった。

しかし、デザインのメインは、やはり「ステージデザイン」であった。 このゲームは1ステージしかないが、画面がスクロールするため、 タテに100キャラ以上にも広がっている。これはまずノートにデザインして、 それを見ながらプログラムとして打ち込んでいった。この面データが プログラムの半分以上を占めていた。この面データは、今見ても、 なかな波乱万丈の面白い仕上がりになっていると思う。

このゲームは、あまり作成経験のないサイドビューのジャンプ型ゲームであり、 特有のバグ(ジャンプして金塊の上に落下しても金塊が取れないなど)も あったが、それでもデバッグは順調に進み、 いつしかプログラムはほぼ完成していた。

当時ベーマガを読み始めたばかりの私は、このゲームを投稿することにしていた。 「やっぱ白黒じゃあ載らないかなあ」などと考え、直前にカラー化したりもした (しかし、これは裏目だったような気もする。P8ユーザならわかるだろうが、 スクロールルーチンはアトリビュートエリアに全くアクセスしていなかったので、 色がやたらとバケるようになってしまった。当然、当時の私にはそこまで考えられる 実力はなかった。「N80モードだからか?」とか、見当違いの ことを考えたりしていた)。そして、投稿。

発表は9月号だった。 夏休みにはカブスカウトのキャンプに行ったりもした。 そして、9月号を見たのはそのキャンプの帰りに 駅から歩いて帰る最中であった(キャンプ中だったため、発売日には 買えなかったのだ)。結局載っていなかった。しかし、 「明日のSTAR PROGRAMMER」に載っていたことは驚きであった。 初投稿でこのような快挙をなしとげたことに、素直に喜びを覚えたのだった。 そのため、翌日関根(仮名)にベーマガを貸して、あとで「どうだった?」と聞いて みたが、全く気付かれなかった。まあ、あたりまえのことだが…。

(つづく)


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