終章

巷では、人気アイドルグループ おにゃん子クラブ の曲が毎日のように流れる。

6年生の秋。小学校生活も、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
いつも通りに過ぎる日々の中で、しかし、時代は確実に変わろうとしていた。

PC-8801mkIIFR。
1年ほど前から話題になっていた、NECの超高性能8ビットパソコン PC-8801mkIISR・・・その廉価版である。
FM音源搭載。320x200ドット、512色中8色の超強力グラフィック。 クロック4MHzのハイスピード。ディスク標準装備。 まさに、(私の)当時の常識を覆すスペックであった。

この憧れの機種を、戸塚(仮名)が手に入れたのである。
とはいえ、喜び勇んで彼の家に行ったはいいが、FRは、画面がまともに 映らないという症状にかかっていた。
いわゆるパソコン博士的存在 である私に期待がかかったものの、 「ハードウェア」とか「最新機種」とかは 専門外であったため、 よくわからず、結局そのまま数日が過ぎた。
毎日のように戸塚の家に通い、なんとかこの夢のパソコンを動かしたいと 試行錯誤していくうち、マニュアルに「ディスプレイの設定」という記述が あることに気づいた。どうも、ディップスイッチの設定を変更する必要が あるらしい。

「もしかして、これか?」半信半疑でディップスイッチをいじってみると・・・。

映った。画面は確かに、ちゃんとゲームの画面を映し出している。 「やったぞ!よーし、このことはみんなには内緒にしておこう。 映ったことがばれたら、大勢で押し掛けてきてしまうからな。」 そして我々は極秘で、戸塚が本体と一緒に買ってきたそのゲームをはじめたのである。

そのゲームの名は「PHANTASIE(ファンタジー)」。ベーマガで、 手塚一郎というライターが「絶対買うこと!これは命令だ!」と絶賛していた ゲームである。純真な我々は、当然このゲームを、ファミコンなどは及びもつかない、 至高のエンターテインメントであると信じていた。戸塚も最初のゲーム選びには 慎重になっていた筈だから、まず間違いがないと思われるこのゲームを 買ってきたのであろう。

ベーマガで紹介されていた通りの画面がディスプレイ上に展開され、我々は ワクワクしながらゲームを進めた。町、フィールド、ダンジョン、確かにファミコンとは 違う。高級感が漂っている。

しかし、そう長く経たないうちに、我々の「思いこみ」は裏切られていく。 変化に乏しい画面。マニアックでよくわからんストーリー。煩雑な操作。 「・・・」疲れとともに、しだいに飽きがくる。 そして、極めつけは、戦闘後の「パーティーは、たいれつをととのえている」。 1回戦闘が終わるたびに、「たいれつをととのえ」るディスクアクセスが 1分ほど続く のである。「なんじゃ、こりゃー!」期待感は、いつしか、 怒声へと変わっていた・・・。

これ以降、我々の手塚一郎に対する感情は非常に悪化する。彼はその後も、 「ティル・ナ・ノーグ」や「ルナティック・ドーン」で同様の罪を繰り返し、 ファンタジーおたくでない一般読者たちに 絶大なダメージを与えつづけていくので あった。まあ、「ティル・ナ・ノーグ」は、私の買ったのは2のほうだったので、 1を買えばもしかしたら面白かったのかもしれないが。

それはともかく、PC-8801mkIIFRの魅力は、何もゲームだけではない。 むしろ、私の興味は、「どんな凄いプログラムがこの機械で作れるのか?」 であった。

まず一番の魅力といえばFM音源であろう。別にFM音源でなくてもいいのだが、 とにかく音楽が演奏できるというのは、PC−8001mkIIでゲームを 作ってきた私にとって、夢にまで見た機能であった。ドラクエの竜王のテーマを 入れてみたり、あるいはベーマガのミュージックプログラムを打ち込んだりして、 一日一曲は入れていたように思う。その他、ベーマガの88SR用のゲームを入力して みたりもしたが、これはあまり面白くなかった。

そのうち、この機種で、「RPGを作ろう!」という企画が持ち上がってきた。 当時RPGというのは、ようするに「ドラクエみたいなゲーム」のことである。 PC−8001mkIIではなかなか実現は難しそうだったが、このFRを使えば 容易に実現することが可能である(・・・と思えた)。 かくして、超本格RPG 「タラコクエスト(仮名)」 の開発はスタートしたのである。 ゲームを作ったことのない友人たちには随分面白そうな遊びに思えたろうし、 私としても、こうして大人数のチームでゲームを作るという経験は ほとんどなかったため、この企画には惹かれるものがあった。 我々は、昼休みに図書室で洞窟のマップ作りに励むなど、活動を始めた。 今から考えると、マップ作りしかやっていなかったような・・・。 しかし、皆でワイワイ言いながらマップを作っていくというのは、 なかなか楽しい作業であった。

とにかく、マップがなければ始まらない。私は、まずマップエディターを作り、 外世界のマップを入れ始めた。1画面が10x10で、それが8x6くらいの スケールだったろうか・・・。マップのセーブは、ドットで表したものを GET@してプログラムにDATA文で格納する という方式を取っていた(そのため キャラが8種類しか使えなくて苦労したが)。余談だが、 このときFRのPUT@命令の速さに驚いて「すげー、速ーぜ!」とか言っていた記憶がある。

次はキャラクターエディターであるが、私はどうしても「ライン&ペイントのほうが そのままドットで格納するよりデータが少なくて済む」という観念が頭から離れず、 なんとか ライン式でエディターを作ろう と苦労した。何しろ驚いたことに、 FRにはテキストのライン命令がないのである。そのため、わざわざN-BASICを 起動して作ってみたのであるが、こんどは「DISKが使えない・・・」という 問題が生じる。

まあ結局、そのへんまで来たあたりで、 みんな飽きてしまって あまり作らなくなってしまった。やはりゲーム作りというのは基本的に面倒なもの なのである。
プログラムがわかるのが私一人というのも災いした。なにしろ、 私がプログラムを組んでいる間は、他のメンバーが何もできないのだから・・・。

そんな中、私の家でも変化が起きていた。
「PC-98を買う」ということになったのである。
そして、古いパソコン(PC-8001mkIIのこと)は、売ってしまおうという話に なろうとしていた。 しかし、当時まだ「GOLD ATTACK」の制作も途中であった。mkIIに当然愛着もある。 だいたい、98に変えてしまったらこれまでのゲームができなくなる。 簡単に手放す気にはならない。私は当然のように反対した。

しかし親は、「そんな古いパソコン、持っててもしょうがないだろう」 と、この私の意見が全く理解できないようであった。 もともと、両親は私がパソコンにのめりこむことにあまりいい顔をしていなかった というのもあり、私もあまり強くは出られなかった。 結局、親の友人に売って、必要になったら買い戻すことができるということで、 ディスプレイだけは売ってしまうことになった。本体は残るとはいえ、 もはや使うことができないのは同じである。

卒業も間近の小6の3学期、その機種、PC-9801UV2は家にやってきた。 そして、mkIIのディスプレイは、売り払われていった。
発売から3年、もはや完全に時代に取り残された機種となっていたPC-8001mkII。
すでに友人たちからも、 ロースペックの代名詞 としてバカにされる機械となっていた。
もはや「捨てるべき機種」であるのは明白である。そして、一度手放してしまったら、 もう2度と蘇ることもないであろう・・・。
もう、PC-8001のゲームで遊ぶことはできない。
「GOLD ATTACK」を完成させることも、もうできない。
いつか作ろうと思っていた「MAZE HOUSE」も、永久に未完成のままとなった。
「まだ取り戻せるかもしれない」というかすかな期待があったため それほどの悲しみはなかったが、やはり多少の寂しさがあったのは事実である。

PC-9801UV2は、PC-8801mkIIFRで最新のスペックに触れていたはずの私をも 驚愕させるパソコンであった。
美麗&高速な、デモプログラム。
FRのそれを遥かに超える、超高速PUT@命令。
最大16枚まで持てる、グラフィック画面。
そしてなんと、BASICでグラフィック画面のスクロールができる、ROLL命令。
とにかく、なんとも底の知れない、恐ろしい機械であった。 同時に、この機械の性能を使いこなすのは、もはや不可能ではないか? とも感じていた。

学校は小学校から中学校に、パソコンは8ビット機から16ビット機に。 環境はドラスティックに変化しようとしていた。

PC-8001mkIIと過ごした幸福な時間は、終わりを告げようとしていた。

<完>


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