観音堂他
観音堂他
■ 観音堂(国指定重要文化財)
丈六寺の観音堂普門閣は、室町末期永禄10年(1567)に細川真之(さねゆき)が父持隆(もちたか)の17回忌に寄進したものです。
何回か解体修理されましたが、室町末期の姿が保たれていて、三門とともに県下で最も古い建築物です。
三間堂の2階建てのように見えますが、一間の堂の周囲に一間通りの裳階(もこし)を付けたもので、禅宗様式と和様が混ざる折衷様式となっています。
■ 聖観音坐像(国指定重要文化財)
観音堂に祭られている聖観音坐像(しょうかんのんざぞう)は金箔仕上げの檜寄木造りで、高さはおよそ3.6m。 立ち上がれば身の丈がおよそ4.8m(一丈六尺)になります。
この大きさの仏像は一般に丈六仏(じょうろくぶつ)と呼ばれ、寺の名の由来ともなっています。
観音様が左手で持っている蓮のつぼみは悟りをまだ得られない、人間をあらわしています。観音菩薩はかざした右手で、いままさにつぼみを開かせ極楽浄土への悟りに導こうと説教しているお姿です。
この観音さんを修理したときに、身長32cmの胎内仏を発見し、現在は宝物館に納められています。
■ 丈六寺墓石群
観音堂の前にあるのが山田織部佐宗重の墓です。
山田家は徳島藩では稲田家、賀島家に次ぎ5千石を給される家老でした。
阿波騒動(阿波徳島藩第11代藩主蜂須賀重喜の藩政改革に反対し、閉門となる)その後、重喜も失脚、同家は復活します。
山田家墓群は観音堂のすぐ裏にあり、立派なお墓が並んでいます。
お辰の方の墓
丈六寺は蜂須賀家正(藩祖)が末娘、四女お辰の方のために改築したもので、お墓は観音堂の裏山にあります。
お万の方の墓(無縫塔)
蜂須賀至鎮(よししげ・初代藩主)の二女として徳島城で誕生。
13歳で水野出羽守(直参旗本3,000石)に嫁ぎます。幡随院長兵衛と対立した水野十郎左衛門の母で、十郎左衛門切腹後、お家は改易、阿波へ帰って69歳で没します。
細川三代の墓
守護職として権勢を奮った細川一族のうち、成之(7代目)・持隆(11代目)・真之の墓が庫裏の裏山にあります。
中央(無縫塔)が丈六寺創設の細川讃岐守成之(しげゆき)墓
標識の向う、わずかに見えるのが
持隆(小型五輪)墓
右が真之(小型五輪)の墓
細川三代の墓の隣にあるのが、金岡用兼禅師(開山)霊廟です。
室町時代の文正元年、阿波の守護、細川成之は、芸州洞雲寺の高僧金岡用兼禅師を招いて、瑞麟山慈雲院丈六寺を興しました。
■ 新開入道道善の墓
二の門の上の堤防上にある祠が新開廟です。
阿波那賀郡牛岐城主として阿波国守護細川氏に仕え、細川氏滅亡後、阿波の実力者である三好義賢の婿となり、その麾下として活躍、北上する長宗我部元親と戦います。
のちに長宗我部氏に降ったが、天正9年丈六寺で元親に謀殺され、血天井伝説が生まれました。
稲田稙元(阿波藩筆頭家老)供養塔
蜂須賀家主席家老で天正13年、一万石の阿波脇城主となります。朝鮮征伐、関ヶ原合戦、大坂の陣に参戦し、戦功により淡路に四千石を加増され、洲本城主となります。
後世、稲田騒動(庚午事変)で有名。
県道沿いに、稲田修理亮示稙(稙元の子)の立派なお墓があります。
益田豊後長行(ましだぶんごながゆき)の墓
蜂須賀家と縁戚関係にある益田家は家臣団の中では、首席家老稲田家、次席家老賀島家に次ぐ家格として、軍事支配体制の中で、強大な権限を持った有力な家老でした。
海部騒動で有名
以上のほかにも家老賀島墓群、中老生駒墓群をはじめ、有名人のお墓が多数あります。室町時代、丈六寺を興した阿波の守護、細川家のお墓が質素なのに対して、江戸時代のお墓は競って豪華になっていきます。
近世、阿波を舞台に登場した主役がすべてここ、丈六寺に眠っています。それほど丈六寺はときの権力者にとって重要な場所だったのではないでしょうか。
お暇な折に足を運ばれてはいかがでしょうか。
今回HPを作成するに当たって、県シルバー大学、大学院歴文コースの赤池様にご協力いただきました。有難うございました。