PTA活動を通して社会変革を
不登校ぎみの児童
 私は、小さい頃は病弱だった。3日にあけず風邪を引いては病院に掛かっていた。家の中に引きこもりがちで、一人遊びが多かった。
 幼稚園に通うようになっても、なかなか集団生活に馴染めず、小学校の低学年まで不登校ぎみの児童であった。
「どうして、友だちと同じように学校へ行けんの」
 元気に学校へ行って欲しい、と言われても、一人では学校に行けなかった。
 2年生の1学期と記憶しているが、何の拍子か、母の気持ちが伝わってきた。私が一人で学校に行けないから、母が困っている、悲しんでいる。私の気持ちが急に一新した。次の日から近所の友だちと学校に通うようになった。

嫌なことが多かった
 小学校6年間、中学校3年間、毎日の教室の中では、楽しいこともあったが、嫌なことやつらいことも多かった。
「僕が、何でそんなことを言われなきゃいかんのか」
「なぜあの子だけが、あそこまで嫌らしく言われるんだ」
 当時も言葉によるいじめがあった。教室の中で、みんなの前で、大きな声でののしられた。本当に悲しくてつらかった。
 あの時、それをどのようにして乗り越えたのか、私はよく覚えていない。私もあの子もつらい気持ちを誰にも言えず、その時が一刻も早く過ぎ去ってくれるように、その場でじいぃっと下を向いたまま耐えていたように思う。

子どもの世界
 子どもの世界では、コミュニケーションの方法(表現の仕方)が未熟であり、態度も無遠慮だから、大人が見て問題がない様子でも、その内実はお互いに傷をつけ合っていることが多い世界である。
 大人社会では『建て前や狡さ』をごく当たり前のように使い分けて、お互いが妥協し合ったり冗談や皮肉を言い合ったりして、極端な摩擦を避けようとしているが、子どもたちの社会では、相手を傷つけようとする意図がなくても、ごく自然に言ったことやごく当たり前に接したことが、ストレートに相手の心の中に「嫌な事」として突き刺さる(場合がある)。
 また、他の場所で受けたストレス(不平・不満の状態)が溜まってくると、特に仲のいい友だちやあまり目立たずおとなしい者に、直接的に当たり散らすことがある。その結果、ストレスが発散されたような気持ちを経験すると、他からストレスを受けるたびに、その子たちにイライラした感情を繰り返しぶつけていくようになる。
 今、思い返してみれば、多くのつらくて悲しい場面が浮かんでくる。

普通の児童・生徒
 しかし、私個人にはいろいろと目立つ場面があったから、外見からは、つらくて悲しそうには見えなかったかもしれない。
 小学校では学級委員や児童会会長になったり、学芸会では劇の主役をしたり、運動会の徒競走では細身でわりと足が速かったからいつも上位の順番だった。
 中学校でも学級委員になった。クラブ活動はバスケットをした。授業中の教科内容も程々に理解できた。バスケットの練習は厳しかったが、食事の量が倍以上に増えて、体力が一気に向上した。
 このような一つひとつの情景から、まわりの人には、私の学校生活は楽しそうに映っていたであろう。
 しかし、私にとって、毎日の学校はそんなに気楽な場所ではなかった。クラブ活動をしていても、晴れ晴れしい気分になることは少なかった。今でも私自身は重い足取りの小学校と中学校の9年間を過ごしたと思っている。
 しかし、これが当時の「ごく普通」の児童・生徒の姿でなかっただろうか。

学校という社会
 あの当時、学校の教室の中は、本当に嫌なことやつらいことが多かった。また、行事やクラブ活動に参加していたが、そこも楽しい場所ではなかった。こんな屈折した思いを「ごく普通」の私だけでなく、ほとんどの「ごく普通」の同級生たちが持っていたように思う。
 なぜだろうか。
 それは、当時の「ごく普通」の児童・生徒の私たちは、家の(経済的な)貧富の差と勉強の優劣の序列がはっきりと「表沙汰にされて」いて、学校生活の様々な場面において、表面上は仲良く楽しそうにやっていても、気持ちの中ではその序列作用が働き、いろいろな場面で訳の解らない差別的扱いを受けていた。今にして思えば、理不尽で矛盾したことが多かった。
 しかし、子ども心には、それが「ごく普通」の学校(という社会)である、と思っていた。息苦しい社会であったが、当時はそれが当たり前のことであると思って疑わなかった。

家庭やご近所の宝物
 そんな私(たち)にとって、学校から帰ったら家庭やご近所という楽しい場所があった。屈折した思いを持ち続けていた私が、その後、毎日学校に通うことができたのは、楽しい家庭やご近所があったからである。
 近所で遊んでいても、いろいろな衝突はあったが、いつも豊かな人生経験を持った多種多様な人々が私たちを右に左にと振りまわしてくれた。
「こらっ、何しょんな(何をしているのか)」
「しっかりせんかい、親に心配かけたらあかんでないか」
「待てぇ、ワシがやることをよぉく見とけよ。そんな事もでけんのか(できないのか)」
 そう言いつつも「おぉ、お前もなかなかやるでないか」と何か一つは褒めてくれた。「よっしゃ、ようできたなぁ。今度はワシ等を助けてくれよ、頼むぞ」と言って、子どもながらも私たちを一人前に扱ってくれた。
 そしてまた「学校では先生の言うことをしっかり聞けよ」と言いながら「学校も大事だ。いい成績も必要だ。けどなぁ、学校だけがすべてじゃない」と教えてくれた。そんなものかなぁ、と思いながら、聞いてホッとしていた。
 当時の多くの大人たちは、私たち子どもを本当にご近所の宝物として眺めてくれていた。だから、私たちはいつも家から外に出て、その辺りで伸び伸びと遊んでいた。

当時の「近所」と今の「社会」
 日本全国の事件や事故のニュース、天気予報などの情報がテレビやインターネットを通じて瞬時に伝わってくるようになった。このように情報化が進んだ現代社会では『社会』と言えば、日本全体をイメージするようになった。
 しかし、私が子どもの頃、昭和20年代〜30年代にかけては、自分の家の近所、地域が『社会』であった。ニュースにしろ、天気予報にしろ、まだまだ日本全体で共通に把握できる時代ではなかった。
 当時の『社会』(自分の家の近所、地域)は、今と比べれば「単色の風景」であった。町筋には商店の派手な看板もなく、多彩な家並みもなく、また私たちの身の回りでは、物が少なく、生活は質素だった。朝から騒々しい自動車のエンジン音もしなかったし、テレビの音が部屋から1日中聞こえてくることもなかった。
 朝御飯を家族みんなでゆっくり食べて、寄り道しながら学校へ行った。学校では中庭や運動場で走り回り、帰ってきたらカバンを玄関に置いたまま、外へ飛び出していった。夜は夕食の後も家族が何かしながら一部屋に座っていた。
 贅沢な物や豪華な食事はなかったけれど、その時その場は豊かに満たされていた。1日24時間、家庭や学校や近所で過ごす中で、ゆったりとした時間が流れていった。

進歩したのだろうか
 今はそんな悠長な情景が消えてしまった感じがする。
 当時は1泊・2泊した旅行も、飛行機や高速道路を使えば移動時間が短縮され、簡単に日帰りができるようになった。しかし、その行き帰りの風情を楽しむ『ゆとり』がなくなった。
 近所には小売店が並んでいた。買い物は、近所の八百屋や魚屋で「今日はこれが旨いょ、どうで?」「この調理方法は?」など日常生活の秘訣を教えてもらいながら、必要な量の食材だけを買っていた。
 それが、大安売りだ、バーゲンだってことで、車で20分や30分の距離にある郊外の大型店舗へ買い物に行って、大量に購入してきては、家庭の大型冷蔵庫に溜め込んで、結局は無駄な生ゴミにしてしまうことが多くなった。
 買物した品を包む華美な包装紙は家庭でゴミに変わり、ジュースやビールを飲めば贅沢な容器がゴミに化ける。ゴミとはいえないゴミが増え続けていて、どのようにして減量するかよりも、その処分方法に喧々囂々の議論をしている。
 銭湯では、大人同士は交替で背中を擦り合いっこしたり、子どもたちは友だちと大きな湯船でキァアキァア言いながらお湯を掛け合ったりした。ちょっと体が不自由な人でも、まわりの者から見守られながら、のんびりとお風呂を楽しんだ。
 現在のように税金を使った介護サービスや食事サービスはなかったが、ご近所同士が少しずつの気遣いでお互いに助け合っていこうとする「お付き合い」があった。
 今では、そのような小売店や銭湯など、近所の人たちが日常的に気軽に集まって情報交換をする場がどんどんと減ってしまった。
 それに代わって、テレビから全国各地の凶悪事件の情報が瞬時に伝わってきたり、私たちの日常生活にほとんど関係のない芸能人の軽々しいスキャンダルも公共の電波に乗ってやってきたりしている。
 今日のような社会状態を進歩だ、発展だと言うのであれば「何において」の進歩や発展なのだろう。そして私たちは、これから先も社会全体の時間的便利さと物質的な贅沢さだけを追求し続けるのだろうか。

学校よりも家庭と地域社会
 路地裏で鬼ごっこや缶蹴りをした。缶は貴重品だったから、ひしゃげたら何回も拡げ直して使った。何かあるとすぐにおっちゃんに叱られたり、おばちゃんに褒められたりした。原っぱでチャンバラごっこや素手のグローブの草野球をしたり、山で隠れ家を作ったりした。
 このように、私たちの世代には、学校よりも家族や近所のおっちゃん、おばちゃん、原っぱや海や山に多くのエピソードが残っている。
 学校の思い出も数々あるが、それは1日のある一部分において、学校施設の中で、先生を交えて過ごした思い出であって、そのことよりも、上下7歳、8歳ぐらい違う近所の友だち(今でいう異年齢集団)や近所の人たちの中(今でいう地域コミュニティー)で過ごした思い出の方がずっと多くて、今でも記憶の中に鮮明に残っている。
 だから私は、親になっても小学校や中学校の様子について無関心であった。
「学校での子どものことは先生にすべて任せてある。親が学校に出向いていく必要はない」
「運動会や卒業式には出席しても、PTAには全く関わらない」
 と考えていた保護者の一人であった。

私のPTA活動の発端
 私の30歳前後の頃、仕事(信用金庫事務センター)は勤務時間が不規則で残業が多かったし、ストレス解消で始めた硬式テニスも楽しかったから、考えることは自分や家族のことだけであった。それ以外の事に注意を向けることも少なく、いや、それ以前に世間の事に「関心を持たねばならない」などの問題意識も低かった。
 政治(これについては大学卒業後、当分の間、意識して避けていたが)や教育、地域のことについて、それぞれにその分野に関わる人がいて、その人たちが「現在、それなりにやっているのだから、それはそれでいいじゃないか」この程度の認識であった。日々の出来事に対して、賛同や批判、意見や提案を持たない無関心者、一般的ノンポリ(非政治的)、マイホームオンリー(家庭第一主義)の姿そのものであった。
 当然に、PTA活動に参加したり、PTAの役員になって、あれこれと動いたりすることなど、それこそ全く眼中にも頭の片隅にもなかった。
 そのような私がこれほどまでにPTA活動に入れ込むことになった、その出発点は何だったのだろうか。
 それは、保育所の保護者会活動を通して子どもたちの純真さを知ったこと。親心として、子どもたちに「大きくなるに従ってもその純真さだけは決して忘れないで」と祈ったこと。子どもの旬(育ち盛り)の時に、子どもの成長と同時に親として成長できる喜びがあることを知ったこと、であった。
 そして何よりも、現在の様々な社会環境や教育環境を、自分の仕事を通して視るだけでなく、私たち一組の親子にとって適正な環境なのかどうか、もし不都合な点があれば、みんなが力を合わせて変えていこう、仕事もお金も大事だけど、親子関係(家庭環境)を破壊(犠牲に)してまでも守らなければならない環境なんて、この社会に存在しないんだ、ということを実感したからであった。
 これが私のPTA活動への発心(ほっしん)であった。

大人にも子どもにも
 大人にとっては無害だが子どもには有害だ、またその逆のこと、そんな都合のいい社会事象は存在しない。有害なモノは、大人にも子どもにも有害である。苦痛なモノは、大人にも子どもにも苦痛である。
 例えば、大人の自殺は大人だけの問題でない。子どもたちにも何らかの圧迫感となっている。事実、子どもの死因のトップは自殺である。これこそが、何を差し置いても、今一番に解決すべき最悪にして深刻な社会問題である。
 私たちは、この問題を、早急に、抜本的に解決すべきだと憂慮している。わが子やわが子の友だちの事を心配して、思案して、イライラしている。しかしながら、何から手をつけたらいいのか、ウロキョロしているだけである。そして、そのうちに自殺者は減るだろう、静まってくるだろう、と高を括っている。私たち一人ひとりは非力である。
 そして、このような社会の有害事象を直接的に解消する責任がある政治家や経済界の組織体さえも何ら強力なメッセージを発しようとしない。たとえどのように世の中が豊かに見えても、自らが自らの命を絶つ、という一番悲惨な現象が増加しているにも関わらず、まるで他人事のようである。一つや二つの親子関係(家庭環境)が破壊されても、自分が安住できる組織体を守る方が大事であると勘違いしているようである。立派な肩書は何のために付いているのだろうか。
 空しく、悲しいことながら、責任ある立場の者たちが「自分も子の親、あの人もあの子の親である」という『人の生きる意味の根本』について鈍感になっている。悲惨な現実を知りながら、わざと目を逸らし、弱者を切り捨てている。
 そうじゃない。それではいけない。社会の中で起きている不愉快な現象は、「あぁ、自分でなくて、自分の家族でなくて良かった」「そのうち誰かが蹴散ら(解決)してくれるだろう」「別の分野の大事件でも起きたら、関心が薄れて自然と消えていくだろう」 などと、楽天的にお祈りしていていても、何一つとして解消しない。

PTA活動は社会変革の原点
 私たち大人が社会人として今日まで継承して造り上げてきた現代社会は、大人に対しても多くの問題を突き付ける複雑な社会となっている。ましてや、純真無垢で免疫のない子どもたちにとっては、大人には想像できないような堪え難く息苦しい社会となっている。それは、最近の青少年の自殺や事件(凶悪犯罪)の増加そのものが、それを顕著に証明している。
 この社会の中で、次の時代を生きる子どもたちを育てる、というけれど、今の社会状態でいいのだろうか、このまま引き継いでいいのだろうか。子育てを通して見えてくる社会的疑問や矛盾をそのままにしておいていいのだろうか。
 決してそれでいいわけがない。私たちは、なんとかしたい、と願う。
 そこで、私たちの願望を可能にできるのがPTA活動である。
 PTA活動とは、子どもたちに関わるすべての人たちが「子どもたちのために」を合い言葉にして、諸々の社会的問題を明確にし、それらの解決に向けての社会改革を推進する社会的ボランティア活動、青少年育成活動である。
 ここで私は再度多くの社会人(保護者)に訴えたい。
 私たちは、私たち社会人の義務と責任において、PTA活動に参画して、社会的問題を明確に把握し、何をどのように変えていきたいのか、変えねばならないのか、その点について、正直に、真剣に話し合い、そして、問題解決に向けて、私たちでできることから、実践していこう!

私たち大人の錯覚
 私たち現代人は、社会生活の中で、いつの間にか「規模の大きさ」から物事の価値を判断する習性を身についてしまっている。そして、人が所有する資産や財産、仕事上の肩書で、その人の人間性の善し悪しも判断している。
 初対面のとき、相手をじっくり観察しないうちに、名刺に書いてある会社名や役職を見て、その人の個人的な生き方や考え方までも立派であると思ったり、多くの資産を持っているから偉大な人物であると評価したりしている。
 これらは社会生活を送る私たちにとっては、ごく自然な習性かも知れないが、残念なことに、その習性でもって、PTA活動を錯覚する人たちがいる。
 つまり、子どもと接する(程度の)PTA活動よりも、政治課題を討論したり、経済問題や自然環境を議論したりする方が「大きなテーマとして、私たちには有意義である」このような錯覚である。
 もちろん、政治や経済の社会的課題を一つひとつ取り上げて、その具体的解決策を探ることは大事である。しかし、だからと言って、それらの活動がPTA活動よりも勝っている、優れている、有効であると考えることは、大いなる錯覚である。
 PTA活動なんて暇を持て余している保護者(特にお母さんたち)が、閉ざされた学校社会の中で子どもたちと先生を相手にするお遊びだろう、などと考えている人は、例え社会的な仕事上の経験が豊かであっても、人として、特に「子の親」として順調に成長していないのではないかと思われる。

基本は人の資質
 政治も経済もすべて人の作用から成り立っているのだから、政治的課題や経済的問題の解決のためには、その基本である「人の資質」を良質にしない限り、上辺に蓋をするような、当面の回避策の対応だけで終わってしまう。
 事実、私たちは今までに、そのような不満足な処理方法を何と多く見てきたことだろう。
 例えば、政治課題として、金のかからない選挙にしよう、政策論争をする選挙にしようなどと抜本的な政治改革を大上段に掲げながら、都合よく「選挙区制度を変更」しただけで「政治改革の断行」をしたかのように自画自賛している政治(業)界、また、これで日本経済は好転します、これをしないと崩壊します、と脅かして、傾きかけた金融機関に多額の税金を投入した政治(業)界とそれを受け入れた金融業界。
 複雑に肥大した社会の中で、一個人よりも、業界(組織体制)の存続を第一義に置かざるを得ない状況こそが問題なのだが、それをだれ一人として重大な疑問として取り上げもしないし、解決することさえもできないで今日まで来ている。
 何と不合理な社会となってしまったのだろうか。

教育(人づくり)の充実がすべての解決策
 しかし、私たち一人ひとりは「親の子」であり「子の親」である。その立場からは、社会的な矛盾や不合理に対して憤っているし、純粋な気持ちでそれらを直していきたいと願っている。
 そして、直すためには、本当は、政界や経済界などの業界(組織体制)を支えている私たち「一人ひとりの資質(人としての信念、心意気、人生観、生き様など)」を問題にすべきであるということも理解している。政治システムが社会的問題を解決するのではなくて、そのシステムを支える政治家一人ひとりが変革されない限り、政治的・社会的問題は解決されないということも知っている。世の中の事すべてが「人の資質」そのものの問題である、と共通に認識している。
 だからこそ、そのためには、ささやかな取り組みのように誤解されているが、PTA活動を通して子どもたちの教育(人づくり)を充実させること、そして私たち自身も大人として親として成長することこそが、すべての社会問題の解決策に通じる根本的課題である、と私は確信している。

私たち大人の責任と義務
 次の世代を必要としない『社会』など絶対に在り得ない。だから、次の世代の成長を疎外する事象を取り除くためにPTA活動に参加して、PTA活動を通じて『社会』を見つめ直し問い直すことこそ、私たち大人一人ひとりの責任と義務である。
 最近、特に浄化しなければならない社会事象が多くなってきている。
 その一つに、青少年の心身を「食い物にしている」業界の存在がある。私たちは、自由な経済活動を認めた資本主義社会といえども、断固としてそのような業界の存続を認めることはできない。青少年から「金を巻き上げる」商売が隆盛を誇る社会など、決して正常な社会とは言えないからである。
 また、子どもたちのためにより良い日本をつくりましょう、と叫んでいる政治家が裏では違法な金を使った選挙運動をしておいて、違反しても見つからなければいいし、見つかっても俺は政治家なのだと居直る厚顔な態度や、業界と癒着した不正な裏資金作り、真摯な議員活動をしない悪質な権力指向の政治『屋』の存在も断固として認めることはできない。
 即ち、社会全体の安定について大きな責任のある者や経済に大きな影響力を持つ企業が真っ当な義務を果たさなくても、その立場に留まっていられる社会、このような無法がまかり通る社会を子どもたちに残してはならない。
 そしてまた、毎日毎晩が新年会と忘年会を合わせたようなバライティーと称したドタバタ番組や、芸人のプライバシーを暴くだけのワイドショー番組など、その多くは、人の尊厳を無視して、軽視して、疎外して、虐待して、揶揄して、皮肉ったりする低俗レベルの内容である。私たち大人一人ひとりの責任と義務において、このような現状のままに放置しておいてはならない。

生きる意味の基本
 私は大きな期待と希望を持っている。
 すなわち、大きな責任のある政治家や大企業の役員、影響力の強い放送業界の関係者など、それらの業界の人たちも自分の仕事に誇りを持って生きているんだと。そして、わが子の健全な成長なり、また、わが子と同世代の友だちや次代の子どもたちの存在なりを無視するために、そのような仕事をしているのではないと。そしてまた、次代の子どもたちの存在を崩壊しようなどの恐ろしい意図や子どもたちへの敵対心を持って仕事をしているのではないと。
 そして、その人たちは、ちょっとしたすれ違いで、自分の人生とは何か、家族と共に生きる意味とは何か、というこの一番大切で一番価値ある貴重な意味を今の瞬間だけ忘れているのであろうと。
 つまり、自分の仕事はわが子の笑顔と次代を担う子どもたちの健全な成長を疎外しているかもしれない、もしそうだったら「私たちは、一体何のために毎日の仕事をするのだろう」このような疑問と反省を何かの拍子に、いつの間にか、どこかに置き去ってきているのだろうと。
 期待と希望を持って、私はこのように思っている。
 仕事をバリバリやって、資産家になったとしても、やり手のプロデューサーになって名声を得ても、わが子やわが子の友人たちの笑顔を犠牲にしたのでは、親として、人として生きる価値もなく、生きていく意味もないではないか。
 一人ひとりは「親の子」であり「子の親」である。この「人として」生きる本質を忘れないで欲しい。忘れているなら思い出して欲しい。

生き様を再認識するPTA活動
 PTA活動とは、次の時代を更に正しい時代にするために、わが子とわが子と同世代の子どもたちが住み良い平穏な社会にするために、わが子の笑顔を確かめながら、大人として親として自分の生き様そのものを再認識する活動、すなわち親としての資質を高めること、また、人間としての自己成長をめざす活動である。
 だから、その時の保護者だけでなく、地域社会の人々みんなに等しく参加してもらいたいし、活動してもらいたいと思う。
 社会は、健全な子どもたちの存在なくして、健全に存在しない。
 子どもたちが住み良い社会は、大人たちも住み良い。
 私たち大人が子どもたちのために変われば、子どもたちも変わる。社会も変わる。そしてまた、社会が変われば大人も変わる。
 このような自信と確信を持って、PTA活動にまた新たな一歩を踏み出して行きたい。

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