PTA活動の領域とは
行事のあとの反省会を自粛
 反省会といっても、いわゆる「打ち上げ会・宴会」であるが、その反省会が自粛される方向に進んでいる。
 徳島県下のある教育関係者の不祥事がきっかけとなって、保護者が参加したり、PTAが主催したりする飲食会(酒宴)に「教員・職員は参加しないように」との『御触れ』が徳島県教育委員会から発せられている。PTA(保護者と教職員)で飲食会(酒宴)をすることに、何がどの様に問題になるのか、私にはちょっと理解しにくいところがある。
 その後、春先の歓送迎会、運動会の反省会・慰労会、卒業式の謝恩会などを存続するのかどうか、県下各地でそれぞれの地域の実情に応じて対応している。
 確かに、一般的には飲食を共にすると急に気心が知れたように感じる。それで「なあなあ、まあまあの教育界」になってはいけない、この教訓は大事である。
 しかし、飲酒運転などの社会的共通マナーを守れない事などについては論外であるが、完全な会費制で、目的は懇親を深めることなのだから、すべての機会をなくしてしまう必要性はないのではないか、と思う。

『職場の教育力』
 教師の仕事は、教壇に立つことである。パン屋さんはパンを作って売ること、大工さんは家を建てたり修繕したりすること、これが仕事である。
 どの仕事にも仕事上のルールがある。材料の仕入れにも販売にもルールがある。私たちは、ルールに従って仕事をしながら、徐々に「その道のプロ」として成長していく。
 一方、仕事の範囲以外のルール、いわゆる社会人としての素養・マナーはどこでどのようにして身に付けていくのだろうか。
 それは、仕事を通して身に付くこともあるが、多くのことは、職場仲間との交流や地域活動の中で自然と教えてもらっている。上司や先輩から、また取引先のお客さんから、挨拶の仕方、電話の受け答え、宴席での対応法、服装や言動の選択など、社会人として必要な常識を教えてもらっている。
 どの職場にも、新人や後輩に対して、仕事面だけでなく、社会人としての素養・マナーを叩き込む『職場の教育力』があり、ある種の『文化』として脈々と伝承されてきている。

PTAが関係した『職場の教育力』
 学校には、職員室内の『職場の教育力』と周囲(地域やPTA)が関係した『職場の教育力』とがある。歓送迎会や反省会・慰労会、謝恩会などにおいては、周囲(地域やPTA)が関係した『職場の教育力』が発揮され、教員・職員にとって、もちろん保護者にとっても大切な機会である、と私は思っている。
 しかし、これ以上に自粛する方針が徹底され、教員・職員の宴席はいつも同僚ばかり、ということなると、教員・職員の宴席での社会性(付き合い方)がますます貧弱になっていくように思われる。
 いつもかも仲間内で「先生、先生」と呼び合って宴会するよりも、たまには保護者と膝を交えて、腹を割って話をして、時には、保護者から嫌な事を聞かされることもあるし、叱責される場面があるかも知れないが、それもまた経験である。
 そのような機会を規制すればするほど、ますます世間一般の社会常識を知らないまま「またまた御乱行が過ぎますぞ」ってことになりはしないか、この方がずっと心配である。
 この兼ね合いがあるのだから、先生方が『職員室や教室の外』で学ぶの場を奪ってはならない。
 また、私たち保護者も自分の職場とは違う『PTAの教育力』そのものを発揮する学びの場としての懇親会や反省会を育てていきたい。

PTA会長としての寸志
 私はPTA会長になった当初、学校行事に来賓として招待された場合に、自分で用意した寸志を持参していた。
 しかし、何回か、そのように持参していったが、「自由業なら自分の仕事の時間を削って、サラリーマンなら時間休暇や年休を取りながら、PTA活動に時間を注ぎ込んでいる。その上に『名誉職』的な寸志などを出していたのでは、誰でも務まるPTA会長『役』とはならない。これは改める必要がある」 と思い、入学式や卒業式などで学校に出していた寸志を取り止めた。
 そしてまた、PTA主催の飲食会(酒宴)において、PTA会長として本席へ寸志を出したり、二次会や三次会において多額の支払いを負担したりすることが多かったが、すべてを完全会費制に移行していった。

基本はPTAの一会員
 その反発は、すぐに私に聞こえてきた。PTAの古いOBからであった。
「PTA会長を続けていて、そんな金を出し惜しんではいかん。会長として、評判は良くないよ」
 正直に言って、そのような忠告はとてもショックだった。
「別にお金を惜しんでいるわけではありません。実際に何回か、二次会や三次会などでその料金をポンポンと支払ったときは気分が良かったですよ。妙に偉そうな気持ちになりました。しかし、こりゃあ、やっぱり何か違うと思ったんです」
 「PTA会長『役』はPTA活動の中の『一つの役まわり』であって、『特別の大役』でも何でもないんです。確かに、会を代表して、対外的な会議に出て行ったり、祝辞を言ったり、人知れず相談ごとを受けたりして『役』としての重い責任もありますが、基本はPTAの一会員です。一緒に運動会の準備をしたり、最後まで残って後片付けもしたりします」
「二次会に残る人は、また会長に飲ませてもらうから付いて行くのか、なんて陰口をたたかれることを嫌っています。昨今の社会常識からも通用しないでしょう」「出席した人が均等に分けて出したらいいのです。こんな慣習を続けていくと、ますますPTA役員になる人がいなくなります」

以前のPTA会長は地域の有力者
 PTA会長の『役』とは、何だろう。
 何十年も前には、日本全国どこの郡市町村でも、小学校・中学校の施設充実後援会の会長を兼ねたような地域の有力者がPTA会長を務めていた。
 私は、その人たちの功績は大きい、と思っている。その人たちは学校教育、特に学校に通う子どもたちに人一倍の強い関心と愛情を持っていた。当時は、その人たちから物心両面のご支援、ご協力をいただいたのである。
 そのお陰で、学校や教育委員会はどれほど助けられたことだろう。現在の私たちは、この事実に感謝しなければならない。
 今でも、そのような「奇特」な気持ちの方々が大勢いるが、最近のPTAや学校では、そのような立場を必要としなくなってきている。

PTA会長の新しい役回り

 今、新しい時代から要請されるPTA会長『役』とは何なのか、私たちの新しい感覚で求めていきたい。
 当時も今も、子どもたちを『教え育む』という学校教育の基本は不変である。
 だが、まわりの社会状況の急激な変化に伴って、PTA活動も変わってきた。PTAに対して、子どもたちを取り巻く環境を浄化することから始まって、社会教育全般の活動に関する主導役・中心的存在としての期待が寄せられるようになってきた。
 それに対応するため、PTA会長には、新しい情報を取り込むことや子どもたちや先生、保護者が必要とする新たな活動を組み立てていくコーディネーターやプロデューサーとしての感覚、力強いリーダーシップ、などが求められている。
 そして、多彩な業種と幅広い年代層のPTA会員から新たなパワーを引き出し、それらを結集して、先導していく、愛と勇気を持った楽天的なバイタリティー・活動力と実行力が必要となってきている。
 正しく、PTA活動そのものが新しい世紀に入ったのである。

体育倉庫の新築
 平成5年(1993年)、第48回国民体育大会で鼓隊や集団演技に出場する6年生全員は連日の練習で大変な年だった。それを支える先生方と保護者たちは子どもたちの気持ちが萎えないように、こまやかな神経を使っていた。
 夏休み明けの9月15日(祝)に行われた秋季大運動会において、鼓隊の演技が披露され、空前絶後(本番の日はそれ以上)の絶賛の拍手を受けた。会場の全員が子どもたちの持つ無限の可能性に触れ、感動の極致に達した。
 同じ頃、講堂(体育館)の改装または新築の希望と、体育倉庫の立替の要求がPTA役員から起こってきた。
 平成5年(1993年)9月24日(金)PTA本部役員会と地区委員会、学年委員会に集まってもらった。
 講堂(体育館)については、改装期成同盟会を結成したいが取り敢えず段取りについてはPTA会長の私と校長先生に一任された。
 プレハブ造りの体育倉庫は、木造から現在の鉄筋の校舎に立て替えした時の工事現場事務所として使用したものであった。それを取り壊さずに、仮の体育倉庫としてそのままに残してもらった物であり、現在ではほとんど建っているというだけの古びた状態であった。立替について、PTAとしてどの様に対応していくかを議題として、最終的に体育倉庫を新築しようとの意見でまとまった。

寄附に頼らない資金集め
 ここで以前のPTAならこのような議題について、地元の有志や地域の企業から寄附を集めようって事になったであろうが、最近ではPTAで何とかしようという話になる。
 ただし、PTA会員数が極端に減少しているので、PTA会員を中心にして地域の人々にも協力をお願いしようということになった。これは全員参加によって個人の負担を少なくし、かつ一人ひとりの参画意識や達成感を充実させたいとの意図であった。
 寄附に頼らずお金を集める方法として、不用品バザーの開催を決定した。地域の人々に参加を呼び掛けて、学校の様子も見てもらえたらいいですね、ということで例年の学習発表会の日程と一致させることにした。
 その後に何回かPTA委員会の打ち合わせ会を持って、平成6年(1994年)2月25日(金)に講堂で学校の学習発表会を行いつつ、空き教室でPTAのバザーを行った。
 当然に大盛況であった。売上利益金は新築の見積金額には少し不足したが、その分はPTA予算から何とか捻出して、体育倉庫は無事に新築・完成した。

PTA活動の本筋

 しかしながら、PTAのバザー収益でもって学校施設の体育倉庫を建てることが、PTA活動の本筋なのかどうか。
 私は、その点の基本的な議論を起こさずにバザーを決行したが、やはり本来なら行政の教育予算を使って、学校設備として充実させるべきである、と思っている。
 児童・生徒数が減ってPTA会費収入も減ってきた。しかしPTA会費の値上げは簡単にはできない、だったら地域の人たちにも案内して、不用品バザーをして、PTA予算を補填しようってことは、PTAの考え方として問題はないだろう。
 しかし、体育倉庫の新築のためにPTA主催のバザーをすること、そして、資金の不足金はPTA予算から流用(予算に該当する項・目があるから流用そのものに問題はないが、厳密には臨時総会で承認が必要だった)すること、この二つについて課題点があったのではないか。
 私は改めて、PTA活動の基本に立ち返って、今後は十分な議論をしていかねばならないと思った。

PTA会費(予算)と学校教育予算
 基本的な問題がある。それは、PTA予算の中に、PTA活動・PTA事業以外の項目、つまり学校行事の予算や施設充実(修繕)費の予算が存在していることである。
 例えば、PTA総会の資料では、入学式や卒業式の『行事』は「旧年度の事業報告」には載っているが「新年度の事業計画(案)」には記載されていない。
 そして、入学式や卒業式の『費用』は、旧年度の会計決算書の中で、学校教育振興費の「節」の学校行事費に記載され、その備考欄には入学式・卒業式と明記されている。しかし、新年度の会計予算(案)には学校行事費の金額の表示のみである。
 運動会は学校とPTAの共催行事である。だからPTA予算の中に運動会の費用が予算化され、PTA総会の承認事項となるのは当然である。PTAの年間行事として承認され、運動会の前に担当のPTA委員会(本部役員会、体育委員会など)が何回かの打ち合わせ会を開催して、当日の開会式では、校長とPTA会長が主催者代表としてあいさつをして、協力して運動会を運営している。
 しかし、入学式や卒業式はPTA事業ではない。学校行事である。事前にPTA委員会で打ち合わせ会など開催しないし、当日もPTA役員が式場で手伝うこともない。PTA会長はPTA会員を代表した来賓として出席し、祝辞を述べる。にもかかわらず、PTA予算にそれらの開催費用が計上されている。
 要は、行政に妥当な教育予算がない、各小学校・中学校に充分な教育予算が付いていない、ということである。

全員が受益者である
 とは言っても、学校行事の入学式や卒業式にPTA予算を使うことは、使用目的が不適当である、ということにはならないであろう。
 毎年の新入生や卒業生が受益するからである。そしてまた、児童・生徒や保護者のだれ一人として、疎外されたり、不利益になったりしないからである。
 このように、PTA予算を学校行事に使用しても、「結果オーライ」として心情的には十分に理解できるし、PTAとしてはPTA会費でりっぱな式が挙行されれば、PTA会員の先生方も保護者もうれしい限りである。

児童・生徒数の少ない学校

 しかし、この「課題」にはもっと本質的な問題がある。
 つまりこれからも、PTA予算の中に、これらの学校行事予算の組み込みを続けるならば、児童・生徒数の少ない学校と多い学校とではPTA予算の規模が桁外れに違うのだから、PTA予算を使う式典の内容において、学校間で何らかの『格差』が生じてくるであろう、という問題である。
 従って、義務教育課程での機会均等の趣旨からしても、当然に行政の教育予算から執行されてしかるべきである。

本来は行政が負担すべき費用
 そして、それに加えて、協賛金とか施設充実費と称して、これも「本来は行政の教育予算から支出すべき学校施設の充実費・修繕費など」がPTA予算の中で予算化されているという問題がある。
 今までの経緯として、過去何十年間か、学校に対して、地元の有志を始めとして、多くの方々の「支援・協力」があった。
 それは、今から数十年前、敗戦後の荒廃した地域の中で、将来を担う子どもたちの学びの場を充実させようとする希望と熱意の現われであった。そこには敗戦とか貧困とか、その時代背景から要請された部分もあって、行政の教育予算も大いに助けられてきた。
 それがいつの頃からか、学校の施設充実について、いつまでも地元の有志(の特別な寄附)に頼るわけにはいかない、会員から集めたPTA会費の中から予算化しようということで、今日まで続けられてきたのであろう。
 しかし、もうこの辺りで、行政はいつまでもPTA予算に頼ることなく、しっかりとした教育予算を立てるべきである、と思う。

教育行政の「無気力・無関心」
 今までのように、行政の「長」や行政に関わる議会の議員は、教育予算について「無気力」であったり、学校施設の実情について「無関心」であったりしてはならない。
 「選挙で票にならない教育予算」という視点を取り払い、本来の「行政の責任と義務」を果たすべきである。

いつまでもPTA会費に頼るな
 行政がこのまま安穏として教育予算について「無気力・無関心」を装うならば、ここ数十年間に渡って、PTA会費を使ってきた施設修繕費、入学・卒業式などの学校行事費など「本来は行政が支出すべき費用」について、私たちPTA関係者は、行政に対して「返還請求」を行うべきである、と思う。
 それは、計算したらどの位の金額になるだろうか。

一人ひとりのPTA活動
 現在の『現実』では、体育倉庫の建替えにおいて、私は地元有志の高額な特別寄附に頼るのではなく、PTA会員や地域の人たちを大きく巻き込んだバザーの方法はとても良かったと思っている。
 計画や企画の段階から、PTA会員の関心が高く、その分一人ひとりが自分のできる範囲内で不用品を持ち寄り、バザーの時は思い思いの金額を設定して買い物(参加)していた。
 そうすると、売上金額はどれだけか、どんな体育倉庫ができるのかと興味や関心ができる。また、その後に卒業して小学校を離れても、体育倉庫の新築のことが話題に上がると、最初からの準備の忙しさや当日の賑わいがまた繰り返し思い出されて語り継がれていくとであろう。
 このようにPTA会員一人ひとりが時間的にも経済的にも、自分ができる範囲のことを協力してやっていけば、かなり充実した新しいPTA活動ができる。このことが『真の成果』として、しっかりと証明されたのである。
 PTA役員として、このような充実感を大切にしたい。

新しいPTA活動とPTA予算

 PTA活動は、子どもたちのために、学校教育を支援する団体である。
 それに加えて最近では、PTA会員一人ひとりがPTA活動を通して、地域社会活動に参画したり、自分自身の生涯学習を経験したりするなど、様々な分野の活動に取り組み始めている。
 これからますます、PTA活動が「PTA会員一人ひとりの生涯学習の一環」としての広がりを見せていく中で、これからのPTA予算のあり方、使い方がどうあればいいのか、問い直すべき時期がきている。
 すなわち、PTA予算を立てる場合、PTA会員一人ひとりがより充実したPTA活動が行えるように、「当然に支出すべきところ」には明確に支給しなければならない、と思う。
 今まで多くの場合、参加者の個人負担に頼ってきた部分があった。例えば、対外のPTA研修会に出かけても、駐車場代や燃料費については参加者がその一部を自己負担する場合が多かった。自己研修になるとはいえ、PTAを代表して、時間を工面して出かけてもらっていることが多いことから考慮すれば、そのような実費については全額、PTA予算から支出すべきである、と思う。
 充実したPTA活動とするためにも、私たちPTA会員一人ひとりの新しい知恵と工夫が求められている。

Copyright 2003(C)Yoshihiro Mitsu All rights reserved.
このHPの画像・文章・デザイン等の無断転載・複製を禁止します