日本聖公会神戸教区

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英国国教会系キリスト教会
礼拝のお話し
後降臨節 第4主日 み言葉の礼拝 2010.12.19


いま、み子の御降誕をお祝いする季節になりました。

神さまが、みずからわたし達にしるしを与えられました。

見よ、おとめが身ごもって男の子を産み

その名を、インマニエルと呼ぶ、といわれます。

災いを退け幸いを選ぶことを知るようになるまで

彼は、凝乳と蜂蜜を食べのとします。

その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知って、

御子は、肉によってダビデの子孫から生まれ、

聖なる霊によれば死者の中から復活によって力ある

神の子として定められ、主の栄光を現す独り子と

なられたのです。

     《祈りましょう》

全能なる主がこられるとき、主にふさわしい

聖なる住まいを
常にわたしたちのうちに

備えることができますように。
 
                          アーメン

ベネディクト 大西 昇
聖霊降臨後 第7主日 み言葉の礼拝 

福音書のお話の中に、お姉さんと妹のお話があります。

お話は、お姉さんマルタが仕事に疲れはてて妹マリアに

お話ばかりせずに

少し手伝ってと、要望しています。

マルタは、よく考え働くお姉さんです。

マリアは、よく聞き考える妹です。

神様は、

ある時には、マルタになり、

ある時には、マリヤになり、

この世(地球上)での労苦を楽しみなさい、と・・・。

そして神様は、よく聞き考え疲れることなく根気良く

使命と役割と喜びを持って働きなさいと、

述べているのではないでしょうか?

どうか主の、御心にかなう行いで

わたし達が主の栄光を現す事ができますように!  

                               アーメン

ベネディクト 大西 昇

復活節第6主日 み言葉の礼拝 2010.5.9

私は思う、全能者である神、主と子羊とが都であり神殿である!。

この都は照らす太陽も月もいらない。神の栄光が私達を照らしており

子羊が都の明かりだからである・・・。

諸々の民は都の光の中を歩き、地上の人々は自分達の栄光を携えて都に来る。

都の門は決して閉ざされない。 

そこには夜がないからである。

子羊の民は栄光と誉れとを携えて都に来る。

しかし、汚れたもの、忌まわしい事と偽りを行う者は決して入れない。

子羊の命の書に名が書いてある者だけが都に入れるのです。

そこにはもはや夜はなく、ともし火の光も太陽も月もいらない、

神である主がわたしを照らしてくださるからである。

《祈りましょう》

主よ、主を愛する人々をあなたの光でわたし達を隅々まで照らしてください。

主よ、主を愛する人々が、あなたの光の中を歩けるようにしてください。

主よ主よ、私達を隅々まで照らし導き、

父がお遣わしになる聖霊によって命の書に

わたしたちの名が書かれてあるようにしてください。

全能なる、父と子と聖霊のみ名によって、生きる事が出来ますように。 アーメン


ベネディクト 大西 昇

復活前主日 み言の礼拝 【勧話】 2010.3.28


主よ、どうか私の思いと言葉と行いが御心を現し、

天国の門に入ることができますように。

わたしは、祈りによって神さまと意見をかわしながら生きています。

それによって神さまは、正しくわたしに救と安らぎを与え導いてくださいます。

すべての人々は神さまに救いを求めます。

わたし達の神は他にはいないと仰ぎ見て

主の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は光り輝き、

決して取り消されることはありません。

ことごとく主の御前にすべての膝はかがみ

すべての舌は誓いを立て救いと恵みの御業と力は主にあると、

わたしに「言われる」。

主に対して怒りを燃やした者は、

主に服して、砕け恥を受け終る。

小羊に従う子孫はすべて、

主によって、正しい者とされて長く長く長く生きるのです。

《祈りましょう》

私たちを愛し御子を使わされた全能の神主よ、

御子は、十字架の死に至るまであなたに従われました。

どうか私たちの心と魂が主に従い、

世にあって永遠の「命」に預からせてください。

全能の神主よ、力ある御手によってすべての災いを防ぎ返し、

喜びを持って
主の食卓にあずかり、

主とともに長く長く長く生きるようにしてください。

父と子と聖霊の御名によって。  アーメン




ベネディクト 大西 昇




顕現後第二主日 み言葉の礼拝


私たちは、神さまの働きによって、一人一人に様々な能力を与えられています。

しかし、私のしたいことと、神さまのしたい事とがずれることがあります。

その時にわたしたちは、思い悩みます。

ですから主の御手の内にいきれば

「主は私たちのために、決して口を閉ざさず、決して黙さない」と思うのです。

主に従うことによって諸々の人々はあなたの正しさを見てひれ伏し、

王はすべてあなたを仰ぎ、

あなたの神の御手の中で輝かしい冠となるのだと思うのです。

そして主はあなたを望まれ、

若者がおとめをめとるように、

あなたをめとり再建され、

花婿が花嫁をめとるように

あなたの神はあなたを喜びとするのです。


《祈りましょう》

天のお父さま、今わたしは、あななたを仰ぎ見ています。

それは、カナの婚礼の水瓶の水が良いぶどう酒に変わったように、
私たちを再建し救い導いてください。

主よ、どうかあなたの力によって私たちを水瓶の水から、良いぶどう酒にとって代わり、

主の栄光を現わす僕となる事ができますように。

父と子と聖霊の御名によってお願いします。

アーメン

ベネディクト 大西 昇




聖霊降臨後第12主日 み言葉の礼拝


わたしは、時々忘れてしまうことがあります。

それは、律法を定め裁きを行うのは、全能なる神、主だけです。
主こそが救うことも、滅ぼすことも,できるのです。

主は思っておられます。

隣人や、諸のものを裁くあなたはいったい、何者なか、と。

だから私たちは絶えず主に祈り、
悪口を言うことなく助け合い、


日々感謝を持って生活し、
神の御心に、近づいて行きましょう。

そうすれば主は、喜ばれます。

私たちは、共に生き励ましあいながら神に従い、悪に対抗します。

そうすれば、天国の門はわたしたちに開かれ、わしたちは主の食卓に招かれ、
主の祝福を豊かに与えられるのです。

≪祈りましょう≫

神さまの足跡をみつけ歩くことによって、主の食卓にあずかり、
すこやかに生きることができますように。

天の父よ、どうかわたしたちが主の食卓をかこみ、命のパンを食べ、救いの杯をのみ、

主にあってわたしたちは、豊かになりますように。

父と子と聖霊のみ名によって

アーメン



ベネディクト 大西 昇




聖霊降臨後第8主日 み言葉の礼拝

神さまわたしたちは、
福音書の弟子たちが漕ぎ悩んでいる時のように、
ちょとしたことでも「大変だ、大変だ」とおおさわぎ病にかかります。
主が共にいれば「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という
安らぎのある健康を取り戻せるのです。

神さまは、「落ち着いてよく見ていなさい、そうすればよく見えるようになる 」と、
言っているだと思うのです。

わたしたちは、神から招かれたのですから、
その招きにふさわしく歩み、、主とひとつに結ばれました。主があっての私たちですから、
高ぶることなく、愛を持って互いに平和の絆で結ばれ、
霊による一致を保とうではありませんか?。

わしたちの父なる神は唯一であり、
父は、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におります。
わたしたち、一人一人に、神さまの賜物のはかりに従って、
恵みが与えられています。

ある人は芸術能力、 ある人には建築に関する能力、管理能力、
銀行業務、経営能力、など、わたしたちは、さまざまな恵みを与えられております。

ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、
神の満ちあふれた豊かさに満たされます。そのときまで
神の愛によって一人も欠けることなく成熟したいと祈り、願います。


《祈りましょう》

永遠の父なる神よ

もはや私たちは、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、
風のように変わりやすい教えに、
もて遊ばれたり、引き回されたりすることなく、

むしろ、神の愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、
主に向かって成長させ 日々の営みを安らかにすごさせて下さい。

どうか主に向かって成長して行く私たちを、
やがて主の安息に入らせてくださいますように。

父と子と聖霊の御名によって。

アーメン

ベネディクト 大西 昇





聖霊降臨後第三主日 み言葉の礼拝
私たちは、信仰の船に乗って生きています。

思いがけない嵐がやって来る事があります。

今までにない、激しい困難がやって来たときには挫けそうになります。

その時神さまは、こう私たちに呼びかけていると思うのです。

あなたは、知らなかったのか。

あなたは、聞かなかったのか。

主はとこしえの神地の果ての創造者であって、

弱ることなく、また疲れることなく、

その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、

勢いのない者には、強さを増し加えられる。

年若い者も弱り、かつ疲れ、

壮年のものも疲れ果てて倒れる。

しかし、主を待ち望むものは新たなる力を得

鷲のように翼を張って、のぼることができる。

走っても弱ることなく、

歩いても疲れることがない。

《祈りましょう》

天の父よ、暗闇や嵐の中にいる時も、私たちをみ顔の光で照らしてください。

私たちは、主にすべてを委ね、喜びを持って生きることが出来ますように。

アーメン

ベネディクト 大西 昇






大斎節第4主日 み言葉の礼拝


神さまの思いは、こおだと思うのです。

『 わたしは主、わたしは熱情の神である。

わたしを否むものは父祖の罪を子孫にも問うが

わたしを思いおこし、わたしを愛し

わたしの戒めを守る者には、 幾千代にも及ぶ慈しみをあたえる。 』

わたしは思うなんであれ、神から与えられた一生を楽しみ

神にたより永遠の命を与られることです。

《祈りましょう》

わたしは、ただ主を信じてみ机のもとに参りました。

わたしは、み机から落ちるくずを拾うにも足りない者ですが

主は、変わることなく愛してくださいます。

恵み深い主よ、どうかわたしたちがパンとぶどう酒と、

尊い十字架によって罪ある私たちの体と魂が清められ、

私たちは常に主におり、主は常に私たちにおられますように

アーメン


ベネディクト 大西 昇






      顕現後 第二主日み言葉の礼拝     

使徒書に「食物は腹のため,」とあります。

私たちは、食べ物を食べなくては生きていけません。

しかし、好き勝手に食べると体を壊してしまいます。

栄養を考えてバランスよく食べしかも能率を考えて

炭水化物 ,脂質,タンパク質とミネラル,ビタミンなどの微量栄養素を

機能的にとらなくてはいけません。

しかも、食べ物はすべて地球上で得られたものです。

 そう考えると私たちは、神様に与えられた食べ物をとおして

生かされていると思います。

これこそ、神さまの恵みを頂いていると思います。

そして、神さまから祝福されているのです。

だから、神さまに感謝することを覚えます。

ですから、神さまの栄光を現すようにと願います。

どうか、み心にかなう思いが現されますように

アーメン


ベネディクト 大西 昇





聖霊降臨後 第二十五主日み言葉の礼拝


わたし達は、いつも神様に招かれています。
そしてわたし達は、神さまから賜った体をとおして
今ここに、生きています。

父は、今も創造しつづけています。
これは、真実だと思います。

その中には、わたし達の体もたましいも神によって創られているのです。
しかしでも、主なる神は、体と魂について私たちに考える時を与えて
いるのではと思います。

しかし私たちは、今地上に生きているのですから自我の中で、ああしたらこうしたらと
思案の中に生きている時が多いのではないでしょうか。

でもすべてを創り、今も生きておられる
父が創造しているのは、大いなる愛が満ちあふれることだと思います。

主は今も創り生きておられるのですから
その思いを、わたしたちは覚えようではありませんか。

すなわち、私たち一人ひとりが神様の御心を、見えるように聞こえるように感じるように
なる恵みがほしいのではないかと思います。

主は、わたしたちをおぼえておられています。私たちは、主を忘れがちなのですが−!。

主は、私たちよりも前に生きており、私たちよりもあとにも生きて

わたしたちを祝福し、導いておられることを、おぼえようではありませんか。

栄光は、父と子と聖霊に

初めのように、今も、 世々に限りなくありますように。

アーメン


ベネディクト 大西 昇


                              

2008.3.23
ヨハネ20:1〜10
八代司祭

      2008イースター聖餐式     

イースターおめでとうございます。今こうして、かつてわたしの父や母が大変お世話になった 松山の教会の皆さん方と、主のご復活を共に喜び祝うことが出来ましたことを、心より嬉しく 思っています。  現在、神戸教区の牧師不足はとくに深刻で、わたしのように普段学校勤務を している者は、ほとんど毎年のようにイースターはどこかの教会に出向いたします。 昨年は呉の教会、その前は浜田の教会と、普段家族サービスもままならないので、ここぞと ばかりにこうした機会に家族旅行をしています。

平日は学校勤務で日曜日は教会勤務と、ここ10年ほとんど休みがないわけですが、それでも こうした機会に、家族一緒に旅行をし、また各地の教会の信者さんと親交を深めることが できますことは、わたしにとって何よりの喜びであり、そしてしばし垂水のお山から解放される 絶好の気分転換となるのです。この意味で今年のイースターにお招きいただきましたことを、 心より感謝申し上げる次第です。さて、イースターということで、今ともに主イエスのご復活をお祝いするために、皆さんと このチャペルで礼拝を献げているわけですが、わたしたちクリスチャンと呼ばれて久しい者に とりましては、このイースター礼拝も当たり前のこととして参加していることと思います。 しかしながら今ここに、全くキリスト教のことを知らない通行人が、一体何をやっているんだろうと 興味を示し、このチャペルに入ってきたといたしましょう。親切な信者さんが祈祷書や聖歌集を 手渡し、礼拝中ページをめくったりして色々お世話をいたします。無事に礼拝も済んで、やっと 話せるようになってからその人が訊ねます。「今日は一体何の日ですか?」・・・親切な信者さんは ニコニコ笑顔でゆで卵を手渡しながら答えます。「今日はイースターと言って、
十字架にかけられて 死んだキリストさんが復活した日なのですよ」・・・。

これを聞いてごくごく普通の常識を備えている人なら、 まず躓くことでしょう。
この後会館で祝会が あるからよかったらどうぞとお誘いしても、「謹んでご辞退申し上げます」と、速攻で帰ってゆかれる こと間違いなしです。 このように洗礼を受けて久しいわたしたちにとって、キリスト教の中核をなす復活信仰は 極めて大切なことなのですが、キリスト教を知らない人、あるいは初めてキリスト教に触れる 人にとっては、一度死んだ人間が蘇るという話を聞いた時点で、躓きの元となるのです。

確かにそうかも知れません。むしろ死者が復活するという話を素直に信じることのできる人の方が おかしいぐらいです。ごくごく普通の家庭に育ち、ごくごく普通の教育を受け、そしてごくごく普通の 常識を備えた人なら、一度死んだ人間が復活するといった話を疑ってかかることこそ普通ですし、 それこそ 自然な反応だと思います。そしてこの自然な反応、あたり前の疑問ゆえに、これまで この日本という国では、同じキリスト教のお祝いでも、クリスマスと違って、イースターが全く 受け入れられてこなかったんだと思います。にもかかわらず、このような死者が復活するといったおとぎ話にもならない、作り話のような聖書の 記述を、どこの教会も、どこのキリスト教学校も「主イエス・キリストが蘇った」と公言し、 しかも当たり前のように礼拝しているわけですから、大半の日本人は益々キリスト教が分から なくなってしまうのです。

しかしながら誰が何と言おうとも、また いくら周りから変な目で 見られたとしても、わたしたちは 入信以来ずっとこのおとぎ話にもならない主イエスの復活を 記念し、イースター聖餐式として守り続け ているのです。 そしてまたここ日本ではイースターのイの字も知らない人が大半ですし、イースターの日は、 クリスマスと違ってテレビも新聞も全く報道しませんが、全世界に目を向けますと、18億人以上もの クリスチャンたちが、主のご復活を今も信じ、イースターの今日、世界中のあちこちで 「ハッピー・イースター!」と言って喜び祝っているのです。一体どうしてでしょうか。なぜこんな珍現象がこの世界でまかり通っているのでしょうか。 現在総理大臣の福田さんも、その前の安倍さんも、小泉さんも、森さんも、主イエスのご復活と 聞けば、一般的な日本人と同様、首をかしげることでしょう。けれども現在政治的にも外交的にも 経済的にも軍事的にも、世界をリードしている国アメリカの首相といえば、今のブッシュさんも、前の クリントンさんもその前のブッシュ・パパもレーガンさんもカーターさんも、このおとぎ話にも ならない主イエスのご復活をまことの出来事として、今もなお真面目に信じB ているのです。ちなみに今のブッシュ大統領は、聖公会で幼児洗礼を受け、現在バプテストに 転籍しましたが、ブッシュ・パパは今でも敬虔な聖公会信徒です。  このように日本とそれをとりまく世界とのギャップといいますか、イエス・キリストに関する 捉え方のあまりの違いが存在するように思うのですが、なぜこれ程までに主イエス・キリストの ご復活を信じる人たちが、かくも地球上に数多く存在するのでしょうか。なぜどう考えても非現実的か つ非合理的な、理不尽極まりない話をみんな平気で信じているのか。ここ日本での非常識が、 ことキリスト教に関する限り世界の常識となっているのはなぜか。とくにイースターという極めて 謎めいた出来事を、なぜ世界の人たちは不思議がらないのか・・・。

 「なぜ」というこの問いを、考えれば考える程、益々頭が混乱してきそうになりますが、実は、 わたしはこの謎の中にこそ、キリスト教信仰の本質が隠されているように思うのです。  マタイもマルコもルカもヨハネも、新約聖書に収められている全ての福音書が共通して、 この主イエスのご復活を証言しておりますが、この出来事が本当にあった事実であるのかどうか、 こんにちそれを立証することはできません。主イエスのご復活を心から信じている人も、それが事実で あるとして証明することはできませんし、逆にそんなのはウソだ、作り話だと言って否定する人も、 その否定する材料をこんにち見いだすことはできません。  ただひとつだけ確かに言えること、それは2000年経った今日においてなお、それを信じる人、 それを必要としている人々が世界中に18億人以上もいるということです。このことは2000年の時 を超えて、言いかえますと民族や国家や時代を超えて、主イエスのご復活を必要としてきた人々が 何億、何十億と後を断たなかった、ということができるでしょう。つまり歴史上とほうもない数の 人たちが、この主のご復活を事実かどうかと検証する以前に、自分にとって大切な出来事、欠かすこと のできない真実として受け入れてきたのです。  では一体、なぜ人々はこの主のご復活を必要としてきたのでしょうか。いろんな観点から申し上げる ことができるかと思いますが、
わたしは主イエスが愛に根差した教えを述べられ、またお互いに
愛し 合うことが、人間の生涯において最も価値あるものだとされたからこそ、世界中の莫大な数にのぼる人 々が、主イエスのご復活を無条件で受け入れたのだと思うのです。

仮に主が復活しなかったとしますならどうでしょう。主イエスはこの世の人々に互いに愛し 合い、互いに助け合い、そして互いに仕えあいなさいと命令され、自分自身も自らの命を犠牲にして までも人々を愛し、人々を赦し、そして人々に仕えて死んでいったわけですが、肝心のご復活が なかったとしますと、これ程ペテンに満ちた宗教と教えはないでしょう。  聖パウロもコリントの第1の手紙15章の中で次のように述べています。

「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そしてキリストが復活しなかったのなら、 わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。さらにわたしたちは神の偽証人と さえ見なされます。・・・そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、 あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた 人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、 わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

間に主の愛このように、人を愛して人に仕えて、自分の命を犠牲にしてまで人の罪をお赦しになった というのに、肝心の主イエスのご復活がなかったら、それこそ犬死にみたいなものです。人を愛して 愛して愛し抜いて、最後はぼろ雑巾のように朽ち果てて、ハイ、死んで終わりというのであれば、 だれもイエスの教えに聞き従わなくなってしまうでしょう。人を愛することに何の意味も何の価値もなく なれば、ものの見事に人は他人よりも自分優先で全ての物事を考えるようになってしまいます。他人は どうであれ何事も自分が一番、自分の家族、自分の町、そして自分の国が一番だといった価値観が 全てとなりますと、やがてそこには争いや競争の結果、勝ち残った者のみが称賛されるという、極めて 合理的かつクールなまでに愛のない世界が出来上がることでしょう。そのような世界では戦争さえも 過大に評価されてしまうのです。それに対しまして「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言って、最後の最後まで、そして自分の命を 犠牲にしてまで人々を愛し抜いた主イエスが復活したとしますと、またたくの教えが、ものすごい価値を 帯びてきます。ひとりの生涯にあって、人を愛し、人に仕え、人を徹底的に愛し続けて死んでゆくならば 、たとえその人がろくな財産や名声を残していなくとも、その生涯は主のご復活のゆえにまことに称賛に 値するものとなるのです。

マザー・テレサをはじめ、これまでどれ程多くの 人たちが、名誉や財産を 求めずに、人に仕え、 人を愛するという実践を 残して死んでいったことでしょう。マザー・テレサなどは、皆さ んもよくご存知のように、その愛の生涯ゆえにノーベル賞をもらうほど有名になりました。 マザー・テレサのほかにも、キング牧師やアルベルト・シュバイツァーなど、イエスの愛と平和 の教えを、その全生涯をかけて実践し、そして死んでいったノーベル平和賞受賞者もいます。 さらにはこうした全世界にその名を知られた有名人でなくとも、これまで名も知られぬままに、 ひっそりと死んでいった愛の実践家はゴマンと存在いたします。

世界中の一体どれ程多くの教師たちが、生徒のためにその生涯を献げて死んでいったでしょう。 一体どれ程多くの村長さんが村人のために多忙を極める仕事を残して死んでいったでしょう。 一体どれ程多くのお医者さんが、我が身がボロボロになっても患者さんのために、寝るのもおしまず 治療に専念して死んでいったことでしょう。そしてさらに一体どれほど多くのお父さんやお母さんが 子供のため、家族のために我が身を犠牲にしてなお、喜びのうちに死んでいったことでしょう。 クリスチ
ャンであろうとなかろうと、あるいはまた名声や財産を残さなくとも、こうした名もなく ひっそりと死んでいった愛の実践家たちは、たとえ世間が忘れようとも、主イエスのご復活ゆえに、 まことに称賛に値する生涯として、天にその名を残すのです。 このように人を愛するという行為に、全くもって純然と光り輝く価値を与えるもの、それが主イエスの ご復活と言えるのではないでしょうか。それゆえに人類の愛と平和を 希求する者はみな、主のご復活と いう出来事が たとえ 立証できなくとも、それが事実でありますようにと信じ、また心から願うのです。

今、テレビを見ますと、朝から晩まで目を覆いたくなるような事件や、耳をふさぎたくなるような 不祥事が、これでもかという程報じられています。さらにこの先、5年後10年後は、今よりもっと ひどくなるかも知れません。今よりもっと人々の心が残酷になり、人々の愛が色あせ、競争や争いがより 激しさを増し、そして自己中心的な生き方を求める人々が、より一層増え広がっていくかも知れません。 しかしながら、そうであればなおのこと、こうしたクールで冷えきった社会の中で苦しみもがく人々に、 キリストの愛の温もりをもたらしてゆくことが、わたしたちクリスチャンに与え られた神の貴い使命ではないでしょうか。

凍てついた氷の心をじんわりと溶かしてくれる、太陽のような温もりをもった神様の愛、そしてそれを 十字架の死と復活によって、見事に証明された主イエス。この主の愛の教えと業に純然たる意味と価値を 与えるもの、それが愛の実践家、主イエス・キリストのご復活なのです。  この主イエス・キリストのご復活という人知を超えたロマンをこれからも信じながら、それぞれ与えられ た働き場において、愛の業を 全うしてゆきたいと願うものです。
終りに、主の祝福が 限りなく ありますように。



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TEL/FAX 089-921-1656

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