☆〜序章〜
196☆年大阪市此花区で3人姉弟の長女として生まれました。
この頃の記憶はないので、母に聞いた話ですが、
当時、うちにはいとこの家からもらって来たオルガンがあり、
唯一の女の子だった私に音楽をさせよう!、
と考えた両親が音楽教室の入会を勧めたそうです。
5歳で当時通っていた保育園が会場のオルガン教室に入会しました。
たしか、5〜6人のグループレッスンで私ともう一人その保育園の園児で
あとは、少し年上(小学生)の子と同じクラスだったと思います。
今のヤマハ音楽教室(幼児科)は保護者同伴でレッスンを進めますが、
そこは、子供だけで保護者は誰もいませんでした。
それが直接の理由では無かったのですが、・・・半年ぐらいでレッスンに
ついていけなくなり、嫌になって辞めてしまいました。
その時の私は知らなかったのですが、
両親は、私が音楽教室に通って上手になった時の為に
楽器店で積み立てをしてくれていたそうです。
☆〜第1章〜出会い
やがて、両親がかけてくれていた積み立てが満期になり
その頃世の中に出回りつつあった「エレクトーン」を購入。(機種は
B-2)
しばらくは誰も弾かないエレクトーンが飾ってありました。
7歳の冬、近所にホームレッスン(会場になるお宅に先生が教えに来て
近所の生徒がレッスンを受けるために集まっていた)の会場がある事を知った母に
勧められ入会しました。
その会場に4年ほど通いましたが、
そちらのお宅が引越されたため、その後我が家が会場になりました。
その頃に2台目のエレクトーン(
C-10)を買ってもらいました。
前のと違ってレバーの数が多くなり、色がカラフルだったのを覚えています
11歳の時グレード10級を取得(ペースとしてはかなり遅い方です)
ホームレッスンではここまで来ると終了なので
その後、大きなセンター会場で、グループレッスンに移行しました。
バスでJR(当時はまだ国鉄でした)の駅へ行き
環状線に乗って6つ目の駅で降りるという小さな一人旅が楽しかったのを
覚えています。
☆〜第2章〜 エレクトーン一筋
13歳、家の事情で引越し徳島県の南部のある町に引っ越してきました。
そこは、父の出身地だったので、俗に言う「Uターン」ですね。
引越し・転校などで環境の変化に戸惑った時期もあり
エレクトーンを再開したのは半年後でした。
ヤマハ月販徳島センター(当時の名称)で個人レッスンを受ける事になりました。
毎週1回、30分のレッスンに往復3時間かけて通いました。
15歳・ヤマハエレクトーンフェスティバル(現・エレクトーンコンクール)に出場しました。
演奏した曲は「エル・クンバンチェロ」でした。
この時、店別予選を通過し、徳島県大会で努力賞を頂きました。
この頃から俄然エレクトーンが楽しくなってきました。
初めて出たコンクールで入賞したご褒美に・・と
両親にねだって買ってもらった3台目のエレクトーンは
D-90、ソロトーンという3段目の鍵盤がついているものでした。
(画像を探しましたが、このD-90だけ見つかりませんでした)
そしてこの年の秋、高校受験を控えて
レッスンに通うのが困難な状況になり、仕方なく春まで休会することにしました。
春、受験を終えて早速復活です!!
それを機に成人に混じってのグループレッスンにコース変更しました。
「クラスのお友達」は成人ばかり(笑)でも、いろんな世代の方と接する機会を与えて頂き
良い経験をさせてもらったと思います。みなさん優しくて親切で、結構可愛がってもらいました。
復活してすぐにエレクトーングレード7級を取得しました。
18歳 「ピンクパンサーのテーマ」を演奏し、 ヤマハエレクトーンフェスティバル徳島県大会に出場
しました。
この頃に、高校卒業後の進路について考えていると、
来春から徳島県内にある二つの大学(短大)の音楽科にエレクトーン専攻のコースが
開設される事を知り、そのどちらかに行こうと決めました。
徳島県内短期大学音楽科入学
同じ道を志す人の集まるこの環境は、楽しくそして有意義でした。
19歳 松田昌さんの「ドント・マインド」を演奏し
ヤマハエレクトーンフェスティバル徳島県大会 最優秀賞受賞
四国大会にも出場しました。
この年エレクトーンの新機種
(FS-30)を買ってもらいました。
今にして思えば、私ってお金のかかる子でしたね・・・・。
20歳・ ヤマハエレクトーンフェスティバル徳島県大会 出場
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」を演奏しました。
☆〜第3章〜 講師として
あっという間の2年間を終え、
徳島県内短期大学音楽科卒業し
春から、「ヤマハ音楽教室システム講師」に採用され
いつの頃からか私の「将来の夢」となっていた講師になり
ヤマハ月販徳島センター(当時の名称)の教室での稼動が始まりました。
社会人になれば、当たり前ですが、
色々なことがありました。
楽しいこと・辛いこと・悩んだこと・嬉しいこと
一言では言い尽くせません。
でも、やりがいはありました。
講師になって何年か経った頃、
HS-8が発売され
このエレクトーンは初めて自分で買いました。
一方で、結婚しやがて長男も誕生しました。
私の生徒はほとんどが小・中学生でした。
子供とかかわって過ごしていて思ったのは、
自分の子供としっかり向き合って子育てがしたいということでした。
それで、二人目の子供が生まれるのを機に
システム講師(グループレッスン講師)を退任しました。
システム講師を6年務めた時のことでした。
専業主婦を2年間していましたが、
時々連絡をくださるヤマハの教室担当の女性からの
ある日の電話が状況を変えました。
「先生、1日だけレッスン入れていい?教室で講師が一人要るんだけど・・・」
2〜3日考えた末、復帰を決めました。
そして、その年
ヤマハエレクトーン教室講師(YE・個人レッスン)の認定試験に合格。
最初は週に1日2人の生徒のレッスンをするために
とある教室に通いました。
教室稼動してみると、教室にはシステム講師を辞めるとき発売された
EL-90があり、使っているうちこの楽器の魅力に惹かれ購入しました。
そんな、こんなで復帰してからもう十数年!!
子供が小さいうちはあまりたくさんの生徒を教える事が
できませんでしたので、
グレードを取るなど、自分自身の勉強に時間をたっぷりかけることができました。
1996年から2001年にかけて3つのグレードを取得しました。
大変な事もありましたが、あの頃 頑張っていて良かったのかも知れません。
その間に私にとって7台目にあたるエレクトーン
(EL-900)を購入
後にバージョンアップしてEL-900mになりました。
この頃から、新しい機種が出ると、見たら絶対欲しくなるので
次の機種が出たときのために、対策をして備えるようにしていました。(笑)
そして、現在
社名変更に伴い、黒崎楽器に所属。
ヤマハピアノ・エレクトーン教室が終了した為
2004年 春〜
Jet(全日本エレクトーン指導者協会)の会員となり
自宅やヤマハの教室で稼動しています。
まだまだ、勉強することはたくさんありますが、
エレクトーンと出会ってから今までの私を
残しておきたかったので、このような形にしてみました。
こんな、長〜い文章を最後まで読んでくださいまして
ありがとうございました・・・。
☆〜その後〜
上の文を書いてから、あっという間に12年の月日が経ちました。
当時レッスンに来てくれていた生徒さん達・・その殆どが辞めずに来てくれて
ここ数年は毎年 進学のため県外へ行く子や、就職で巣立って行く子を
見送らせていただいています。幸せなことです。
そして、当時卒業間近の高校生だった生徒さんからは
ここ最近「結婚」や「出産」という嬉しいお知らせをいただくことが多くなりました。
それだけでは、ありません。
この12年の間にご縁があり 当教室に通って来てくれるようになった
“これから成長する”子どもたちと係わる毎日が私の生きがいとなっています。
平均 週に一度30分程度 それも音楽を教えているだけで
大げさな表現かもわかりませんが
子どもたちが成長していく中で 心の栄養となる部分を共有 提供できて
幸せだと感謝しています。
この春、就職して教室を卒業していった子の
会社のホームページのスタッフプロフィール紹介で
趣味・特技の欄に「ピアノ・エレクトーン(長くレッスンに通ってました)」とあり
嬉しい気持ちでいっぱいです!
この先も、日々研鑽して この下に「その後」が書けるよう
努力していきたいと思います。
2016年10月