「地神信仰」に関する社日行事・調査報告
編集:事務局
調査者:磯本宏紀、高石康夫、滝よし子、橘禎男、森本嘉訓(敬称略・五十音順)

一.はじめに
 本号特集テーマに「地神信仰」を取りあげるにあたり、本会事務局を中心とした社日行事の共同調査を実施した。これは、徳島県内各地で春秋のほぼ同じ日に行われる「地神信仰」とかかわる社日行事を、同時により広範囲に把握することを目的とした共同調査で、事務局より会員各位に呼びかけ、調査票(見本)を発送して実施したものである。結果として、五名の会員から調査協力が得られた。わずかばかりの調査で、徳島県全域を網羅するには至らないが、鳴門市、阿南市、徳島市、那賀町等各地での「地神信仰」の一端を見ることができるため、ここでまとめて報告する。
 
二.方法−調査依頼および調査票−
 調査票は、以下の鑑書きを添えて二〇〇八年九月一五日付けで、徳島市八万町向寺山の本会事務局より郵送で発送した。今回の調査では、主として徳島県内の社日行事の事例把握が目的であるため、徳島県内在住の会員(理事を除く)四一名に対して発送した。
 二〇〇八年の秋の社日の場合、社日は九月二五日にあたり、地神塔での社日行事もこの日もしくはこの日近辺に行われることが予想された。そのため、九月中旬に発送し、その結果をまとめ、十月末までに事務局へ返送してもらうこととした。そのための依頼文は以下のとおりである。








 調査票については、民俗調査を普段から行っていない人も調査員として調査を行うことを想定し、できるだけ項目を限定し、そのほかに必要があれば自由記述ができる形態をとった。なお、調査票は森本嘉訓・磯本宏紀(いずれも本会理事)が作成した。

(調査票1〜4.jpegを挿入)

 調査票を回収後、集計およびその他執筆作業は、事務局担当磯本宏紀が行った。


三.結果
 調査票調査により、以下の事例報告があった。なお、実際の調査票には情報を提供していただいた話者名や住所も記載するようにしたが、個人情報保護のため、話者の性別と青年のみを記載した。また、調査票中の定形の設問については、調査票にしたがって別表にまとめ、その他記載事項については、調査概要とともに以下に整理した。なお掲載順は、調査票を事務局で受け付けた順に配列した。

〔一〕板野郡板野町中久保字向塚
 調査者  滝よし子
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   昭和九年生まれ・男性(中久保地区在住)
(特記事項)
 (図 参照)
 中久保地区の当屋は男性ばかりでした。女性は参加してはいけないのですかとお聞きしたところ、そうではなく各組によって違うという答えでした。お膳の料理は総代さんがつくったそうです。

〔二〕板野郡板野町黒谷字山神東
 調査者  滝よし子
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   昭和七年生まれ・男性(黒谷地区在住)
(特記事項)
 農業ばなれしている昨今、地神信仰もさることながら、昔からの習慣として祀っているといった気がする。以前は春の社日と秋の社日とでは、供物にも多少差異があったところもありますが、今は全く同じになっている。
 藩政時代、時の藩主の命令?で始まったとされる地神信仰の行事が、約二二〇年間続いている。地域の人達の交流の場となり、和やかな中にも厳粛に行われておりました。食物を生産してくれる土地の神様への感謝の気持ちと五穀豊穣への願いは、いつの時代もかわらぬものと思います。
 この行事が長く続いてほしいと思った次第です。

〔三〕那賀郡那賀町木頭出原字ナカスジ
 調査者  高石康夫
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   昭和七年生まれ・男性(木頭出原地区在住)
(特記事項)
 那賀奥(旧木頭村)では、以前から地神さんに神職を呼んでおらず、祭礼の仕方を特に指導していないから、村のあちこちに存在する地神さんの祀り方は一様ではない。共通しているのは神前に供える榊の枝(一対)と、生の米粉を水で練って三重ねの団子(正月の鏡餅をミニチュアにしたようなもの)をお供えすることかも知れない。

〔四〕那賀郡那賀町木頭出原字モリニシ
 調査者  高石康夫
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   昭和七年生まれ・男性(木頭出原地区在住)
(特記事項)
1)路傍の地神さんに不釣り合いな石造の巨大な手洗い鉢(臼型)が備え付けられているが、これは元々八幡神社の境内であったことからと推察できる。
2)方角が北向きでない理由。元々三尺幅の歩道が車道に拡幅されたとき、天照大神を道路に面して据え付けたものらしい。

〔五〕那賀郡那賀町木頭和無田字ヨシノ
 調査者  高石康夫
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   昭和七年生まれ・男性(木頭出原地区在住)、昭和六年生まれ・女性(木頭和無田地区在住)
(特記事項)
 神体がなぜ木造掘立なのか、方角がなぜ西北西向きに立っているのか、八幡神社の祭礼時(昨年秋)当屋があった時、直会の場で、神職に尋ねてみたが「わからない」と言う。調査者の推察では、方角が北に面してないのは、境内での位置、地形によるのではないか、参拝に来た人が天照大神に対面して参拝できるように据えられたのではないだろうかと思えるのだが・・・。
 写真に写っている注連縄は夏の祭礼(七月)のとき、八幡神社の当屋が供えたもの。

〔六〕徳島県三好市西祖谷山村重末陰
 調査者  森本嘉訓
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   大正一三年生まれ・女性(重末陰在住)
(特記事項)
 平成二〇年九月二五日に、三好市西祖谷山村重末陰で「地神さん」の行事を見学し、観察・聞き取り、写真撮影を行った。社日は、神社組織が重末陰(しげすえかげ)・重末日浦(しげすえひうら)・冥地(みょうじ)が一つの氏神であるため、当屋組織・神職の関与も三地域が一体となって行われているので、ここでは全体の概要について記述する。
 地神さんの形体(地神塔)としては、重末陰は板石状、日浦(この地域は単に日浦と呼んでいるため重末を省略する)と冥地は五角柱五神名で、徳島県内では一般的なもの(標準型)であるが、実は西祖谷では少数例で、旧村内で私が確認した地神塔二〇数基の内、四例のみであった。その内の二基がこの地域に所在する。造立年は冥地の場合大正五年、日浦は肉眼では判読できない(後日拓本をとる予定である)。冥地の場合、隣の樹木の元に自然石の柱状石が残されているため、作り直しの可能性が窺える。
 立地としては、重末陰と冥地がお堂の境内、日浦が神社境内である。西祖谷の地神さんの立地は、神社境内とお堂の境内がほとんどで、後者は徳島県内の地神塔の立地からすると一般的でなく当該地域の一つの特徴ではなかろうか。地神さんの向きに関して、重末陰は北向き、日浦は南からやや東に振った方向、冥地は東南方向である。重末陰は地名の通り、集落自体が北向きなので、地神塔が北を意識したとは考えにくい。
 地神さんの祭りでは、西祖谷では衰退傾向にあるが、ここではその中でも伝統が若干維持されているように思われる。原因を考察すると、まず五角形五神名の地神塔の存在が挙げられる。板石のような自然石や積石との感覚の相違があるのではなかろうか。次に、三地域の氏神祭祀がしっかりしていて、地域内に神職が存在して活動していることである。また地神さんの当屋のシステムが確立していることも重要で、三つの要素が合わさって祭りが存続しているのではないかと推察される。
 祭りの衰退は内容によく現れており、先ず参加者の減少、禁忌の形骸化がある。この日の参加は、重末陰が神職と当屋二名の他、男女一名であった。日浦では一般の参加者はなく、冥地は男性一名であった。冥地の場合、通りがかりの男性が「今日は地神さんか」と気がついて参加したもので、住民から忘れ去られようとしている。
 供物も農作物の栽培の変遷と関係しており、最近は穂物の供物が少ないという。以前は、棚田が下にずっと続き、畑には麦・雑穀・サツマイモの他タバコの栽培が盛んであった。現在はそれらも栽培されなくなり、結果注連の材料の藁の入手が困難になって、地神の祭りに注連が張られなくなった。サツマイモは昼寝をしている間に、猿にやられてしまい供物にできなくなったという。根付きのサツマイモ(秋の社日)だけは、伝統が守られている。
 春は穂物などがないため、サトイモの種を祀るという。
 畑を掘らないという伝統は残っているが、次第に薄れつつある。
 三〇年前には、西祖谷では地神去来の伝承を聞くことができたが、今回はそれができなかった。地神去来伝承とは、地神さんは春に山からやってきて作物に留まり、秋は穂の上にいて、社日が済んだら帰るというものである。
 いずれにしても、祖谷地方では地神さんの信仰は衰退しつつある。各地域の祭りも減少し、いずれ地神塔のみが残り信仰の実態が不明になるであろう。一日も早く当該地域の詳細な悉皆調査が望まれる。

〔七〕徳島市沖浜町(北浜)
 調査者  磯本宏紀
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   神社総代三名、神職一名
(特記事項)
 別件調査で旧八万村(現徳島市八万町、沖浜、東沖浜、沖浜町、南二軒屋町、西二軒屋町、城南町、山城西、山城町)にある地神塔での社日の祭り調査を、二〇〇五年より行っている(本会会員も含む)。その調査の内、現在の八万町については別稿にて報告予定である。〔八〕〔一〇〕〔一一〕も同様。

〔八〕徳島市沖浜町(南浜)
 調査者  磯本宏紀
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   当屋一名、神職一名
(特記事項)
 若宮神社の立て替えにともない、平成一六年に地神塔も建て替えられた。地神さんの祭りなどには直接的な変化はなかった。

〔九〕美馬市美馬町正部
 調査者  橘禎男
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   五名

〔一〇〕徳島市西新浜(下大野)
 調査者  磯本宏紀
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   神職一名

〔一一〕徳島市明神町(東富田)
 調査者  磯本宏紀
 調査日  平成二〇年九月二五日
 話者   当屋一名、神職一名

四.おわりに
 本会では、会員に呼びかける形で、共通項目を設定したアンケート調査を行うのははじめての試みであった。必ずしも多くない会員数の中、また、必ずしも計画的とはいえない急な依頼となったにも関わらず、一一件の調査データを得ることができた。少ないデータであり、「網羅的」というにはほど遠いレベルであるが、偶然にも調査地域が分散し、各地の状況を確認することができるものとなった。
 これまで経験的に、あるいは仮説的にいわれてきた地神信仰に関する諸事象を、実証的に明らかにする作業は不可欠である。残念ながら、今回の共同調査で結論を急ぐのは尚早といわざるをえない。これを足がかりにして、継続的に地神信仰および地神塔に関する基礎的調査を行う必要がある。

(文責 磯本宏紀)

〔1〕板野郡板野町中久保字向塚 〔2〕板野郡板野町黒谷字山神東 〔3〕那賀郡那賀町木頭出原字ナカスジ 〔4〕那賀郡那賀町木頭出原字モリニシ 〔5〕那賀郡那賀町木頭和無田字ヨシノ 〔6〕三好市西祖谷山村重末陰 〔7〕徳島市沖浜(北浜) 〔8〕徳島市沖浜(南浜) 〔9〕美馬市美馬町正部 〔10〕徳島市西新浜(下大野) 〔11〕徳島市明神町(東富田)
1)調査概要
調査者 滝よし子 滝よし子 高石康夫 高石康夫 高石康夫 森本嘉訓 磯本宏紀 磯本宏紀 橘禎男 磯本宏紀 磯本宏紀
調査日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日 平成20年9月25日
話者 昭和9年生まれ・男性 昭和7年生まれ・男性 昭和7年生まれ・男性 昭和7年生まれ・男性 昭和7年生まれ・男性、昭和6年生まれ・女性 大正13年生まれ・女性 4名(神社総代、神職) 2名(当屋、神職) 5名(正部地区在住者) 2名(神職、当屋女性)
2)地神塔の形態
石塔の形 五角柱碑 五角柱碑 五角柱碑(地元産砂岩を正五角形に加工した台石付。高さ(台石)とも約1.6m。 五角柱碑(石造2段台石付) 木柱堀立。てっぺんに雨よけ、防腐のための銅板屋根が付いている。 板状碑 五角柱碑 五角柱 五角柱碑 五角柱碑 板状碑
紀年銘(造立年) 寛政元己酉天 なし 慶応二寅年 なし なし なし 明治三午年八月吉日 なし なし 文久元酉年五月吉日
その他刻字情報 天照大神を中心に右へ稲倉魂命、埴安姫命、少彦名命、大己貴命で、天照大神以外すべての名が楷書。 豊受祖神天照大神・五穀祖神稲倉魂命・土御祖神埴安姫命・五穀祖神少彦名命・五穀祖神大己貴命(天照大神より右廻り) 台石及び石燈籠の脚部に御神燈、石工竹蔵、世話人●●●●、氏子(複数名)の名前が刻まれている。 台石の部分に寄進者の名(姓なし)が彫られているが、苔がひどく判読できない。 木柱五面に毛筆で墨書 なし 各神名の上に■を彫り込んでいる。天名年遅神、宇気母智神、天照大御神、埴山毘賣神、少毘古那神 五祖神
方角・向き 天照大神を正面として北向き 天照大神を正面として北向き 西北西 西北西 北(集落が北向きという理由)
立地 神社境内(気比神社) 神社境内 道の辻 元神社の境内。神社は別の場所に移転して地神さんだけが残った(大正時代以前)。今は柚畑の中。 神社境内 庵や集会所等の傍(お堂の裏) 神社境内(沖魂神社)、庵や集会所等の傍(神社境内に地区の集会所が併設) 神社境内(若宮神社) 庵や集会所等の傍 庵や集会所等の傍 神社境内(大麻比古神社)
3)地神信仰と社日の祭礼について(聞き取り調査)
〈地神塔の祀り方について〉
地神塔の通称 おぢじんさん、昔は田んぼの神さん おぢじんさん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん
氏子の範囲 板野町中久保地区の全35戸、以前は37戸だった 実行組に入っている家のみ40軒。昔は、黒岩地区で実行組に入っている家のみ。他の家は例外。 その区域集落の農家 その区域集落の農家 旧木頭村の内、大字出原、大字和無田の住民は和無田八幡神社の氏子(約200戸) 重末陰 沖浜北部(北浜) 沖浜南部(南浜) 下大野 東富田
何の神を祀っているのか? 天照大神中心 農業の神さん、天照大神。昔は農業の神さん 天照大神ほか農業に関係ある神々 天照大神ほか農業に関係ある神々 天照大神をはじめ農業の神 土地の神さん 土地の神 土地の神 土地の神 土地の神
普段はどのように祀るのか? 普段は祀らない。社日のみ。以前は気比神社にお参りした際についでにお参りした。 普段は祀っていない。正月だけ鏡餅を供え、氏神さんにお参りに来たときに拝む。 社日以外は祀らない。 社日以外は祀らない。 八幡神社の例祭(夏と初冬)の年2回。八幡神社に従属する小宮として祀られ、地神さんのみ祀られることはない。 お堂に来た時ついでにまつる 普段は祀らない 普段は祀らない 普段は祀らない 取り付けられた注連縄は1年中つけておく。
一緒に祀られている石造物について? なし なし なし なし なし 隣に庚申さんがある。足腰が痛い時にお参りする。特に耳ということはない。 小祠が祀られるが不明。とくに祭りも行わない。 なし 庚申塔 なし なし
移転したことがあるか?どこから移転してきたか? 70年くらいは移動していない。昭和40年に傾いていたので、解体して組みかえた。この時、石積の中に何か埋まってあったが今はわからない。気比神社が大正2年に建立されたが、このときどこから移動してきたかはわからない。 なし 歩道が車道に拡幅されたとき若干移転(4,5メートル)更に車道拡幅により再度移転した(今は亡き古老の話)。昔はすぐ近くの歩道の四つ辻。 歩道が車道に拡幅されたとき若干移転(4,5メートル)更に車道拡幅により再度移転した(今は亡き古老の話)。昔はすぐ近くの歩道の四つ辻。 不明 昔からここにあったと聞いている(大きな板石の前に柱状の板石がはさまれている) 沖魂神社の境内の中で移動した。30年ほど前には境内にある集会所のわきにあった。当時の方角は不明。 若宮神社の境内にあったものを、新しく平成16年に建てかえた なし 不明
起源伝承 土地の神さんとして年2回祭りをしている。昔は田畑の神さん、農家の神さんだけでない土地の上にあるので農家以外の人も祀る。 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明 不明
〈社日の祭礼について〉
祭りの通称 おぢじんさん おぢじんさん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん 地神さん
祭礼の時間帯 午前中9時から12時まで 2008年は午後2時30分に神職が来て拝む。(10分程度)昔も神職の都合で決まってはいない。 特に時間を決めて祭りをすることはない。 特に時間を決めて祭りをすることはない。 特に時間を決めて祭りをすることはない。 午後から(午前中は本当屋の家で神職は御幣の準備をして、当屋ばらいをして、接待の食事をする。) 午前(金比羅神社の神職の都合による。ほかの地区も巡回し祭りをするため) 午前(八幡神社の神職の都合による。ほかの地区も巡回し祭りをするため) 正午から(八幡神社の神職が巡回) 午前10時から30分程度
祭りの当屋(どのように当屋を回すのか?) 今年は3班が当屋であるが、各班から総代は毎年必ず出席する。昔は中久保地区を3組にわけている。1組が約12,3軒。1年交代で当屋を受けもつ。 1つの実行組が当番となって当屋を務める。順番が決まっている。昔は7つの実行組(1組6?7軒)が春と秋の社日を交換で受け持つ。3年半ごとに当屋になる。 春と秋の年2回、立てる幟があっって、自分の当番が終われば、その幟を当番のしりしとして隣へもって行く。 春と秋の年2回、立てる幟があっって、自分の当番が終われば、その幟を当番のしりしとして隣へもって行く。 春と秋の年2回、立てる幟があっって、自分の当番が終われば、その幟を当番のしりしとして隣へもって行く。 集落で2軒ずつ回る。一軒はホントウヤ(本当屋)が地神さん独自の当屋で、祭礼の当屋とは別。 祭りにあたっては当屋ではなく、神社総代が世話役となる。以前は当屋が行っていた。 30軒あまりを順に回す 正部神社の総代がする、籤引き。 春と秋の年2回。 春と秋の年2回。
祭りへの参加者構成 当屋と総代だけ。男性8名 男7人。 特に祭りはしない。 特に祭りはしない。 特に祭りはしない。 男3人、女1人 神社総代3名(男性) 当屋1名(男性) 男1人、女6人 9名(神職、男性4人、女性5人) 神職と当屋
祭りに来る神職の役割 昔から神職は来ていない。 氏子の願いを神様に伝える役割(神主の言葉) 来ない(呼ばない) 来ない(呼ばない) 来ない(呼ばない) 祝詞をあげる。昔は午前中は当屋の家で祝詞をあげ、当屋ばらいをする。 祝詞をあげ、札を配る。金比羅神社(徳島市勢見町)。 祝詞をあげ、札を配る。八幡神社(徳島市八万町)。 神主が亡くなり、来ていない。昔は来ていた。 祝詞をあげ、札を配る。八幡神社(徳島市八万町) 祝詞をあげ、札を配る
供物、祭壇、注連縄、幟等の状況 注連縄は五角柱に巻き付ける。幟はない。供物(鏡餅・酒・大鯛の焼いたもの1匹、他に海のもの、山のもの、野のものなど) 正面(天照大神)の側に榊の枝と青竹を2本立てて、それに注連縄を張り、台石に稲の穂を供え、生の米粉で三重ねの団子を作って供える(当屋)。当屋の当たっていない家も団子は作って供える。 正面(天照大神)の側に榊の枝と青竹を2本立てて、それに注連縄を張り、台石に稲の穂を供え、生の米粉で三重ねの団子を作って供える(当屋)。当屋の当たっていない家も団子は作って供える。 供物が神職によって祀られるが、地神さんが独立して祀られたり参拝されることはない。 本来は注連を張る。御幣を立てる。供物は、神酒・菓子など(当屋が準備)参拝者は里芋の根つけ。昔は竹を立てて、注連を張っていた。秋は穂物・高黍・粟などを祀っていた。 注連縄を張り、幟を立てる。供物は海のもの、山のもの、里のものを意識して選ぶ(写真参照)。 注連縄を張り、幟を立てる。供物は海のもの、山のもの、里のものを意識して選ぶ(写真参照)。 野菜(いも、みかんなど)お菓子は当屋が持参。 注連を張り、幟をたてる。供物は当屋が用意する。 注連を張り、幟をたてる。供物は当屋が用意する。
直会の概要 おさがり(供物)した御神酒をいただき、最近はお茶菓子で雑談をする。 なし なし なし 御神酒をいただき、菓子を分けて食べる。 なし なし なし 地神塔の隣にある西新浜集会所で、御神酒と菓子、竹輪、なますなどを神職を交え、参加者全員でいただく。 なし
社日の禁忌伝承(社日の日にしてはならないことなど) 今は何もいわない。昔は田んぼに入ってはいけない。もん日は休むものときめていた。 以前の言い伝えをまもっている家もあるが、「おかまいなし」の家もある。昔は、鍬や熊手などの農具を使わない(土を掘り起こすことをしない) 以前の言い伝えをまもっている家もあるが、「おかまいなし」の家もある。昔は、鍬や熊手などの農具を使わない(土を掘り起こすことをしない) 以前の言い伝えをまもっている家もあるが、「おかまいなし」の家もある。昔は、鍬や熊手などの農具を使わない(土を掘り起こすことをしない) 土を掘らない、穂は良いとして、ゼンマイを刈ったりする。昔は土を掘らない。前日に供物としての里芋を掘って準備。 土をさわってはいけない。畑に出ない。 土をさわってはいけない。畑に出ない。 土を掘ってはいけない。ネギやゴボウは前の日に堀とる。畑で放尿してはいけない。 土をさわってはいけない。畑に出ない。 土をさわってはいけない。畑に出ない。