40年前の大論争私がまだ5〜6歳、幼稚園か小学1年生ぐらいだった頃、私の家と道路をはさんで真向かいの家に住んでいた同級生の男の子と大激論を交わしたことがある。論争のテーマは、「私と彼のどちらの家が道路の右側に建っているか」である。つまり、お互いが「ぼくの家が道路の右側だ」と主張して譲らなかったのだ。40年ほど前、当時の彼は私のいわば好敵手。ある時は道端で拾ったグリコのおまけの所有権をめぐって争い、ある時はある粉末清涼飲料水の商品名の発音がシトロンかストロンかをめぐって争い、常日頃つかみ合いの喧嘩をしていた間柄だったので、この「道路の右側論争」でも、押し問答を繰り返したあげく、おそらく最終的には暴力的な対決に至ったと思われる。
後々になって振り返ってみると、実に間抜けな論争をしていることが分かる。だが、これほど間抜けではなくとも、案外と似たようなことを、往々にしてわれわれ大人もしてはいまいか? しかも、もしかしたら、職種や部署などの狭い視点からの思考にとらわれ、視野狭窄気味になりがちな病院職員の場合、その傾向が、あるいは強いのかもしれない。
例えば。ある時、ある病棟に入院している患者を訪ねてきたその患者の知人に対し、病棟のスタッフが、そのような氏名の患者はこの病棟に入院していないと説明し、いやそんなことはないと言い張る訪問者と、延々と押し問答をしている。患者がその病棟に入院していないのは確かかもしれないが、相手の主張を否定することに躍起になるのではなく、視点を変えて、相手のニード(患者に会いたい)に対し、共に考え解決するという姿勢に立つと、解決はかえって早いかもしれない。その探している患者は、案外と隣の病棟に入院していたりするのである。重要なことは、自分が正しいと思い込んでいる、その主張の自明性を少し疑ってみる柔軟性であり、相手が求めているものに対する理解と共感である。
ところで、冒頭で紹介した論争だが、実をいうと、本音のところでは私の方に分があったと、私はいまだに思っている。何故ならば、毎日の通学(園)で、学校(園)から歩いて帰ってきた時、道路の右側に見えてくるのは私の家だからだ。彼は登校(園)時のことを言っているつもりだったかもしれないが、それはおかしい。登校(園)の時、家はあくまでも起点であり、道路に対して右も左もないはずである。