IZ-News 09年01月号より
両側から超える

先月の本欄で「こぺる」という月刊誌を紹介した。同誌は元々は京都部落史研究所の所報であったのが、廃刊後、「人間と差別」をテーマとする独立した雑誌として復刊(1993年)した月刊誌である。私は京都部落史研所報時代から愛読しているが、中でも「同和はこわい考」(藤田敬一、1987年)という1冊の本をめぐって熱い誌上論争が繰り広げられていた頃、こぺるがわが家に届くのを毎月わくわくしながら待ったものだ。

私の記憶が確かならば、「両側から超える」という言葉を初めて使ったのは、この「同和はこわい考」である。「両側から超える」とは、被差別の側と、そうでない側とが、お互いの間にある溝を双方の努力によって乗り越えようという呼びかけに他ならない。当時、「足を踏まれる痛みは、踏まれた者にしかわからない」という喩えがよく用いられた。だが、一見正しいそのような物言いが、部落外の者が部落の人間を批判することを拒絶し、両者の関係を絶対化するものだとして、藤田さんは強烈に批判したのであった。

実を言うと、ここ数年、私は「両側から超える」という合い言葉は、医療の世界にこそ取り入れられるべきだと思っている。この場合の両側とは、医療従事者と患者のことである。

これまで永いこと、患者側からの医療批判の時代が続いた。医療の密室性とかパターナリズムとかいった批判である。マスコミも医師バッシングや反医師会の論調が多かった。そうした空気が政府の低医療費政策を世論面で下支えしていたのだが、「医療崩壊」が顕著になってくると潮目が変わった。このこと自体は良いことなのだが、今度は医療者の側から、これまでやられた分をやり返せとばかり、こうした風潮に悪乗りするかのごとき現象が一部で起きている。医療被害者たちに対する偏見や誹謗中傷をネット上で書き込む医療従事者の暴走ぶりがこのところ目に付くのはその一端だ。こうまでひどくなくても、病院に不満を訴える患者に対し、すぐにクレーマーだのモンスター患者だのというイメージをあてはめてしまう思考回路が、私たちの中にできてしまっていないだろうか? これでは医療従事者と患者との間の溝は深くなるばかりである。

医療従事者は、多くは専門職であり、誇りが高いゆえか、自身の専門性に関わることで素人から批判を受けることを好まない傾向があるのかもしれない。だが、患者もまた、こと自身のライフヒストリーに関しては専門家なのである。

「両側から超える」。このことの意味を、今年はじっくりと、皆さんと考え合いたいと思っている。


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