IZ-News 09年11月号より
防治会の30年と私の30年

わが医療法人防治会はこの11月、1979年の開設から30周年を迎えた。個人的なことで恐縮だが、1979年という年は、私にとっても現在の職業生活の原点となった重要な年だ。

この年、私は大学に入学した。農学部畜産学科という、医療とはほとんど縁のない学科だった。入学して間もなく、私はたまたま誘われて原水禁系のサークルに入った。思えばこれがすべての始まりだった。サークルでは、広島・長崎で被爆した朝鮮人被爆者(被爆者全体の約10%ほどと言われている)の補償問題に取り組んでいた。私も渡韓調査を手伝ったりした。侵略を含めた過去に対する補償は、同様の被害を起こさないことを保証するために必要だというのが、私たちの主張だった。やがてサークルでは「被ばく者つながり」で、原子力発電所内での労働被曝による被害(放射線皮膚炎等)を告発した故岩佐さんの裁判支援にも関わることとなり、私が担当となった。この頃から大学の授業などにはほとんど出なくなり、活動ばかりしている毎日となった。この裁判支援はさらに「原発労働つながり」で、日雇い労働者が多く住む釜ヶ崎(西成あいりん地区)と私を結びつけるきっかけとなった。年末年始の越冬闘争(昨今の派遣村のようなもの)の時期は、釜ヶ崎でよく過ごしたものだ。

岩佐さんの裁判は、最高裁まで行ったものの、結局負けてしまった。だが、こと私に関して言うと、この裁判との関わりは、今度は「労災つながり」の縁で、私の就職につながった。紀伊半島地域(和歌山・奈良)における振動病患者への医療提供を目的の一つとして1984年に開院した病院に医事スタッフとして加わることになったのだ。その後何度か転職したが、やはりこれが縁となり、やがて防治会に来ることとなった。

このようにこの30年間、私の場合、「○○つながり」の連続でここまでやってきたのだが、根底にある思想は一貫している。つまり、人が人を大事にする社会に一歩でも近づくことに貢献したいという想いだ。だから、この業界に入って以降、私にとって職業生活遂行上もっとも関心を寄せてきたテーマは「患者の権利擁護」である。

以上述べたことはすべてきわめて個人的な事柄にすぎない。だが、「人が人を大事にする社会をめざす」というのは、防治会の30年間を貫く思想でもあると私は確信し、防治会30年の歴史をそのような「運動の歴史」として見ている。皆さんも、それぞれの視点で防治会と当院の歴史とこれからについて想いを馳せてみたらどうだろう? 何かが見えてくるかもしれない。


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