桜前線北上中春である。
わが家のまわりでこのところ目立っているのはイソヒヨドリだ。オスはオレンジのセーターの上に鮮やかなブルーのジャケットを羽織ったような派手な姿でビルの屋上などに1羽でとまり、よく通る大きな声でいかにも自慢気に鳴き、メスをさかんに誘っている。まさに伊達男といった風情だ。さて。春といえば桜である。高知では概ね盛りを過ぎたが、桜前線はちょうど今、東北大震災被災地のあたりを北上している。見事な満開の桜の樹の前に立つと、ときに私は今年の桜の開花を見ることなく逝った人のことを想い、そして、私自身を含め、いま生ある人がこのように美しい桜の季節にこのあと何度巡り合うことができるだろうかと想いを巡らせる。私の場合、このような感慨にとらえられるようになったのは、ある程度年齢を重ねてきたここ数年のことなので、まだ青春のただ中にあるような諸君らの場合には実感しにくいことかもしれない。だが、私に限らず、概して桜には人をしてこのように思わしめる力があるようだ。
あまりにも激しい今回の震災の状況を見聞きするたび、被災者の力になるようなことを何か少しでもしたいという想いと、自身の非力さとのギャップに、じりじりとした思いが募る。しかし、とりあえずは最低限、自身の目前の仕事、目前の患者に誠実に向き合うこと、そして家族との付き合いを含め自身の日々の生活に誠実に取り組むこと、このような姿勢がさしあたっては大事なんだと思う。
見事に美しく咲き、ほんの数日のうちに散ってしまう桜の花を見ていると、生なるものの貴さとともに、いまこの瞬間を大切にすることの貴さについて考えずにはいられないのである。