感染症と文明病院内において、われわれは常に様々な感染症と対峙している。院内感染に関しては、一般病棟であれば当院は平均在院日数が20日前後なので、この期間中に患者を院内感染から防御することが目標となる。このように、われわれはある一定の時間感覚の中で感染症と向き合っている。先日、「感染症と文明」という本を読んだ。こちらは感染症とヒトとの関わりについて数百〜数千年という時間軸の中で考察した本である。たまにはこのような本を読んでみるのも、普段と異なる視点で物事を見ることができ、楽しい。
内容の一部を紹介すると、次のような具合である。
- 感染症の流行には一定の人口が必要である。メソポタミア文明は、急性感染症が定期的に流行するために必要なだけの人口規模を人類史上初めてもちえた文明であった。
- インドのカースト制度は、乾燥地帯であるインダス川流域に住むアーリア人が高温多湿のガンジス川流域住民を支配する過程で生まれた可能性がある。つまりは、カースト間の接触を禁じるこの制度の起源の一つは感染対策だというのである。ひとたびガンジス川流域の疾病レパートリーを自らの文明に加えたインドは、まもなくインドネシア諸島を含む「大インド」を形成することとなった。
- 現在世界各地に存在するペスト菌の共通祖先は中国起源である可能性が高いという研究結果がある。ペストはシルクロードを通ってヨーロッパにもたらされた。このような「疾病交換」により、ユーラシア大陸内では疾病レパートリーの共有が近代以前にある程度の水準まで進んだと考えられる。
- これに対し大航海時代、ヨーロッパ世界と新世界との接触は、とくにアメリカ大陸において圧倒的に不均衡な疾病交換をもたらした。天然痘、麻疹、ジフテリアやおたふく風邪が持ち込まれ、免疫を持たない新世界の先住民は大打撃を受けた。その結果、最終的に新世界の人口は10分の1にまで減少し、アステカ、インカなどの文明が滅亡した。
- スペイン風邪が流行したのは20世紀はじめ、帝国主義の時代である。スペイン風邪の大きな被害を受けたアフリカにおいて流行をもたらした要因として、植民地時代に築かれた交通システム(とくに鉄道網)の存在がある。スペイン風邪は、帝国主義がもたらした流行である。
さて、こうした史実の一方、次のような興味深い記述もある。
ウイルスのヒトへの適応段階という考え方がある。ウイルスが進化によってヒトへの適応を進め、最終段階まで適応を果たしたウイルスはやがて過剰適応によって消滅する(成人T細胞白血病は日本では陽性率が年々下がっている)が、それが別の問題を生み出す可能性があるという。成人T細胞白血病の平均潜伏期間は50〜60年である。もし潜伏期間が100年になれば、ほとんど無害なウイルスとなる。こうしたウイルスが消滅すると、そのウイルスの生態学的地位を埋めるため、新たに有害なウイルスが出現する可能性が考えられる。同じことはエイズについても言え、もしかすると長期的に見れば、HIVは自らの生存戦略のために無害化の方向で進化が進み、ヒトにとっては危害よりも他のウイルスに対する防波堤としての役割の方が大きくなるかもしれない。そのとき私たちはHIVとの共生に感謝することになるのかもしれない、と著者は言う。ちょっと聞くと暴論のようにも聞こえるが、たしかにそのようなこともあり得るのかもしれない。細菌やウイルスとヒトとの関わりを考えると、そこにはとても深い世界が横たわっているようだ。