IZ-News 12年01月号より
五分の虫、一寸の魂

五分の虫、一寸の魂。私の好きな言葉だ。作家で市民運動家でもあった故松下竜一氏が、自ら関わった反開発闘争を描いた著作の書名でもある1)。もちろん、正しい言い回しは、一寸の虫にも五分の魂。だが、五分と一寸を逆にするだけで、俄然ニュアンスが変わってくる。

一寸の虫にも五分の魂という言い方には、私はどことなく卑屈さのようなものを感じる。ところが、五分の虫に一寸の魂と言うとどうだろう。われわれ庶民は虫のように小さな存在でしかない。だが、その身の内には身から溢れるほどの魂を持っているのだ、と。五分を一寸と言い換えた途端、私たちのような小さき者ども一人一人が俄然活き活きと輝く存在として見えてくるような気がするのである。

われわれはともすれば、人を肩書きや見た目のような、目に見えやすいもので判断したり、評価したりしてしまいがちだ。そして、自分と比較して、無意識のうちにへりくだったり、相手を見下し気味に見てしまったりということもよくある。同僚であれ、患者であれ、同様だ。だが、そういった表面的なものとは別に、一人一人がわずか五分の身の内に溢れるほどの魂、すなわちその人固有の何物か(例えば高齢者であれば、長い年月の中で積み上げられた"経験"のようなものも含め)を有していると考えれば、その人に対する眼差しも変わってくるというものだ。魂のようなものは目には見えない。だが、かのサン・テグジュペリも述べているではないか。「ほんとうに大切なものは、目には見えないんだよ」と2)

昨今、人や地方を虫けらのように思っているのではと思わせるような、権力者の姿勢が目につく。福島原発事故後の政府や東電の態度もそうだし、沖縄の基地問題にしてもそう。昨年8月の泉南アスベスト訴訟控訴審判決もしかり3)。しかし、である。五分の虫には一寸の魂がある。理不尽な仕打ちに対しては、虫は「獅子身中の虫」と化して抵抗するだろう。私もまた、必要とあらば、自ら獅子身中の虫にもなろう。壁よりも卵の側に立ちたい4)
そのように想う年の初めである。


1)松下竜一:五分の虫、一寸の魂、現代教養文庫(社会思想社)、1986年
2)サン・テグジュペリ:星の王子さま−オリジナル版、岩波書店、2000年
3)近藤真一:泉南アスベスト裁判と高知振動病裁判、労働者住民医療、No.259・260
4)村上春樹:エルサレム賞受賞スピーチ(2009/2/15)より
 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」

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