アサギマダラに想う先月の本欄は、U事務部長に担当していただいた。アサギマダラという「渡り」をする蝶についての素敵な文章だった。実は、アサギマダラというと、私にはとても印象深い思い出がある。山を歩いていて、大群に出会ったことがあるのだ。あれは愛媛県の東赤石山から西赤石山へ縦走した時、たしか物住頭(ものずみのかしら)から西赤石山の手前あたりまでの間の稜線上だったように記憶している。歩けども歩けどもそこいら中を蝶が舞っていて、何かこの世のものならぬ感覚を感じた。下山してからそれがどうやらアサギマダラという蝶らしいと分かった。渡りの群れと出会ったのだろう。山行記録を繰ってみると2000年8月6日とある。広島原爆忌の日。それもまた何か意味ありげだ。
さて、先月のU事務部長の文章は、渡りで一往復する間に世代交代し、「どの方向にどれだけ飛べばよいのか誰も経験していない」にもかかわらず、「どの方向に進めば生き永らえるかが分かるという」この蝶の能力を羨んでいる。だが、少々ひねくれたものの見方をする私は、ちょっと別の考え方をしてしまう。つまり、アサギマダラは、自分の生きる道を先天的に知っており、その知識をもとに自らの意思で行動しているわけではなく、遺伝子によってそのように仕向けられているだけのことなのではないか? ここで私が想起しているのは、「個体は遺伝子の乗り物に過ぎない」という、リチャード・ドーキンスが提唱する生命観である。つまり、生物の個体などというものは、遺伝子にとっては使い捨ての道具に過ぎない。個体の行動を裏で操っているのは、自己の複製を後世に残すための遺伝子の利己的なたくらみである、というのだ。アサギマダラの場合、渡りの旅を行っているのは遺伝子であり、個体としてのアサギマダラは文字通り、遺伝子に乗り捨てられる「乗り物」ということになる。
ドーキンスの生命観はとても面白く、説得力がある。ただ、この生命観をヒトにそのまま適用してしまうと、少々やっかいだ。個人の尊厳も人権もまったくナンセンスなものになってしまうからである。とはいえ、ヒトは一方では、他の動物種と比べ、脳を異常なまでに発達させ、遺伝子の進化から逸脱した存在でもある。さらに、次のように考えることもできるのではないか? 遺伝子の掟から抜け出し、いまや自然環境や人間社会そのものさえぶっ壊してしまう(核兵器を見よ)くらいに暴走気味のヒトの脳が、その暴走からの軌道修正のための知恵として独自に編み出したものが、個人の尊厳や人権などの観念である、と。
アサギマダラの話題からずいぶん脱線してしまった。だが、様々な生きものが見せる不思議は、このように色々な思索を呼び起こしてくれるものだ。それもまた、楽しい。