IZUMINO-izm 16年10月号より
1979年10月

広報誌「いずみの」2016年秋号に医療法人防治会創設37年の記事が載っていた。防治会開設は1979年11月1日。その頃は、私個人にとっても大きな転機となる時期だった。ことに防治会開設直前にあたる10月には、色々な思い出がある。

1979年、私は大学の1年生だった。入学当初こそ真面目に授業に出ていたが、三重県の田舎出身のただ純朴なだけの私にとっては、京都での学生寮暮らしは、少々刺激的過ぎた。寮の私の部屋には宗教団体から極左過激派まで、実に様々な人たちが勧誘にやってきた。面白がっていちいち付き合っているうちに、夏過ぎ頃には授業をほとんど欠席するようになった。

10月、学生自治会の企画で映画「第二砦の人々」※1を観た。機動隊の暴力シーンを観て、怒りのせいで上腹部がひどく熱く、焼けるように感じた。映画を観てこれほど身体的に反応したのは後にも先にもこの時だけだ。数日後、成田市で開かれた空港反対集会に出るため、初めて三里塚の地に向かった。この時、援農も経験した。最初の援農先は、後に反対同盟熱田派代表となった熱田一さんの畑だった。

成田から帰洛し、すぐ飛び込んできたニュースは、韓国の朴正煕大統領射殺事件(10月26日)だった。韓国では同月、釜山・馬山で労働者や学生の決起があり、非常戒厳令が敷かれていたところだった(いわゆる釜馬事態)。韓国の情勢は一気に流動化し、翌年の光州事件※2で悲劇的な結末を迎えた。私にとっても、とても衝撃的な出来事だった。

以来、今にいたるまで、私の心の奥底では、まるで通奏低音のように、いつもある想念が響いている。「民主化闘争に斃れた韓国の人たちのことを考えると、生きている私は、働くにせよ休むにせよ、精一杯生きねば、死んだ彼らに対して申し訳が立たない」と。矢吹丈が「死んだ力石に申し訳が立たない」と言ったのと、感覚としては似ているかもしれない※3。まったく非論理的、非理性的だが、これは個人の感覚だから仕方がない。

さて、ひるがえって。わが防治会に、法人設立いらい脈々と流れている通奏低音のようなものはあるのだろうか? もしそれがあるとするならば、それは職員みんなで奏でるべきものだろう。


※1:小川プロダクションが成田空港反対闘争を描いたドキュメンタリー映画「三里塚シリーズ」の一本。第一次強制代執行(1971年)の攻防を描き、シリーズ中もっともスペクタクル性が高いと言われている。
※2:1980年5月、韓国全羅南道(当時)光州市で起きた事件。デモ隊に対する警察の過剰弾圧に端を発し、決起した光州市民によって一時は解放区のような空間が現出した。政府は軍を投入して弾圧。多数の死傷者が出た。
※3:ボクシング漫画「あしたのジョー」より。主人公矢吹丈のライバル力石徹は、矢吹との試合中、右テンプル(=こめかみ)を打たれ、絶命した。

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