IZUMINO-izm 23年06月号より
Dennoch(それにもかかわらず!)

私は、本などを読んでいて気に入ったフレーズなどを見つけるとそれを記録し、リストにしているのだが、今回紹介するのはその一つ。

「彼(モラリスト)のスローガンは常に、そして現在もDennoch(それにもかかわらず!)である。」
これは、ドイツの文学者エーリヒ・ケストナー※1)が自著「ファビアン」※2)が1946年に再刊(1931年初版刊行、ナチスによる禁書を経て、戦後再刊された)された際のまえがきに書いた言葉である。Dennochはドイツ語でデンノッホと読む。「それにもかかわらず」という意味である。

エーリヒ・ケストナーは児童文学者として有名だが、ファビアンは大人向けの小説。第一次世界大戦の後の不況期、ナチスが台頭しつつある一方、どこか享楽的なベルリンの都市生活を背景に、少々エロ・グロ・ナンセンスの風合いのある作品である。

さて、最近、たまたま立ち読みしていた雑誌※3)の中にファビアンに言及した記事を見つけ、2つのことを新たに知った。ひとつは、ファビアンを原作とした映画※4)が2021年に製作、昨年日本でも公開されたこと。もうひとつは、先日亡くなった大江健三郎がある雑誌※5)のインタビューの中でファビアンについて語り、しかもこの作品をとても高く評価していること。少し引用する。

若い人が小説を読む時に、「武器」を持つ必要があると思います。「武器」とは、自分にとってこれが最良の小説だと思っている小説のことです。(中略)若い僕の「武器」は、長らくエーリッヒ・ケストナーの「ファビアン」でした。
つまり、ファビアンは若き日の大江にとってのお手本だったのだ。

ま、それはともかく。冒頭の一文である。この言葉は、他ならぬケストナーが書いているだけに、重みがある。彼は作品を焚書されるなど、ナチス当局に目をつけられながらも亡命することなく、終戦をドイツで迎えている。最悪の時代を生き延びた、かなりの根性のおっさんである。彼自身、最悪の時代を生きながら、「だが、それにもかかわらず」と、思いを秘めながら、彼は彼の場所で全力を尽くしたのだろう。

私もまた、仕事の上でいかんともしがたい現実を前に「コンチクショー」と思うことが山のようにある。だが、いつも思うのだ。「現実は厳しい。だが、それにもかかわらず、自分は自分のベストを尽くすしかないではないか。」と。もっとも、私は自分が別にモラリストだなどと思っているわけではないのだが……。


*1)ケストナー……主な著作として「飛ぶ教室」「ふたりのロッテ」「エミールと探偵たち」など。
参考)クラウス・コードン:ケストナー ―― ナチスに抵抗し続けた作家、偕成社、1999年
*2)ケストナー:ファビアン あるモラリストの物語、丘沢静也訳、みすず書房、2014年
*3)丘沢静也:レッテルXの話(岩波書店「図書」2023年5月号より)
*4)さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について:製作 2021年、監督 ドミニク・グラフ、ドイツ
*5)雑誌「ダ・ヴィンチ」2010年1月号

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