1980年5月1980年5月23〜25日の3日間の経験は、私にとってとても強く心に残るものだった。当時私は京都にあった大学の2年生。活動家としても駆け出しの頃だった。5月23日に東京、25日に千葉県成田市で集会があり、3日間の連続行動として10人ほどのグループで参加したのだった。
5月23日は狭山デー。狭山事件1)で無実を訴え、61年後の今も闘っている石川一雄さんが逮捕された日だ(1963.5.23)。1980年5月23日(金)、狭山裁判勝利を目指す集会とデモが東京で行われ、参加した。京都から東京への移動は国鉄(当時)の青春18切符を買い、快速の夜行列車を利用した。私たちは当時この電車を「人民列車」と呼んでいた。
翌24日(土)は埼玉県狭山市へ行った。被害者の殺害現場とされている場所や、そこからほど近くにある石川さんの実家などを巡る、いわゆる「狭山現調」である。裁判闘争の中で一種のツアーとして取り組まれていて、この日も私たち以外にも何組かが現調に来ていた。私たちは当時注目されていた「小名木証言」2)を検証してみたり、石川さん宅の「万年筆が見つかったとされた鴨居」3)を実際に現場で見たりして、捜査-司法当局が描いた事件のストーリーの不自然さを実感したのだった。
ところでこの頃、韓国では光州事件4)が起きていた。私たちが東京-狭山-成田と移動している頃、新聞には光州市民と戒厳軍との凄惨な激突を伝える写真が溢れていた。私たちは移動の電車の網棚で拾った新聞を息をのんで回し読みした。
25日(日)。私たちは千葉県成田市三里塚に移動し、当時数ヶ月に一度のペースで開かれていた成田空港反対集会に参加した。同空港は、強硬に空港建設に反対する農民らの抵抗を抑え込みながら、1978年5月に開港していたのであった。集会会場に着くと、演壇付近に大きな横断幕がかかっており、そこには「三里塚を日本の光州に!」と大書されていた。
だが、この横断幕の文字に私は強烈な違和感を感じた。たしかに私たちは光州の事態を光州蜂起と呼び、市民の決起をポジティブに評価していたのだった。しかし、軍は光州市を包囲し、25日にはすでに悲劇の予感が満ちていた。26日、戦車部隊は光州市に突入、市民らは道庁を占拠して闘ったが、27日までに鎮圧され、さらに多数の死傷者がでた。
その悲劇を日本でも現出させようと読めるスローガンに、私は簡単に首肯することができなかった。この違和感は、後から考えると、3年後に起きた空港反対同盟分裂の予兆だったのかもしれない。各過激派セクトを含む支援グループも分裂、対立し、その中の一派から私たちもひどい迫害を受けたのだが、ま、それはまた、別の話…。これらすべて私にとっては貴重な経験だったと、今となってはそう思っている。
1)1963年5月、埼玉県狭山市で発生した女子高生殺人事件。被疑者の石川さんは同年逮捕、死刑判決。翌年始まった控訴審から無実を訴え、高裁・最高裁判決を経て現在に至るまで再審請求を申し立てている。2)犯行現場とされたそのすぐそばの桑畑で農作業を行っていたという小名木氏の証言。石川さんの「自白」の虚偽架空性を示すもの、と考えられている。
3)被害者の万年筆が石川宅の家宅捜索で発見された。だがそれは石川「自供」後であり、「自供」前に何度も行われた家宅捜索では見つけられなかったものだった。また、万年筆があったとされる鴨居は低い位置にあり、通常の身長の大人の視線からは、万年筆が見つけられなかったというのは不自然と考えられた。
4)1980年5月18日、戒厳令下の韓国光州市で起きた民主化要求の市民蜂起。戒厳軍の鎮圧により、多数の死傷者が発生した。