IZUMINO-izm 24年12月号より
徳洲会と防治会

今年7月、医療法人徳洲会の創立者にして元衆議院議員の徳田虎雄氏(1938-2024)が、20年あまりにわたるALSとの闘病の末、亡くなった。私は氏の評伝1)を読んだことがあるが、同書を読んで思ったのは、法人としての規模が比較にならないほどである点や、共に後に国会議員となりはしたが2)、かたや保守系、かたや革新系と、法人創立者の政治思想がまったく異なる点など、徳洲会とわが防治会には、似ていない点が多々あるものの、よく似ている点も案外とある、ということだった。

まず徳洲会。前身の徳田病院は1973年、大阪府松原市に開院した。当時は戦後復興の後の高度経済成長で都市が急膨張して医療供給が追いつかず、都市は「医療砂漠」と呼ばれた。「交通戦争」と呼ばれるほど交通事故死者が発生したのもこの頃だ。こうした中、徳田は「生命だけは平等だ」をキャッチフレーズに「365日、24時間診療」を標榜して「断らない医療」を強引にと言って良いほど強力に推し進め、さらに次々と全国各地にグループ病院を設立。わが国随一の病院グループに育て上げた。

また徳田は、同じ「生命だけは平等だ」の理念の下、離島医療、へき地医療にも進出していく。徳田の出身地は鹿児島県徳之島である。

これらのことから窺えるのは、徳洲会は1970年代的な社会状況の下で生まれ、強い理念が掲げられながら一種の社会運動として医療が営まれ、さらにそれを一つのビジネスモデルとして築いたということだ。離島・へき地医療の成立は、都市部のグループ病院で生まれた収益あってのことであったろう。そしてその都市部でのグループ拡大も、「医療砂漠」に苦しんだ住民ニーズあってのものであった。

さて、わが防治会。やはり、高度経済成長下で多発した公害や労災に対する問題意識から防治会の医療は始まった。労働運動の一環としての安全衛生活動、労災認定闘争があり、それら労働運動の共闘者としての医療活動が目指された。労災患者の治療、予防・健診活動に力点をおく勤労病院のビジネスモデルも、徳洲会と同じく、すぐれて1970年代的な状況の産物である。

だが、いまや2020年代。かつてのビジネスモデルはいつまでもそのままのかたちでは成立し得ない。だからこそ、1995年にはあったかケアみずきが、2001年にはいずみの病院ができた。徳洲会にも、新たな時代に対応するための経営スタイルを模索する紆余曲折があったはずだ。防治会は、いずみの病院は、どこへ向かうのか、どんな新たなスタイルを築くのか。真剣な議論が必要だろう。


1)山岡淳一郎:ゴッドドクター徳田虎雄、小学館文庫、2020年
2)徳田虎雄、五島正規ともに初当選は1990年の第39回衆議院議員選挙。

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