来高30年私が県外から高知に引っ越してきたのは1995年。「阪神大震災とオウムの年」だ。もともと私は紀伊半島(和歌山県と奈良県)の振動病患者の治療拠点だった和歌山県北部の病院に勤めていた。四国勤労病院開院の5年後に開院した、いわば弟分にあたる病院である。この病院では6年間働き、職場結婚もしたのだが、労使/労労関係がごたついたことが原因で、不本意ながら夫婦そろって退職した。2人とも病院開院時に県外から越してきた身だったので、退職と共に当地を離れた。
その後約5年間、何とか収入が得られ、気持ちよく住むことのできる場所を求めて2人で京都、大阪、和歌山を転々としたが、なかなか挫折から立ち直ることができなかった。1995年の春、その時住んでいた南紀白浜での暮らしに限界を感じ、次の就職先を決めないまま退職を決めた。なかば途方に暮れながら最初の病院の事務長(当時)に相談したら、「四国勤労病院が来たらどうだと言ってるぞ」と言われた。
とりあえず話を聞こうと同年6月、新宮からフェリーに乗って高知にやってきた。こちらではちょうど、あったかケアみずきが開所したばかりだった。吉本氏に案内され、四国勤労病院(現きんろう病院)、長尾病院(現梅ノ辻クリニック)を見学した。夜は追手筋の鶴巴良で接待してもらった。これまで見たことのない皮付きの鰹の刺身を初めて口にしたとき、思わず笑みがこぼれたのを覚えている。こうして私たちは同年8月、高知に越してくることになった。
高知の水は私たちにとても合ったようで、以来30年間、機嫌良く暮らしている。夫婦間のコンフリクトも格段に減った。つまり、防治会に拾ってもらったおかげで、私たちは救われたのだ。この恩義に対し、相応の恩返しができているのかどうか、私は30年間ずっと自問自答している。防治会にそれなりに貢献しているのではと一定の自負もあるのだが、このあと私が主導するプロジェクトが大コケしたら、それも無に帰してしまうかもしれない。決算の結果は退職時にならないと分からないのだ。