第一次ボランティア報告

 
報告者:広瀬満和
  
○期 間:2011825日~830

○参加者:上島一高(今治教会主任担任教師)、成田信義(土佐教会主任担任教師)

岡田真希(丸亀教会主任担任教師)、広瀬満和(三津教会主任担任教師)

○派遣先:東北教区被災者支援センター「エマオ」

○活動地:仙台・七郷、石巻・渡波

以下の報告は、広瀬が現地からインターネットを通じてアップしたものに加筆し、修正したものです。


825日>

 上島と広瀬は、松山空港より出発(定刻840発、伊丹空港乗り継ぎ仙台着12時)

 太平洋岸悪天候のため空路が内陸部に集中し、松山発が15分遅れる。さらに仙台濃霧のため、着陸態勢後に再上昇。予定より1時間遅れる。

 空港バスでJR仙台駅へ(1,000円)。成田と合流。

 車中から一見したところでは、津波の傷跡はほとんど感じられない。

 ところどころに壊れた車、ボート、家屋の残骸が点在。屋根のブルーシートも散見される。

 駅ビルで比内地鶏とうーめんの昼食。

 岡田は陸路で現地入りするも、悪天候のためJR静岡で足止め、やはり1時間ほど遅れるとの連絡あり。

 タクシーで東北教区センター「エマオ」へ、1400

 1階の教区センター事務所とは別に、2階に被災者支援センター事務所が設けられている。 

 1420~ボランティア登録を行い内勤スタッフよりオリエンテーションを受ける。

 内容は、タイムテーブルに沿った活動時に注意事項。センター内の案内。

 資料が用意され、説明もよどみがなく、機能的に進められている。

 説明を受けたのは、我々を含めて5名(岡田は遅れて合流)

 今日の新入ボランティアは9名おり、到着するごとに個別の対応がなされている。

 1520~ センター内の雑事の手伝い、自由時間。この時間を利用して、センター長のジェフリー・メンセンディーク宣教師に話を伺う。

 1630~ 今日のワークの報告ミーティング、5~6名のグループごとに。

 主な作業内容は、ビニールハウス前の草刈り、側溝の泥かき、ブロッコリーの苗植え(そういう作業もボランティアでしていいのかとの問いかけと問題なしとの回答のやりとり)、作業を依頼した家庭とのふれ合い(エマオでは、このことを特に大事にしているとのこと)



 1715~ シェアリング(2グループに分かれての分かち合い)

 自己紹介、ボランティアに来て自分のどこが変わったかをテーマに一人一人思いを語る。

 1800~ 夕食 カレーライス、フルーツ

 近隣教会の婦人会を中心に遠隔地からのボランティアも加わって準備されている。

 ボランティアの働き場の一つ。食器洗いは、各自で行う。

 1900~ 宿泊所の「仙台北三番丁教会」に移動

 通常はセンターの自転車で行き来するが、初日で荷物が多くタクシーで移動。

  「教会にお泊りの方へ!」という説明資料あり。

  一般のボランティアに、教会を利用するにあたっての理解を求めている。

 2000~ 入浴は近隣の銭湯を利用(400円)



826()

 活動初日なので、毎日のルーティンも合わせて報告します。

 630 起床。コンビニで、昼食の弁当とお茶2Lを買い、自転車でエマオへ。

 お茶2Lは、エマオの指示による。ワークの現場にも自販機などがあるが、何十人ものボランティアが買い占めて、住民の迷惑にならないようにとの配慮がある。

 エマオ到着後、用意されているシリアルで朝食をとる。エマオからのサービス。

 805~ ミーティング

 今日のボランティア数 46名。

 ワークの場所、内容、必要人数が発表されて、希望者が募られる。

 今日は仙台市内が雨でワークの現場が限られたため、7か所、約30名が現場へ。

 残ったボランティアは内勤(センター内の整備など)

 四国組は4名とも、石巻を希望した(石巻の現場も、津波で浸水した区域)。

 ミーティングの最後に、全員が手を繋いで輪になり、祈祷が献げられて、出発。

 840 石巻組は25名が3台の車に分乗して出発。広瀬、成田は募集により運転手を志願。

 1030頃 石巻着。4つの現場に分かれる。ワーク時間は、11時~16

 ワーク内容:岡田>畑の雑草抜き。耕作再開のための下準備。

       成田>水産加工会社の備品清掃。営業再開の準備。

       上島、広瀬>個人宅の細かい瓦礫の撤去と敷地内の雑草抜き。

 広瀬の現場は、重機により家屋が撤去された後、細かい瓦礫などが残され、津波で流れ込んだ土砂に雑草が茂っていた。雑草を根から掘り起こすと、土砂の中から瓦礫や生活用品が出てくるので、それを回収し、また雑草を掘り起こすという作業を繰り返す。生活用品は、ほとんどゴミとなるが、中には、保険証書、年金手帳、写真等の「お宝」もあり、丁寧に仕分けしながらの作業となる。比較的涼しく、屋外でのワークには恵まれた天気であり、予定以上に捗ったようだ。

 1855 エマオに帰着。夕食。定例のミーティング等には参加できず。

 通常から、石巻組は遠方のため、帰着が遅くなるようだ。

 夕食メニュー:豚生姜焼き、ゴーヤチャンプル、ホッケ、きんぴらごぼう。

 以後は、昨日と同じ。

(広瀬の雑感)

 津波に見舞われた地域は、津波で完全に家屋が流失した地域、かろうじて建ってはいるが1階が損壊している地域、1階の軒下まで浸水していたものの津波の勢いが比較的緩やかになり修復して住み続けることが可能な地域に分かれる。車中からは、その全てを順に目の当たりにすることとなった。また、湾の沿岸は地盤沈下し、海岸沿いの家屋は流失、海岸線が後退している。

 今日の現場は「渡波(わたのは)」という地名であった。過去の津波が記憶されたものかもしれない。

 ワークの現場では、長期のボランティア(3日以上同じ現場に行けば「長期」)と町の方々とが気さくに声を掛け合っている。互いに敬意を払いながらも打ちとけ合った雰囲気で、昨日書いた「作業を依頼した家庭とのふれあいを大事にしている」というエマオの方針の成果だ。今日も仮設住宅に住んでおられるこの家の奥様が訪ねて来られ、しばし歓談。帰りに差し入れをして下さった。こうした絆は、被災された方々の精神的な支援になり、同時にエマオへの信頼にもなって、口コミで伝わって依頼者が増え、復興の前進にもつながっていく。

 「特定区域」。指定されるとそこには住めず、別の地域に移らなければならない。ワークに入ることができる指定外区域の方々は、ホッとしたと話される。だが今後、指定区域の家庭には再建のための補償が手厚くなされ、指定外区域の修復・再建には補償がなされないなど、格差が逆転することが、他の被災地では見られた。ここではどのような対策がなされるのだろうか。

 帰りの車中でスタッフが話してくれた印象的な一言「津波で更地になってしまった地域で、この2ヶ月間に変わったことがある。それは色です」。2ヵ月前、瓦礫が片付けられた直後の、その地域は、遠くから見ると一面土色をしていた。今は雑草が生え、緑色になっている。それでもホッとすると言われるが、複雑な思いがした。



827()

今日のボランティア数37名。石巻は土曜日休止のため、全員が七郷へ。

七郷=若林区荒浜地区七郷。海岸から約2km、津波の高さは2m。左右が川に囲まれ、内陸部には高速道東部線(高架道)が海岸線に並行して走っているため、海、左右の川、東部線の跳ね返りの4方向からの波にもまれた。全117世帯中、現在47名が戻ってきている。925日に七郷まつり(草野球、バーベQ大会)が、ボランティアの持ち込みプランで行なわれる予定。

エマオから14kmを自転車で移動する。交通を妨げないように5~6名のチームに分かれ、経験者がボランティア(=志願)で自転車リーダーとなり先導者となる。今日は7チーム。自転車は国内の団体から寄贈されたマウンテンバイクと台湾から寄贈された電動アシスト車、合わせて30数台ある。電動アシスト車は女性・年配者優先で自己申告で選択。今日は台数よりボランティア数が超えたため、一部は車で移動。四国組は、上島、成田、岡田がマウンテンバイクで、様子を見ていた広瀬はあぶれてしまい、結果的に車移動

ワーク箇所は9ヶ所、主なワーク内容は、畑の草刈り・土砂の撤去、側溝の泥かき、ビニールハウスの修理など。天理教ボランティアひのきしん隊が合流し、エマオの指示下に入って活動。広瀬は笠松さん宅に入る。

水が引いた直後は道路、田畑、床下、床上がヘドロで埋め尽くされた。6月頃に来たボランティアの話では、道路のヘドロは既に除去されていたが、田畑は手つかずの状態だったという。今は、ヘドロはほぼ除去され、側溝、田畑の隅に残る土砂を掻き出して搬出するまでに処理は進んでいる。一方で、手が尽くせないまま伸び放題になっている雑草の除去が新たに必要な状況になっている。

(笠松さんのご主人の話)

集団移転か、この地での復興か、市の方針が決まらない間は何もできない。家を建て替えた後に移転となれば、その分の補償は出ない。二重ローン、三重ローンを抱えることになる。

小学校の屋上から自衛隊に助けられた子供たちは津波の恐怖が忘れられず、戻って来たくないと言っている。年寄りは、移転しても敷地は狭くなるので農機具も置けないから、ここから動きたくないと言っている。



828()

530起床。宿舎として使わせてもらっている仙台北三番丁教会の清掃。

730~仙台北三番丁教会の早朝礼拝に出席。エマオからの出席者は、四国の4人と同宿の山本さん、別宿の斉藤さん。

1040~仙台北教会の主日礼拝に出席。礼拝後、小西望牧師に車で、被災場所を案内をして頂いた。

(七ヶ浜)岬に仙台北教会のキャンプ場ジレットハウス(東雲にもおられたジレット先生ゆかりのログハウス)が建てられている。岬よりも海抜の高い同町の住宅地が津波に流されているのに、奇跡的に被害を免れた。

http://tohoku.uccj.jp/sendaikita/hausu.htm参照。

(蒲生)やはり津波に流された町。単立教会があった敷地に、瓦礫から掘り出された十字架塔が置かれている。

(小西先生の話)放射能の関連で、教会の働きは3つあると考えている。()逃げたい人を助ける。()逃げたいけど留まらざるを得ない人を助ける。()留まる人を助ける。()について、改革派や新日キは共同して、受入先やそのルート、方法などのシミュレーションを始めている。

夜は、兵庫教区長田センターの柴田信也さん、同志社大神学生の渡辺真一さんと夕食、懇談。



829()

今日のボランティア数約50名(七郷30数名、石巻16名)。四国組は、上島、成田、岡田の3名は石巻へ、広瀬は七郷へ(土曜日に出来なかった自転車での移動を体験)。

七郷では、各家庭に4~7人ずつに分かれてワークを行う。主なワーク内容は、草刈り・回収除去、瓦礫撤去、側溝の泥かき、ビニールハウス修理、畑仕事の手伝いなど。

広瀬は菅野さん宅でビニールハウス修理を行う。初めての体験で、素人にできるのかと不安であったが、意外と機能的な造りに感心しながら、扉部分のビニール張りと本体の裾を埋めて固定する作業を行なった。

(ワーク後のシェアリングより)

今日のテーマは「出会った人あれこれ」と「ボランティアでアレ?と思ったこと」。印象的だった話を一つ紹介する。

「出会った人・・」では、被災された方、ボランティアの仲間について話す人が多かった中で、一人の学生ボランティアが「工事現場のカードマンとの出会い」を挙げた。エマオでは、ワーク地の住民の方と挨拶を交わすことを心がけているが、自転車での移動中に復興工事現場のガードマンから「ご苦労様」と声をかけられ挨拶を交わしたことに感動したという。東京ではすれ違っても意識したことのなかったガードマンを初めて人として認識した、いろんな立場で被災地のために頑張っているんだということを実感した、という話だった。きっと彼女が東京に帰ったら、見慣れた町がいつもと違って見えることだろう。

(夕食時のエピソード)

石巻組の一グループの帰りが遅れ、別時間での夕食となった。先に食事を終えたボランティアはそれぞれの宿舎に戻り、スタッフは事務所で仕事をしていた。私は事務所でスタッフと話をしていた。と、そこに帰って来た一人が駆け込んできた。「食前のお祈りができる人がいません。だれか来て下さい」。静かだった事務所に「ほぉ~」と歓声が上がり、スタッフの一人が食堂へ向かった。

 エマオでは、毎朝活動に出発する時、夕刻活動を終える時、唯一皆が揃って食べる夕食前に皆で祈る。エマオは東北教区の活動だから当たり前と言えばそうなのかもしれないが、7割を占める教会外からのボランティアにとっては、違和感のある時間だ。日常では、私はクリスチャンではありませんからと拒まれることも少なくないが、ここでは皆それを受け入れ、センターのスタッフが祈る言葉を聞いている。

エマオのきまりだから、郷に入っては郷に従う、そんな人も少なくないことだろう。ただ、過酷な日常を強いられた被災された方々と出会っていく日々に、ボランティアもまた心穏やかではいられない。互いに支え、支えられながらこの活動が成り立っていることを実感させられていることは「シェアリング」でも伺える。そんな彼らの心に、祈りの言葉もまた届いているのだろう。


 皆様の尊いご支援を得て、今回の活動が実現しました。費用をかけて人を送り、短い期間で何ができるのかという声もありますが、四国からボランティアが来た、そのこと自体が被災された方の励みになることを、改めて感じさせられるときとなりました。被災地にいて一番堪えるのは、見捨てられていくのではないかということだからです。

 また今回の活動は、東日本大震災の被災地救援のみならず、今後に起こるであろう四国での大災害の備えにも有益であろうことを確信しています。この6日間で終わりではなく、この経験を私たち自身の備えのためにも生かして参りたいと思っています。

 被災地の復興には、息の長い支援が必要です。寄り添い続けることが力になります。今後も更に、多くの方々がボランティアに参加して下さることを願っています。そして、一人でも多くの方が、南海地震に備える力になって下さることを願っています。

ありがとうございました。

「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
emaoshikoku@gmail.com