第14次隊派遣レポート

 
日時:2013年10月21日(月)~25日(金)
派遣先:東北教区被災者支援センター  エマオ仙台
草薙恵美子(丸亀教会)
    

 9月16日に、高松教会で行われた香川分区婦人会修養会に参加したことで、私達は、森分望牧師の講演を聴き、また、エマオ仙台でキッチン・ボランティアを募っていることを知って、お互いの手帖の白い週をつき合わせ、その日の内に、仙台行きを決意した。

 「エマオへの道・四国」の活動については世話役をし、ご自身も何回もボランティアへ休暇を利用して行かれている岡田牧師の報告を聞いて知っていたが、健康不安や長期の不在が出来にくいこともあり、何か役に立つことが出来るのだろうか、という自問自答を繰り返すばかりで、なかなか遠い東北まで行く機会が見つからなかった。こんなに早く、これほどスムーズに行くことが出来、私達のスローワークのために協力を惜しまなかったみなさんや家族に感謝の気持ちでいっぱいである。多くの方の献金と理解し、賛同して義捐金の募金活動にも参加してくれた友人にも。そして、丸亀へ帰ってきて1週間、まだ、口を開くと「仙台ではね。」と誰彼に話したい気持ちで溢れている。

 台風の去った後、急に寒くなったのではないだろうか?あの、仮設住宅にいらした高齢の方たちは体調を崩していないだろうか?ワークに参加していた若者や根気よくかかわってくれた内勤スタッフの方たちは今日も元気だろうか、と気がかりである。祈りの内に覚え、毎日メールで励ましてくださった岡田牧師。パイプオルガンの内部構造を説明してくださった松本兄。奏楽を担当している、と伝えたら、弾かせてくださって、感激した。私達と交代で仙台入りされ、単身頑張っている香川教会の堀川姉はお元気だろうか?

 もし、今からスローワークに参加されようという志をお持ちの姉妹がいらしたら少しでも参考になれば、と思い、私達の5日間をお知らせしたいと思う。

 10月21日(月)移動日

 宇多津~東京 東京~仙台 特急しおかぜ 山陽・東海道・東北新幹線(ジパング利用)

 大荷物を持って、1番乗り換えの少ない新幹線を利用して、陸路で仙台へ向かった。「ひかり号」を使ったので8時24分の出発から7時間少々かかって仙台へ着いた。小雨。タクシーでエマオへ向かう。

14日~21日まで、仙台エマオはお休みだったそうで、女性のスタッフの方からプリントをいただき、とりあえず荷物を置いて、いただいたプリントの地図をたよりに銭湯を探し、夕食と明朝のパンや飲み物をコンビニを探して確保しましょう、と外へ。暗くなっていて、方角が全くわからず、道を尋ねると、親切なご婦人が途中までついてきてくださった。

 銭湯は、道を尋ねたお店の方が、わかりにくいから、といって入り口まで案内してくださった。仙台は人口110万の政令都市。車線も多く、歩道も自転車がびゅんびゅん走っている。帰りはタクシーで帰った。

 みなさん、親切だったね、と仙台によい印象を持った。楽天のリーグ初優勝も控えめな感じで、ワインレッドのポスターがあちこちに貼られていたのも、好感が持てた。

 10月22日(火)ワーク1日目 弁当プロジェクトに参加

7時半には開けますが、ミーティングは8時20分頃から始めるので、それまでに朝食を済ませて2階へ来てください、と前夜内勤スタッフの方に聞いていたので、エプロンと貴重品を持ってエマオへ。私達が宿泊させていただいた、エマオ本部の隣の青葉荘教会は施錠せず、道路に面しているので、これぞまさしく教会だと思った。盗難の心配など無用なんだ、と。フェンスの外側をたくさんの人が通っていく。

朝のミーティングで書類を書き、プリントを何種類か渡され、7時55分には仮設住宅で行われている朝のラジオ体操に参加する人はもう出発した、と聞かされた。その後、自己紹介をして、注意事項や説明をうかがう。その日、初めて顔を会わせた方の中には、京都からお茶を立ててふるまうために来られていた和服姿の方やもう10回以上もワークに入られている方もいらして頼もしかった。丸くなって手を繋ぎ、みんなでおいのりをしてから雨が降りそうだったので、車で出発していかれるのを、見送った。

「今日は月1回の弁当プロジェクトの日で、仙台市内の色々な教会婦人が集ってお弁当を作り、仮設住宅へ持って行って、みなさんと一緒にいただき、四方山話に参加したり、そっと聞いていたりします。ご一緒しませんか?帰りにスーパーへ寄って食材の買出しもしてきましょう。」とのこと。

9時をまわると、よく似た世代、よく似た雰囲気の教会婦人達が自転車や車で次々来られ、たちまち賑やかな食事作りが始まる。香川・高松出身の方もいて、話が盛り上がり、手も動かして、50食のハラコ飯ときのこ汁が出来上がり、車に分乗して七郷中央公園仮設住宅へ向かった。お椀やお箸、足りなかったときのための使い捨てお椀や輪ゴム、ゼリーを食べる時のスプーンや大きなゴミ袋、布巾などなど。大荷物である。

卓上コンロやガスボンベ、きのこ汁を薄めるためのポットの湯など、なるべく迷惑をかけないように、全て揃えて持って行く配慮をしていた。行きの車の中でも、スタッフの方から、色々なお話を聞かせていただいた。初めは70世帯入っていた方たちがだんだん転居先を見つけて出ていかれる中で、残った高齢者はこれから先に不安を抱えていらっしゃる方もいるので、こちらからは過去とこれからは、伺わないこと、もし、問わず語りに話されるようであれば、そっと傾聴する、質問したりせず、肯いたりゆっくり、まさにスローワークの精神で寄り添っていくことが望ましい、と。

仙台市中央にあるエマオを出発して、少し行くと新しいマンションや新築の住宅がどんどん増えていてまさに建築ラッシュである。オリンピックの東京招致が決まって、建設業者が東京へ集められたら、工事が遅れる、と不安を感じられているそうだが。そして、震災前から地下鉄の開通が決まっていたため、地価の高騰も高齢者にはダメージを与えている、とのこと。家を新築したくても代替地が入手しにくいとのこと。

仙台へ行く前に岡田牧師からお借りして読んだ野田沢牧師の著書「希望をつむぐ」の中にも、家族で意見が食い違うこともあり、目の前で家族の言い争いを聞かなければならないこともある、と書いてあったが、目の前の建築中の家を見ると納得した。

少し緊張しながら、仮設住宅の集会所に着いた。もう、たくさんの高齢者が待っていてくださって、急いで配膳を手伝った。私達もいただいたが、ハラコ飯は、鮭の煮汁で味付けしたご飯に鮭のほぐしたものと三つ葉といくらをのせた郷土料理でとても美味しかった。その後のお茶っこと呼ばれるお話会では、高齢の女性達のグループでの会話をそっと聞かせていただいた。

夜、寝るときは真っ暗がいいか、明かりがある方がいいか、というような議論(?)をしていたが、真っ暗じゃないと眠れない、という方と、電気は信用できないから懐中電灯を上へ向けて休む、という方がいらして印象的だった。みなさん、わかる程度の方言で楽しそうに会話が続いていた。帰りに大きなスーパーへ寄って豚汁の材料や、サラダの材料を買って帰った。

教会へもどると山元先生(学生センター)にお会い出来て嬉しかった。それから、青葉荘教会の松本兄にパイプオルガンと教会の礼拝堂を見せていただいた。床暖房だそうだが、冷房設備がなく、最近の夏の暑さで対策を考え中だとか。パイプオルガンはとても立派で、ちょうど楽譜があったので、賛詠を弾かせていただいて感激だった。その後、2階に集って、今日1日のワークの報告をし合うミーティングを。輪になって坐り、草抜きや農作業の手伝い、家庭訪問をして1人暮らしの高齢者の話を聞いてきた報告などをした。私達も初めて出かけた仮設住宅でのお弁当プロジェクトの感想などを述べて、明日はラジオ体操へ参加してみよう、ということになった。シェアリングには参加しなかったが、階下で夕飯の仕上げをした。大急ぎで作ったきんぴらごぼうも好評でほっとした。みんなで片付けもして、7時には終了。雨の中、もう1軒の銭湯を探しに出かけたが、見つからず、昨夜のところまで、タクシーで行くことになった。だが、さっぱりしてよく眠れた。大きな荷物になったシュラフ(寝袋)だが、敷布団を敷き、シュラフに入り、掛け布団も借りて、ちょうどよい温かさだった。枕カバーに使うバスタオルや自分でシーツや布団カバーを持参すれば気持ちよく休めるかもしれないが、シュラフは便利である。持って行ってよかった、と思った。

 

10月23日 ワーク2日目 荒浜フィールドワーク

朝から雨が降っていて、少し肌寒かった。この日は7時55分に2台の車で七郷中央公園の仮設住宅へ。ラジオ体操(毎日実施)グループに参加した。道中、スタッフから説明と注意を伺う。やはり、話題に気をつけることと、今日、フィールドワークで出かける荒浜について。

仮設住宅に着くと、みなさん待っていてくださって、すぐ、小さなラジカセのテープの音を流してラジオ体操の第1と第2を始める。「ヨイショ ヨイショ」と掛け声をかける箇所もあって、真面目に力いっぱい体を動かすと汗ばむ程である。

体操が済んで、お茶をいただき、話の輪に入れていただく。昨日はありがとう、とお弁当のお礼を言われて嬉しかった。「郷土料理」の話になり、香川では鯛めしやチヌめしを作る、と言ったら、お雑煮の話やおせち料理の話になり、女性は料理の話が好きなんだな、と思った。栗の渋皮煮を持って来られた方がいて、

みんなでつまみながら、和やかに歓談した。

 9時半頃、みなさんにお別れの挨拶をして、(この時は明日はもう来られないと思っていたので、風邪をひかない様にしてください、などと言葉をかけて。)ワークを予定されている方達は車で笹屋敷にあるエマオのテントへ向かわれた。梶浦姉と運転してくださったスタッフと3人で、荒浜小学校(現在は閉校していて立ち入り禁止の札が立てられていた)で車を止めてもらって雨風の強い中、しばし校舎を見つめた。既に体育館は取壊されていて、校舎3階までの片付けもしていないそうである。4階や屋上まで逃げた人は命が助かったそうだが、体育館と足が不自由で4階まで上がれなかった方達が犠牲になったというニュースや仙台で海岸に200~300もの遺体が流れついた、というのはここの事か、と絶句した。

 雨の中、荒浜の防砂林の松もまばらにしか残っていない浜辺に車を停めて「東日本大震災犠牲者」の石碑と観音像を見た。地元の方達が費用を負担して建立された観音像。この像の頭頂部まで、津波が押し寄せたそうだ。石碑には2歳から90歳代までの、ご遺体の身元が判明した方達の名前が記されていた。

 居住禁止区域には礎石だけが残っている家も多くあり、みなさん大きな家に住まわれていた方達が仮設暮らしをされている、とのスタッフの説明に改めて過去とこれからどうするか、を問わないように気をつけている、ということが理解出来た。居住禁止区域の中に明るいオレンジ色の小屋があって、そこは、お寺の仮の本殿とのことだった。仏教信仰の根強い地域でもある。依頼されれば、読経もされるのだろう。砂浜には工事車両のための道が1本、作られていた。荒浜へ来る道すがらも大きなトラックに何台もすれ違った。

 どうぞ、安らかにお眠りください。と黙祷を捧げ、後は涙が流れて雨風の強い中、傘も吹き飛ばされそうなのでたたんで、掲示された写真を見せていただいたり、海を見つめたりして浜辺を立ち去り難かった。

 私たちはワークへ行かれている方達のための食事を作りに、遠く香川からみなさんの献金で派遣されてきたのだった。そして、この地で見たことや聞いたことを帰って報告しなければならない。そう思い直して

エマオへ帰り、午後からはカレーを作り、2つの釜にご飯を炊いた。サラダもたっぷり作り、さまざまな大きさ、図柄のお皿を並べてミーティングの後、みなさんといただいた。

 ミーティングの最後に全員で手を繋いでお祈りをする。このとき、ワークへ行っていたみなさんは大きな温かい手で、丁寧に被災した方の家の片付けをしたり、畑を耕してきたのだろう、と実感した。

 ピート・シガーという人の「ひとりの小さな手」という曲が讃美歌二編・「ともにうたおう」というところに収められている。「ひとりの小さな手 なにも出来ないけど それでもみんなの手と手をあわせれば なにか出来る なにか出来る」という歌詞だが、まさに、1人1人の弱い人間でもみんなが集まればなにか出来ることがあるのではないか、と思った。23日夜は明け方近くまで眠れなかった。

 10月24日 ワーク3日目 菅野農園での半日作業

 昨夜のミーティングの後、スタッフの方が「明日もラジオ体操へ参加しませんか?その後、護さんの運転する車で菅野さんの農園のビニールハウスの中のささげ(インゲン豆)の残りを摘み取り、支柱を抜いて、弦をのけて、草抜きをする作業を手伝いませんか?」と提案してくださった。私達に色々な体験をさせてくださろうという配慮にただただ感謝である。

 仮設住宅へ3回目に訪問した日は、ラジオ体操の後、すぐ近くのみなし仮設に2人でお住まいの大学さんのお宅へ梶浦姉と一緒に訪問した。コーヒーを入れてくださり、写真を見せてくださった。中には、濡れてしまった写真をきれいに洗って大切そうにアルバムに入れていたものもあり、お話もたくさん聞かせていただいた。同世代ということもあって、話が弾み、あっという間に時間が来てしまい、必ずお便りを書きます、と約束して失礼した。大学さんのところへみなさんが集って、折り紙を折って作った飾りやストラップをJRの駅構内の「復興支援コーナー」で売られていたのを、帰りの仙台駅で見つけた。この手作り作品を丸亀教会のバザーで販売することを相談して帰った。

 護さんの運転で「エマオ笹屋敷」へ行き、さらに、そこから菅野農園へ移動した。エマオ笹屋敷でいくつかのグループに分かれ、徒歩や自転車でそれぞれのお家でのワークを。3時まで手伝いをされる方達は長靴・ゴム手袋でカッパも着て作業しやすい格好である。私もスモックにゴム手袋、長靴はエマオのをお借りした。大体のものは揃っているようだった。自転車もいざという時にさっと乗れるように、鍵をかけないそうだ。この日は昨夜、埼玉県加須市から来られた2人の女性も増え、ワークに参加する若者も多く、みんな張り切って三々五々散って行った。

 菅野さんは比較的早く農業を再開されたそうで、貸し農園もお持ちで、朝市で野菜を売っていらっしゃるとのこと。優しそうな奥さんと震災後生まれた双子の茶色と白色の犬が歓迎してくれた。

 雨が少し降っていたが、ビニールハウスの中だったので、豆をちぎっては支柱を抜く、という作業を2時間ぐらい続けると汗ばむほどだった。

 午後からはロールキャベツや、茄子の味噌煮・ポテトサラダなどを作った。エマオの広いキッチンには、送られてきたり、手伝いに行った農家からいただいたお米やたくさんの食材が置かれていて、足りないものだけを買い足す、といった取り決めになっていたので、よく探せば大抵の調味料もあり、あるものを生かしておよその人数を考えての食事作りをすればよかった。1人200円ぐらいで、でも、あまり金額には拘らないで、余れば翌朝、朝食としてこれからの季節、温かい食べ物は歓迎ですから、といわれ、ご飯も多めに炊いた。余ればすぐ、ラップに包んで冷凍していた。

 三日間、夕食だけは10~15人分位作ったが、朝は宿泊していた教会で、お昼もワーク1日目のお弁当プロジェクトに参加した日以外は、カップ麺などを食べた。

 反省点としては、もう少し若いワーカーの方と、ゆっくり話が出来ればよかったと思っている。彼らの思いの核心には触れずじまいだった。

 最後に。

  荒浜フィールドワークでの衝撃が強く、仮設住宅に残っている高齢者の気持ちを考えることで、今、自分が生かされていることを再認識した。日常的には、教会員としての奉仕もオルガニストであるということ以外はあまり出来てはいない。また、たくさんの方の支援献金や募金で旅費を出していただいて貴重な体験をさせていただいたが、こうして報告をまとめようとしても、心情に流された文章になってしまいがちである。だが、自分の目で見、被災地の方やワークに来ている人々、スタッフの方たちと会話し、お話を伺うことが、自分のこれからの信仰生活に反映することが出来れば、とも思った。同じ痛みを味わいそれでも前へ進んでいこうとしている多くの人々がいることを忘れずに、また次へとバトンタッチ出来ればと思っている。まさしくスローワークとして。

 震災直後の2011年3月15日に設立され、延べ5000人近くのボランティアがワークに参加し、国内外からたくさんの支援金も人も送られてきた、このエマオのスローワークがいつまでも続くようにと願ってやまない。青葉荘教会の和室にはこんな額がかけられていた。「草はしおれ 花は散る しかし 主のことばはとこしえに変ることがない」(ペテロ第1 24・25節)

「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
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