第19次派遣報告

 
日 時 :2014年3月16日(日)~20日(木)
派遣先 : 東北教区被災者支援センターエマオ
松田直樹(今治教会)

9月16日~20日の旅程で、今治教会の地の塩会(高校生会)がエマオ仙台でのボランティアに参加し、無事に帰って来ることができた。皆さんのお祈りとお支えのうちに、今回の東北行きが実現したわけであるが、そもそも、なぜ地の塩会が仙台へ行く事になったのか、というところから筆を起こしたい。私は去年の9月にエマオ仙台におもむく、東雲女子大学の学生さんの引率役をおおせつかった。これは本来、東雲の先生が引率するはずのところ、都合のつく先生がおらず、私にお役が回って来たものであるが、そのことがきっかけとなって、私自身、初めてエマオ仙台へ行くことになった。今治教会においても何度か、そのことについて報告したりお話したりする機会があったが、それからのち、地の塩会の中から、「私たちもエマオのボランティアに参加したい」との声が聞こえてきた。地の塩会に普段からかかわっている姉妹からの働きかけもあり、この地の塩会の中からの希望をうけて、地の塩会の東北行きの計画が動き始めた。
 まず、時期は春休みと定めた。そこから、参加者を募り、日程をすり合わせていったところ、参加者は、高校生3名、大人は、私を含めて2名、日程は、3月16日から20日と決まった。割引きを効かすため、飛行機のチケットも早々にとって、準備を始めた。この際、取り組んだことの、一つが、派遣のための募金と、地の塩会によるコーヒーとお菓子の販売であった。地の塩会の東北行きが具体化したとき、その派遣費用、これは、ほとんどを旅費が占めるのであるが、この費用をどうしようかということになった。まず、大人2人分は、四国教区で、東北へのボランティア派遣の働きを担っている東日本大震災被災支援小委員会、エマオへの道四国にお願いしようということになった。一方、高校生3人の分は当初、教会の、伝道や教育のための積立金を活用しようという方針で進められたのであるが、子どもの教会のスタッフ会でそのことを話したところ、地の塩会自身で派遣費用を集められないか、コーヒーの販売などをしてはどうだろう、という意見が出た。私は、それは面白いと思いつつ、3人分の旅費を集めるのは、中々大変であろうと思うが、果たしてコーヒー販売で必要な利益が得られるだろうか、また、ただでさえ、忙しそうにしているが、高校生がこの計画に乗ってくれるだろうか、と心配していた。しかし、その心配も杞憂に終わり、高校生は思わん、積極的に、関わってくれた。コーヒー販売は当初予定したよりも、ずっと回数を多く実施しても、忙しい中を参加して、準備から、販売、片付けまで頑張ってくれた。またお菓子作りの得意な高校生、この高校生は、ボランティア参加の気持ちを持っていたにも関わらず、今回は参加がかなわなかったのであるが、その高校生がお菓子を作って持って来てくれて、コーヒーと共に販売することができた。またその販売するコーヒーは教会員の姉妹が献品してくれたものであり、また、クッキーを焼いて持って来て下さった姉妹もいた。さらに、役員会の時には、コーヒーとお菓子だけでなく、何かお腹にたまるものを出そう、というところからはじまり、より規模が大きくなって、婦人会の方、また子どもの教会の子どもたちやスタッフによってカレー作りが行われ、役員会のみならず、多くの人々に向けて提供することができた。また、これらの活動と並行して募金も行なわれた。コーヒー、お菓子の販売、カレー販売、の利益また募金の結果、高校生3人が仙台へ行くための十分な費用が集まった。
 費用が集まりつつある中で、2月に事前の説明会を行った。エマオのボランティアも、1回行ってしまえば、ああ、こんな感じかと、容量を把握できるのであるが、実際行ってみるまでは、中々、想像のつかないものである。また一足先に、仙台でのボランティアに行っていた、2人の姉妹からも、最近の仙台やエマオの様子も聞きつつ、準備を進め、いよいよ、3月16日、日曜日、出発の日がやってきた。日曜日、主日礼拝を守った後、15時30分に教会を出発した。松山空港まで車で行き空路、伊丹経由で仙台へと入った。松山18時ちょうど発の飛行機で、仙台に到着したのが21時前、そこから鉄道、バスを乗り継いで、宿泊先の先の北三番丁教会に着いたのは22時であった。
 翌日、月曜日はエマオでの活動に参加している柴田先生の案内により、フィールドワークに参加した。朝8時に教会に車で迎えに来てもらい、まずは、七郷中央公園仮設住宅へ向かった。そこで、まず朝のラジオ体操に参加した。こんなことも実際行ってみるのと、想像していたのとでは違って、私は屋外でやっているものと思っていたのであるが、実際は、仮設住宅群の一角にある集会所の大きな部屋で体操を行っていた。その後、同じ部屋で、仮設住宅の方と、お茶の時間、「おちゃっこ」を楽しんだ。その日は月曜日で、病院などに行った人が多い、ということで、最初は仮設住宅に住んでいる方は、1人しか、出ていなかったが、途中で、高齢の女性の方も参加した。仙台の中心部ではかなり標準語化が進んでいるのであるが、エマオ仙台が活動している、海岸に近い、笹屋敷、また今は仮設住宅に住んでいる人たちが元々住んでいた荒浜という地区では、特に年配の方の間にはかなり濃厚な仙台弁が保たれている。今治から仙台まで、飛行機で移動しても6時間以上かかり、四国と東北の地理的な距離、というものを感じたが、言葉にも今治から仙台への遠さ、というものを感じた。2人の荒浜の方の会話を聞いて、「なんちゃ、分からん」と言っていたが、これも今治の高校生たちには新鮮な経験であったろうと思う。
 遠くからやってきた初めて会う5人に取り囲まれて最初に居た荒浜の方は言葉少なく退屈そうにしていたが、後から2人目の方が加わってからは、表情も和らいだ。それからほどなくして我々は、集会所を後にして、仮設住宅について少し説明してもらった。外からぱっと見ただけでは、単に、簡素な住宅という印象しか受けないが、実際には、鉄骨の柱がむき出しで、たっているので、屋外の温度が屋内に容易に伝わり、夏の暑さ、冬の寒さが極端であるとのことであった。
 その後、その仮設住宅の方々が本来住んでいた、荒浜地区へ向かった。荒浜は、防風林を挟んで海のすぐそばにある地域で、つまりこのあたりで、一番津波の被害を受けた地域である。今は家の基礎だけが残り、ほとんど更地の状態で、あたかも最初からこのような原っぱであったかのように思われるが、震災前の映像を見ると、実際には家が建てこんだ住宅街であったことが分かる。私が荒浜を訪れるのは2回目であったが前回とほとんど変わっていなかった。居住禁止区域であるから、変わりようがないのである。
 それから、石巻へ向かった、復興途上の地域にできてきている、大型商業施設を横目にしながら、まず、大川小学校へと向かった。ここは、子供達、また避難してきていた大勢の人が亡くなったところである。この大川小学校については避難の際の判断が誤っていたのではないか、ということで、裁判にもなっている。ここは、距離にすれば海から近いのであるが、一方を川に、三方を山に囲まれ、小さな盆地のようになっていて、一見海から遠いような印象を受ける。小学校は堤防のすぐ近くの低地に建っていた。しかし津波は川を遡上して避難する人々の列を飲み込んだのであった。この小学校の惨劇に関して、避難についての判断の問題もあり、また、柴田先生が言うには、そもそもこんなところに小学校を建てたのが間違いだったということである。
 荒浜や大川小学校にある石碑に刻まれた、津波によって亡くなった被害者の方、一人一人の名前を見て思うのは、天災だから、人が亡くなるのも、仕方がないなどとは、絶対に言いたくない、ということである。地震や津波自体が起こるのは防げないにしても、被害を最小にする方策は人間にも与えられていると思う。しかし、これからのまち作りについて言えば、海岸沿いの全ての地域で、高台への移転の動きと、元の住み慣れた海沿いに帰りたいという願い、また膨大な費用と時間を要するかさ上げ工事等々、様々な葛藤があり、一概にはどうすべきかいずれの意見にも容易には与し得ない。
 つづいてさらに海沿いにある長面地区を見学した。ここは地盤沈下のために元は陸地であったところが湿地のようになってしまっていた。ここは復旧も遅く去年になるまで電気も水道も通っていなかったという事である。
 つづいて石巻市に取り囲まれるようにして位置する女川町へと向かった。ここは原発が置かれているところであるが、市街地は大きな被害を受けていた。ひときわ目についたのが津波に倒されて、完全に横倒しになった銀行のビルである。ここも避難を巡って裁判になっており、裁判の資料とするため、わざとそのまま残しているそうである。女川町では土地のかさ上げ工事を行っていたが、それは数十センチ、数メートル、の話ではなく、かさ上げが完成して、さらにそこから町が復興するのは何年先になるのか分からないというような状況であった。その後、昼食をとり、石巻市の市街地を見てから、仙台へ帰った。
 翌、火曜日からいよいよワークに入った。その日のワーカーは我々を含めて10人程度であった。春休みなのでもっと多いかと思っていたのであるが、意外と少人数で、こぢんまりとした雰囲気であった。普段は、青葉区にあるエマオ仙台から、笹屋敷にある拠点まで、自転車で移動するのであるが、この時期はまだ冬季の方式で、車で移動した。そして、笹屋敷の拠点で、ワークの派遣先の振り分けが行われた。ワークの内容は、前回、私が参加した時と同じく、農家の復興支援ということで、農作業の手伝いであった。
 その日は、初め私と、地の塩会の高校生1人、ベテランワーカー1人の3人でハウスのほうれん草畑の作業を行った。具体的には、ほうれん草畑にはえる草を取り除く作業である。すでに作業が終わっていた場所以外は、草ぼうぼうで、草原の中に、ほうれん草がまぎれている、といった様子であった。10時から作業を始め、ほうれん草を傷つけないように、鎌で土を掘ったりしながら慎重に、草を抜いていった。
 畑の持ち主の方、また近所の方も交えた休憩をよくはさんでの作業で、エマオのモットーであるスローワークを地で行く作業であった。昼からは他のワーク先で作業が中止になったために合流した3人も加わって作業を行った。畑全部の草取りを終わることはできなかったが、規則通り15時には作業を終え、笹屋敷の拠点を経て、エマオ仙台へと帰った。
 水曜日には、同じ農家に行った。今回は私と、地の塩会の高校生1名だけで行く事になってしまった。前日いたベテランのワーカーはその農家の方と親しかったので、その人がいなければ、言葉も100パーセントはとても通じないのに、大丈夫かと思っていたが、何とか作業を行うことがでた。その日はまず前日からの続き、ほうれん草畑の草取りを行った。なかなか地道な作業であったが、草を取り終えて、綺麗にほうれん草が並んだ様子を見ると中々達成感があった。草を取り終えてから、農家の人が、水撒きを行った。小さな穴の開いたホースを一本、畑の真ん中に端から端まで通して、水をまいていた。1時間ほどは水を出すという。小さい穴から水が霧のように出て、うっすらと虹がかかっていた。
 その後は、かぶ畑のかぶが出荷には適さないというので15時の終了時間まで、処分するかぶを抜いてトラックに載せる作業を行った。その日も休憩をはさみはさみの作業であったが、その農家の方は野球に詳しいらしく、高校生と野球談議で盛り上がっていた。
 今回は休憩時間が多かった、ということと、お昼に農家の方のお宅にお邪魔して一緒に昼食をとったということもあり、前回よりも人とのつながり、というものをもてたように思う。一緒に居間でご飯を食べて、またテレビを見ている時、またとりわけその中で震災関連のニュースが映っている時、私は今、被災地の日常に入り込んでいるのだな、と思い不思議な感覚をおぼえた。一度ボランティアに来たとはいえ、普段遠くにある被災地が、急に、目の前の、間近なものになったからかもしれない。
 さてそのようにして、1日のフィールドワーク、2日間のワークを終え、木曜日には帰路についた。そして、予定通り、木曜日の夜に今治へと帰ってくることができた。私以外の参加者はエマオでのボランティアは初経験、私も前回は東雲女子大学の先生のお膳立てに乗っかったようなものであったので、実質、初めての引率であったが、何とか無事に高校生を連れて帰ることが出来た。高校生の家を車で回って送り届けた後には、安堵した。今回参加した高校生も、参加できなかった高校生も、再度の参加に乗り気になってくれている。震災からまる3年たったが、被災地の人々と共にいる、ということを示すため、そのつながりが切れないように、少しでもお役に立つべく、また皆で参加したいと思う。


「エマオへの道・四国」
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