「エマオへの道・四国」報告

 
滞在期間 :201492日(火)~7日(日)
派遣先  : 東北教区被災者支援センターエマオ &福島県 伊達教会ほか
岡田真希(丸亀教会)

 

皆様のご支援を受け、2014年9月2日(火)~5日(金)の4日間、東北教区被災者支援センター・エマオにボランティアに行かせていただきました。ワークの場所は仙台市若林区笹屋敷と七郷です。また、今回はエマオのスタッフが仙台市の荒浜、蒲生、そして名取市の閖上を、震災当時の様子を説明しながら回ってくださいました(フィールドワーク)。エマオに来たボランティアは全員、リピーターであってもフィールドワークに参加するようになっているようでした。

今回は4度目のボランティアになります。震災後半年して初めて現地を訪れましたが、あれから3年が経ちます。今回はエマオでのワークを4日間した後、96日(土)にレンタカーを借りて福島を走ってきましたので、ワークと合わせて車から見えたモノもご報告いたします


ワークの内容
 まずは9月2日から5日までの自分のワークの内容です。

2日
(火)


○午前中は七郷中央公園仮設の草むしり(北星学園大学の学生たちと)

○午後から荒浜、蒲生、閖上の各地区の様子をエマオのスタッフが車で見せてくださる(フィールドワーク)

3日
(水)


Nさん宅のお手伝い(笹屋敷にて桜美林大学の学生たちと)

○玉ねぎとジャガイモの選別作業

4日
(木)


Nさん宅のお手伝い(桜美林大学の学生たちと)

○ビニールハウスで育てているキュウリの畑に、雑草防止の藁をしく
○農業用のネットを洗ってたたむ作業
○午後からお宅の草刈り
○農具の土落とし・洗い

5日
(金)


Nさん宅のお手伝い(名古屋学院・桜美林大学の学生、松山東雲大学の学生の小学生の息子さんと)
○お宅の草刈り
○枝豆の皮むき(肥料用)
○午後からビニールハウスのナスとピーマンとパプリカの収穫作業
○ナス・ピーマン・パプリカの茎の固定

6日
(土)


レンタカーで福島へ
 (仙台~山元~相馬~南相馬~浪江~飯舘村~伊達)

津波は東から来て仙台を襲いましたが、海岸から数キロのところを南北に走っている仙台東部道路が防波堤の役割を果たし、それによって内陸は津波による大きな被害は免れました。震災後半年がたった時にはじめて若林区七郷・笹屋敷に来ましたが、その時には道路の東側と西側では風景がまるで違っていました。

   当時は道路の東側(海側)は茶色一色の風景でしたが、今は見渡す限り稲が実り、農業の営みが戻って来ていることを見ることが出来ました。

   道路の西側(陸側)には、復興住宅が建てられていました。大きなもので、200世帯が入るマンションでした。今のところ9割ほど入っている、との説明を受けました。そのほかにも、老人保健施設が建設中であったり、新築の個人の家もたくさん建てられていたりしたので、その地域の景観も随分変わって来ていました。

   ワークの内容は上記に表でまとめたので詳述はしませんが、ワーク中に垣間見たものを記します。

   Nさんはお宅から少し車で走ったところに、8つの大きなビニールハウスを借りていらっしゃいます。「すごいですね、これ全部ですか」と言うと、「私しか借りる人がいないんだからしょうがないよね」とおっしゃいました。笹屋敷周辺の農業事情が垣間見えた言葉でした。

   ビニールハウスから車で戻って来る途中、Nさんが「あのおじいちゃん頑張ってるんだ、一人で」と、畑を耕している方を指さされました。その方は震災後、どうしても住み慣れた家を壊して新しくするとは忍びない、と言って、家を壊すための補助金を受け取らなかったそうです。今でも津波と地震で痛んだままの家の中で、自分で板をしいて応急処置を施した小さなスペースに寝起きしながら畑を続けていらっしゃるとのことでした。

   また、Nさん宅の庭で野菜の選別作業をしている時、近所の方(女性)がやってこられて、お二人が立ち話をされました。明るくお話なさっていましたが、女性が帰っていかれた後、「今の人もね、津波の時に自分のお父さんが低体温症で亡くなっちゃったのよ。大変だ・・・ホント、みんな、大変だ・・・」とNさんはおっしゃっていました。



フィールドワークで見た物
   ワーク初日に、エマオのスタッフ(マモルさん)がフィールドワークに連れて行ってくださいました。

   午前中、七郷中央公園仮設の除草作業をして、午後から仙台市若林区荒浜、仙台市宮城野区蒲生、名取市閖上に行きました。

①仙台市若林区荒浜
   仙台市若林区荒浜に行くと、松林の中に津波と同じ高さの観音像と、慰霊碑が建てられています。仙台空港に着陸する飛行機が目印にしていた、というほどの見事な荒浜の松林でしたが、今は多くが流され、隙間が目立っています。
   慰霊碑には津波の犠牲者の名前が刻まれていました。同じ苗字の名前が並んでいるのを見て、家族単位、親族単位で犠牲なった方が多くいらっしゃることがわかります。
   観音像の近くには数か所、家の基礎部分跡に黄色い旗が建てられていました。これは、仙台市の居住禁止区域の指定に対する反対の意思表示だそうです。先祖代々(江戸時代)から続いてきた農業に誇りを持っている土地の方々の想いがそこに現れていました。

②仙台市宮城野区蒲生
   荒浜からしばらく北上し、東西に流れる川に沿って下流に向かいます。仙台市宮城野区蒲生へ。ここには中野小学校がありました。今は取り壊され、前に慰霊碑が建てられています。慰霊碑にはボックスが設置されており、「20113.11 東日本大震災 仙台市立中野小学校へ避難した600人の人達と過ごした24時間」という冊子が置かれ、自由に取れるようになっていました。後世に震災を伝えるために蒲生町内会の片桐勝二氏によって書かれたもので、地震後津波をやり過ごした緊迫した24時間のことが記されています。氏の文章は詳細な長文ですが、ここでは少しだけ引用させていただきます。

「避難している方々の多くが休憩室の中で、時々おこる大きな余震や、小学校の西側の工場の火事で燃え盛り押し寄せてくるような炎に身の危険を感じていた。遠方にある仙台市ガス工場の火災で、大きな爆音が聞こえる中で、西原町内の下山さんをはじめ多くの若い方々が各部屋を回りながら、避難していた人たちの気持ちが混乱しないよう励ましの声を掛けたり、元気づけたりしていた。さらに、冷静な行動をとるよう声がけをしてくれた。

   二階のフロアーには、トイレが2箇所あったが、避難した人たちの使用する回数が多く、さらに暗がりで使用するために汚れが目立った。避難していた若い人たちが誰に言われることなく、学校にある備え付けの掃除用具を使い掃除を行ってくれた。

  職員室の緊急防災無線の前で仙台市の対策本部の担当者と何度も連絡を取り合っていた西原の大和田町内会長から無線で交信が取れ、小学校での避難状況を伝え、早急に防寒用の毛布を搬入するように依頼したとの連絡を受け、屋上でヘリコプターが来るのを待った。

   大きな爆音を立てながら自衛隊のヘリコプターが小学校の屋上上空に近づき、毛布の入った段ボール箱数個を投下してくれた」(冊子6頁)。

   「夜明けとともに、避難していた人達は屋上へ上がり、目の前に映る校庭に積みあがった瓦礫の山や、無残に変わり果てた我が家や蒲生の街並みを見つめ、呆然とする人、鳴き声とも悲鳴ともわからない声を出している人、泣き崩れ近くの人に支えられている人など、悲しみとも諦めとも取れない姿が数多く見受けられた。」(冊子8頁)

冊子の最後には、詩が書かれています。

「避 難」

逃げろ!

逃げて、生きろ!

必死に逃げて、生きろ!

後ろを振り返らず、必死に逃きって(ママ)生きろ!

逃げきって、生きたら、ゆっくり振り返れ!

何もなくても、身一つあれば、

そこには、やるべきことがある。

そこには、やらなければならないことがある。

 

上がれ!

上がって、生きろ!

必死で高台へ上がって、生きろ!

下を見ないで、ただ必死に高台へ上がって、生きろ!

上がりきって、生きたら、ゆっくりと下をみろ!!

何もなくても、身一つあれば、

そこには、やるべきことがある。

そこには、やらなければならないことがある。


  ③名取市閖上
   仙台市から名取市に入る手前に、壊れたままの墓地がありました。墓石が瓦礫の状態のまま放置されていましたが、マモルさんの説明によると、「近くにあった集落の墓地なんですが、もうこの墓地を直す人がいないんです。集落ごと津波に流されましたから」とのことでした。その集落跡は、雑草が生えており、家々があった形跡も車中からは確認できませんでした。
   名取市に入り、閖上中学校に行きました。中学校の時計は246分で止まったままです。正門から入ったところに教室でつかわれていた机が並べられており、小さな祭壇が造られていました。

   机の上にマジックで書かれていたメッセージです。

「あの日大勢の人達が津波から逃れるため、この閖中を目指して走りました。街の復興はとても大切なことです。でもたくさんの人達の命が今もここにあることを忘れないでほしい。死んだら終わりですか?生き残った私達に出来る事を考えます。」

   「閖上中の大切な大切な仲間14人がやすらかな眠りにつける様祈っています。津波は忘れても14人を忘れないでいてほしい。いつも一緒だよ。」

 閖上中学校の前には遺族会がプレハブを建て、中学校の昔の日々の写真を展示していました。机に書かれたメッセージもそうですが、「忘れないでほしい」という強い思いを抱かれていることが伝わってきました。
   マモルさんに、「津波で亡くなった生徒たちの名前がここに刻まれていますので、触ってあげてください」と言われ、めいめいが中学一年生から三年生までの一人ひとりの名前を自分の手でなぞりました。

   次に「特別養護老人ホームうらやす」跡に行きました。あの日、津波が来る、というので近くの学校までお年寄りを職員が車で運んだそうです。しかし、1人の利用者に対して3人の介助者が必要で、何度も施設と学校との間を往復しているうちに車ごと流された、とのことでした。施設は3階建ての棟もあり、その屋上に避難すれば助かっていたのだそうです。津波を想定して3階建ての棟を建てていたにも関わらず、なぜ学校に避難させようとしたのか、施設側の対応を巡って今でも訴訟が続いているのだそうです。


  ④仙台市と名取市の政策と課題

仙台市と名取市の二つの市をフィールドワークで見せていただけたので、それぞれの市の政策の違いと課題を知ることが出来ました。
  仙台市の政策は、海岸線に沿って土をかさ上げし、そこに道路を造って南北に走らせ、更に、海岸沿いを公園にして、それでいわば今後の津波の防波堤にする、というものでした。

   その「防波堤」の内側(陸側)においては、生産から消費まで一貫して行える大型農業を推進していました。我々がボランティアワークをした家々の近くでも、大規模に畑が整地されており、「これからこの辺りの個人の農家では太刀打ちできなくなってしまうかもしれない」とのことでした。

   名取市の政策は、かさ上げして高くした土地に住民が集団移転する、というものです。しかし、どれだけの人が閖上に戻って来るかわからないので、かさ上げする面積がまだ決まっていない、とのことでした。


レンタカーで

   96日(土)に仙台エマオを後にして、レンタカーで仙台市~山元町~相馬市~南相馬市~双葉郡浪江町~飯舘村~伊達市を回りました。以下、車中から見えたモノを記します。

   仙台空港ICから仙台東部道路に乗り、「福島第一原発に近づけるところまで近づいてみよう」、と南下しました。山元町ICまで、仙台東部道路の上からよく見えたのは、道路の左側と右側の違いです。先述のように、この道路は東から来た津波の防波堤になりました。そのため、南に向かう車中から見える左側は津波で浸水した地域であり、右側は浸水しなかった地域になります。左側には荒地が、右側には稲の実りが見えました。道路を挟んで海側と陸側の方々の生活と意識の差は大きいだろうな、と思わされました。

   山元町ICで降りて、相馬市に入っていきます。国道6号線を下っていると「過去の津波浸水地域」「東日本大震災浸水地域」の看板が繰り返し目に入ります。この道においても、仙台東部道路と同じように、左側(海側)に荒地が多く見られました。相馬市、南相馬市と福島第一原発に近づくにつれ、荒地が目立って増えていきます。放射性物質による汚染の影響か、畑・田で農作物は造られていませんでした。

   南相馬市の道を南下しながら東に目を向けると、地平の彼方に海の青が少しだけ見えました。「あの距離からここまで津波は届いたのか」と改めて驚かされました。はるか遠くに見える海に至るまで農作地が続いていましたが、全て荒地になっており、流されて仰向けになった車がそのまま放置されていました。


原発を目指して・・・

   南相馬市から双葉郡浪江町に入ると、工事関係者以外の人を見ることはなくなりました。住民の方は皆、避難されているのでしょう。町はそのまま残っているのに、住民がいない異様な光景でした。

   立ち入り禁止区域の前でUターンして、南相馬市小高区に向かいます。ここにも、人はいませんでした。福島第一原発から20キロ圏内になります。スーパーに車が止まっていたので寄ってみたが、工事の事務所として使われていました。

   街の中に日本キリスト教団小高教会と付属の幼稚園がありました(信徒の友2012年9月号に、震災時とその後の小高教会の様子が書かれている)。讃美の声も子供たちの声もない教会と幼稚園は、寒々しく、そして痛々しいものでした。

   小高駅(JR常磐線)には鍵がかけられており、線路にも自転車置き場のコンクリートにも草が茂っており、町同様駅も、「あの時」から時が止まったままになっていました。

   そこから伊達市に向かうため北西に車を走らせます。飯舘村を通過する際、道路の両脇に「除染作業中」という黄色い旗が並んでおり、人家の敷地や畑の表面を削る作業が行われていました。

   そこで改めて思わされたのは、放射性物質は、目に見えないからこそ怖い、ということです。無色無臭なので、何がどう危険なのかが五感では分からないのです。放射性物質は目に見えないので、町も昨日と同じように住めるように見えるし、畑も使えるように見えます。それだけに、突然避難しなければならなかった人達は悔しかっただろう、と思います。頭でわかっても、なぜ自分が家から立ち退かなければならないのか、なぜ自分が先祖から受け継いだ田畑で作物を作ってはならないのか納得できないのではないでしょうか。


最後に 

   生活を再建しようと頑張っていらっしゃる方々と共に働く生活から、再びスマホやパソコンを使って指一本でなんでも揃う生活に戻って来ました。仙台エマオが大切にしている「寄り添う」ということがいかに難しいかを思い知らされます。現地にいてその方々と一緒に働いたり、話を聞かせていただいたりする時はまだしも、東北を離れて四国に帰ってきて日常に戻ると、「点で終わらせない」ということの難しさを感じます。「線で結ばれていたい」という思いがあるからこそ、仙台エマオにはリピーターが多いのだと思います。

   シェアリングの時に、大学生たちは被災地の方々の想いを受け止めきれない自分に無力感を覚えて泣いていました。皆、自分ではどうしようもないこと、自分を越えたもの(災害や人の心)に直面し、動揺します。しかし、そのエマオの活動を精神的に支えているのがまさに「祈り」であると、今回は特に強く感じました。

    エマオのワークは祈りで始まり、祈りで終わります。キリスト教を知らない若者たちは、はじめは祈りの輪に加わることに戸惑ったり照れたりしますが、被災地で日にちを重ねると自然に祈りの輪の中に入り、祈りに沈潜していきます。自分を越えた存在への「祈り」という営みに導かれていきます。

   そのような学生たちを見ていて、皆、「祈りたい、祈らないとやってられない」という心をもっているのだ、と感じました。祈れる神を知らず、祈る場を知らず、祈りの言葉を知らない人達に対して、教会はとても大切な働きを担っていると思わされました。教会に求められるのは、何か「いいこと」をするよりも以前に、どんなことがあっても祈りの場を固守する、礼拝の灯を消さない、ということです。どんな状況にあっても「祈りの難民・礼拝難民」をつくらない、ということが教会の一番大切な役割であると、今回の旅で感じました。

   ある学生が、エマオでワークを終えて帰っていくときの挨拶で、「微力だが、無力ではない」と言いました。大切にしたい言葉です。97日の日曜日の朝、仙台六番丁教会の礼拝に出席して、四国に戻ってきました。仙台六番丁教会の教会員さんに、「他県から来てくれたことで、自分たちは忘れられていない、と思えます。こういうことは私達にとって何より励まされます」と言われました。継続して一人でも多くの方を四国から人を送ることができれば、と願います。東北のためにも、四国のためにも。



  多額のご支援を本当にありがとうございました。


「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
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