「エマオへの道・四国」活動報告

 
日 時 :2014年6月 9日(月)~13日(金)
派遣先 : 東北教区被災者支援センターエマオ
森田智恵美(川上教会)

2011311日 夕方7時前、当時勤めていた保育所の帰り仕度をしながら携帯を開くと、鎌倉に住む教え子のT子さんからメールが入っていた。

「先生怖い。今、地震で揺れている。祈ってて。」

T子さんは、今は休園しているが、かつて川上教会の牧師兼、週間幼稚科オリブ園長を9年間労して下さった、M先生のご長女である。彼女からの通信は久しぶりで驚いたが、(地震に過敏なご一家だから)と少々呑気にも思いつつ、心騒がせながら自宅へと車を走らせた。帰宅すると、先に帰った夫が普段は見ないテレビを間近で見ながら、「姉ちゃんは無事やった。」と繰り返して言った。福島県西郷村に住む義姉は、災害伝言ダイヤルで愛媛の両親に無事を知らせていた。

音の無い映画のような画像を見ながら、私はこのシーンがこの世の今の現実である事がなかなか信じられなかった。翌々日の主日礼拝では福島県矢祭町に実家があるOさんが、まだお母様の安否の確認が取れていない中、泣くのを堪えながら司会者祈祷で、東北の方々の一日も早い救出と復興を祈る祈りに、私たちも心を合わせた。

後日、Oさんのお母様もM先生ご一家も無事との知らせを受けてホッとした。

長年親しくさせてもらっている篠浦牧師から「この東北大震災は、10年、20年という長いスパンで考えなければいけない。」という言葉をもらい、東北の方々の「私たちを忘れないで下さい。」という思いを私も忘れないでいようと思った。

祈って応援する事しか出来ず3年の月日が流れた5月下旬、教会に置いてあった「エマオへの道・四国」の2013年度活動報告書を目にした。3月末日で離職した私は興味深く読みながら、篠浦牧師に『エマオへの道』が気になるんだけど、と話した時に、「ちえみちゃん、6月9日から1週間、丸亀からご夫妻(栗崎さん、厚子さん)で行かれる方がいるよ。」と聞かされ、「同じ四国だから、合流したいな。」と思った。香川で生まれ育った私は、同郷でもある。

その日のうちにエマオ行きがまとまり、12日後に旅立つというスピードに戸惑いはあったが「『チャンスは前髪三本でつかめ』が亡き母の教えよ。」という篠浦牧師の言葉に背中を押された。

心と持参物の準備をしながら、2007年7月 名古屋で行われた全国キリスト教保育連盟夏期講習会での愛知国際病院・ AHI理事長の川原啓美先生の「みんなで生きるために」と題した講演を思い出す。

GOD  HEALS    WE  SERVE  神は癒し  我ら仕える

治して下さるのは、神さま。でも、超能力ではない。

我らは、奉仕者として、神の御業に加わっていく。

みんなで生きていくために、お互いに協力しながら、すすめていこう。

そしてもうひとつ、2013年、120日 川上教会の特別伝道礼拝で語って下さった八幡浜教会の森分直基牧師から、コリント信徒への手紙Ⅱ12章1~10節を通して、「この世の歩みは神の恵みを言い表すのに十分。私たちに必要な物は全て備わっている。私たちは足りないから、弱さの中でこそ力を発揮する。」というメッセージが私の心の中でリフレインされた。

幸運な事に出発直前の6月3日に、東雲女子大学チャペルアワーで、エマオ専従者の佐藤真史牧師の講演を聞く事ができた。

○仙台市、石巻市の被災状況について。

○エマオは「共に生きる」をスローガンにしていること。

○被災された方々とのふれあいを通して、小さな喜び、出会いにスローワークの楽しさを感じること。

○子ども、高齢者、障がい者、苦しみを持った人たちと、いつの日かいきいきと生きられるように、小さくされた方の傍らで一緒に歩いていきたい。一緒にスローワーク(歩いて行こう)しようという神さまの呼びかけに応えたい。

このメッセージに私は、入信のきっかけとなったマタイによる福音書2531節~「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というみ言葉を思い起こす。

出発日の6月9日、奇しくも19年前のこの日、私は緊急手術をして、その後3カ月間入院した。多くの人に祈り、励ましてもらって、今あることを思う。大げさなようだが、「エマオへの道」から呼ばれているのかもしれない、と思った。実質、三日間のワークで私に何が出来るのか、返ってご迷惑をかけないか、様々な不安がよぎるが、まずは、見て、聞いて、より添って聞いて、感じて来よう。帰って伝えようと思う。

仙台へ行くのは、1994年のキ保連夏期講習会以来2度目である。

6月9日朝、川内発の高速バスで三ノ宮へ向かう。リムジンバスに乗り換えて伊丹空港へ行く。あいにくこの日、仙台は濃霧で、午後の便は全て欠航。行き先を福島空港に変更する。小型機で福島上空から田植えが済んだばかりの田んぼを見て、早くも泣きそうになる。リムジンバスでJR郡山駅へ。新幹線で仙台駅へ向かう。

6月10日(火)ワーク初日。曇り

7時半 エマオ着。  ミーティング

           オリエンテーション

           除湿剤をタンス用、部屋用と2種類セットをする。

 スタッフの方(けんさんとふうかさん)と私との三人で車に乗って仮設へ行き、除湿剤配りに行く。

仮設は2DK、4畳半2間と簡単なキッチン。松ぐいに50㎝上げられた所にポンと置かれているプレハブ。隣の住人のあくびの音も聞こえるような手狭さである。

    荒井2号公園仮設へ。15世帯で、日中は、ほとんどの方が働きに出掛けられている。集会所に集う人は、3人くらいである。復興公園仮設に移動する人もいて、残る人は寂しさが募るし、移動されても、「まだ、仮設にいた方が良かった。」という、つぶやきもあるそうだ。

    七郷中央公園仮設   22世帯で集会所には10人くらいの方が参加される。

女性が多い(かつては大きなお屋敷のおばあちゃんたち)男性は23人。

支援を受ける側の辛さ。ずっと「ありがとう」と言う辛さもあるそうだ。

昼食は、集会所で食べる。コンビニで買ったおにぎりと元ラーメン屋さんが作ってくれたお味噌汁を頂く。北海道のお味噌にぶ厚いワカメがたっぷり入っていて、美味しかった。

・午後  おちゃっこ

常連ワーカーである、西東京のいずみさんのアコーディオンによる伴奏で演歌、唱歌など懐かしの名曲を20曲近く歌う。美空ひばりに始まり、「男はつらいよ」「蘇州夜曲」「遠島甚句」「かえり船」「さんさ時雨」等の宮城の歌も歌う。

・星影のワルツ 千 昌夫

「あんなに愛した仲なのに♪」歌った後、K子さんが「この歌、旦那が好きやった。旦那、流された。でもこうやって言いよったらえいんよな。」私はうなずいた後、涙を堪えるのに必死で、後の曲を歌う事が難しかったが、「今は、一緒に楽しく歌ったらいいんや。」と思い直して歌った。

持参して来たハーモニカで「ふるさと」「アメイジンググレイス」を吹かせてもらったが、初日で緊張と恥ずかしさもあり、遠慮しがちだった。

すると、被災者で筆まめな方が「歌もハーモニカも周りを気にせず、全身から声を出して歌ってね。頑張りや、お若いお姉ちゃん。」とその場で逆に励ましの手紙をくれて嬉しかった。

エマオへ帰ってミーティングをする。

丸亀教会から栗崎さんご夫妻が到着されて、初対面の挨拶をした後、私たちは一瞬で打ち解ける。

郵便局へ行く用事があり、教えてもらった道筋をメモしてひとりで辿り着くが、帰り道が分からなくなり、道行く人に尋ねると、別の教会を教えられて、更に迷子になった私は、コンビニ「Denyz」からエマオに助けを求めた。エマオスタッフの畑谷さんは「方向音痴だということを先に言って下さいよ。」と言いながら迎えに来てくれた。この辺りは、コンビニ、キリスト教会も沢山、創価学会もあり横道も多い。目的地エマオは、すぐそこの先だった。その後、♪迷子の迷子のちえみさん♪と、替え歌まで出来た。

やっとの思いで帰ると、クリームシチューが出来上がっており、1時間程ウォーキングした私は、美味しくたっぷり頂いた。

夜は、歩いて30分程の銭湯「喜代の湯」へ4人で歩いて行く。途中で仙台六番丁教会の中本 純先生をお訪ねする。アポ無しの訪問にためらったが、先生は「四国から~」と喜んで下さった。私は、後ろの集会室に置いてある100年物のオルガンに感動し、ストップやペダル、燭台を「100歳のオルガン!」と撫でさせてもらった。

「喜代の湯」は震災後すぐに再開し、長蛇の列が出来た銭湯である。昔ながらのレトロな銭湯に又感動する。3分10円のドライヤーもリレーしながら髪を乾かした。この銭湯には三日間、雨の日も傘をさしてワーカー仲間と通った。

夜、青葉荘教会でシェアリング(小グループでの分かちあい)をして床に就く。

6月11日(火)  ワーク 2日目 曇り

7時半~ エマオでコーンフレーク、パン等の朝食を摂る。

     西東京から常連の節子さんが来られ、頼りになるワーカーが増える。

     ミーティングをしてから、6人乗りのバンで出発する。

    七郷中央公園仮設でラジオ体操

かつて仮設に高見さんが訪ねた時、白い紙のような顔で精気の無い被災者の方たちに危機感を覚え、少しでも外に出て毎朝顔を会わせられるようにと始めたのがラジオ体操のきっかけである。体操の途中で、「よいしょっ」「ぴーっ」と掛け声があったりして、笑顔も少し出ながらの体操である。第1、第2体操まであって、これだけでも運動した。という感じである。

    荒井7号公園仮設でうたっこ

仙台で一番小さい仮設である。

西東京のいずみさんのリードによるアコーディオン伴奏に合わせて懐かしの名曲、「仰げば尊し」に始まって「男はつらいよ」「のど自慢」「きょうの料理」「家族に乾杯」「3分クッキング」等なじみの歌、20数曲を歌う。私も「グー、チョキ、パーで何つくろう」の手あそびや、ハーモニカで「アメイジンググレイス」を吹くと、いずみさんが「これで私も出来る」と、アルトリコーダーと合わせて、即興の2重奏が出来た。

うたっこを「たった私たち2人のために」と恐縮されていたが、ここでやれる事に意味がある。私たちは、ひとりのためにでも歌いに行きたい。

ここから四国組3人は、スタッフの千葉さんの運転で「フイールドワーク」でゆりあげ、荒浜へ行く。「ゆりあげ」は1、2メートル浸水した。メインストリートを通るが、大きな商店街が、今は廃墟である。酒屋さん、神社の土台跡、傾き倒れたままの墓石群。

集落は約2、000世帯で、震災当時、人口は約4000人。死者、行方不明者は700人強。56人に1人が亡くなっている。

「あそこを車が流れていったんですよ。」という東部道路を見る。テレビや写真で見た間の空けた松の木立を見る。グンニャリと大きく曲がったままのガードレールを見る。

今日もどんよりと曇り空。霧も立ち込めていて、湯殿山神社に登っても海は見えない。「ここに避難した人たちも居たんでしょうね。」との千葉さんの言葉に、ここへ登っても流された人たちの恐怖を思うと、私は泣くのを堪えるのが精一杯だった。

津波の高さ7mの所に、頭のてっぺんがくるように観音像が建立されていた。近くに亡くなられた方々全ての名前を刻んだ石碑があった。家族単位で刻んであった。おそらく、おじいちゃん、おばあちゃん、お嫁さん、お孫さんが3才と1才。高齢者の方たち、幼子たちの年齢を見て胸が痛い。

ここを再興させたくても、5m嵩上げしないと家は建てられないそうだ。まだ行方不明の方もいる。この下に居るかもしれない。まだ居るかもしれない方の上に家も建てにくい。更に、地区のリーダーたちが流された。みんなを助けようとされて流された。まとめ役がいない。

カナダ国旗が建っている、ゆりあげの小さな市場(復興にカナダが随分と支援してくれたらしい)で食事を摂った。私は海鮮丼を食べた。時期ではないからと、赤貝の代わりにホタテの貝柱、うに、いくら、エビ、マグロ、仙台かまぼこが乗ったどんぶりに暖かいお味噌汁までついていた。最初見て「こんなに食べられるかな?」と思ったが、東北の海の幸を食べた。「しっかり食べてワークをしよう。」と食べた。美味しさが心と身体に染み渡った。

この日は震災のあった11日である。246分に佐藤真史牧師と、スタッフ、ワーカーの8人で荒浜の海岸で、丸くなって手をつないで祈りを捧げた。

全国に避難している人の総数は  263、958人

○仙台市

913人(死者)+30人(行方不明者) = 943人

2、104人(プレハブ仮設)+15、671人(借り上げ仮設) = 17、775人

○石巻市

3、523人(死者)+438人(行方不明者) = 3、961人

14、371人(プレハブ仮設)+8、490人(借り上げ仮設) = 22、861人

この他にも数に出て来ない方々の名前を覚えて祈った。

深沼海水浴場としてにぎわっていた荒浜も、震災後の海岸工事で様子が様変わりしたという。朽ちて倒れたまま波に沈んだ松の木があった。名前を知らない鳥がきれいな声でさえずっていた。カモメが1羽、2羽、何事もなかったかのように飛んでいた。

平成2ケタの年に建てられた老人ホームへ行った。ここも波にさらわれて廃墟である。トイレットの表示、共有スペースか食堂跡、事務所跡。潮の香りと3年前まで生活されていた方たちの息使いが聞こえてきそうだった。

「あそこまで逃げられた方は助かったんですが。」

30m程先の3階建ての施設を指差して教えてくれた。利用者さんだけではなく、職員さんたちも亡くなって、行方不明の方もいる。車椅子の方も介助の方も必死で逃げよう、助けようとされたんだろう。黙とうする。

七郷中学校へ行く。地震のあった日は、卒業式の謝恩会の最中だったそうだ。

「そこの公民館で謝恩会をしていたんですよ。」と教えてくれた。中学3年生が3人。1、2年生と合わせて合計17人が亡くなった。教師の指示の元に避難したが、3人は家にいる家族が気になって帰って、流されたらしい。一緒に卒業を祝った友だちが亡くなる。さっきまで一緒にいた友だちが亡くなる。同級生たちもこれからもずっと辛いだろう。14人の経緯はわからないそうだ。校舎の時計は、2時46分で止まっていた。

ここを広島の原爆ドームのように残す考えもあるらしいが、難しいそうだ。

道中で、田植えが済んだばかりの田んぼを見た。機械で植えられた田んぼもあったが、子どもたちも一緒にみんなで植えたのだろうか、手植えの田んぼも多かった。千葉さんが

「今年初めて植えたんですよ。田んぼも塩水を被ってますからね。出来るかどうか、収穫出来たらいいですね。」と話してくれた。小さい苗たちが元気にスッと立ち並んでいた。今年収穫できなくても、翌年、翌々年と植え続けられていくのだろう。種は次世代へと引き継がれていく。

仮設から小学校へ通う子どもたち。朝、点在した仮設からスクールバスに乗り小学校へ行く。少人数で授業を受け、夕方、それぞれの仮設へ降所して行く。帰っても遊ぶ友だちがいない。毎月第1土曜日に、「ささっこクラブ」という子ども支援プログラムがあるそうだ。近ければ、毎月来るのに。と思った。

農作業の拠点、「エマオ笹屋敷(略してエマササ)へ行く。献げられたビニールハウスの中に、自転車、長靴、スコップ、鋤や鍬等の道具が揃っている。これらもほとんど献品だそうだ。ここに集まって、小グループに分かれて農作業の手伝いに行く。明日、ラジオ体操をしてからは、ここが拠点となる。

エマオ事務所に戻ってミーティングをする。

夕食はマーボー豆腐、蒸した中華ソバとご飯も炊けていて、「どうやって食べるんだろう?」と思っていると、ひとりのワーカーが「仙台では3種盛りといって、こうやって食べるんですよ。」と、おソバの上にマーボー豆腐、その上にご飯を乗せていた。「おもしろい」と私も真似した。それぞれの味が邪魔されず生かされて美味しかった。おかわりして食べた。余ったご飯は、半合程ずつにしてラップに包んで冷蔵する。

6月12日(木)  ワーク3日目 雨

 ラジオ体操をして、K子さんの畑から七郷中央公園仮設の小さな菜園へ土を運ぶ。小さな花がぐるりと周りを囲んだ中に、かぼちゃ、きゅうり、じゃがいも等が元気に育っていた。ユリの花も2輪咲いていた。6つのプランターに2株ずつゴーヤを植えた。ネットも張りたかったが、雨が本格的に降り出したので後日にする事になった。

コンビニで買ったおにぎりを集会場で食べていると、又、元ラーメン屋さんがお味噌汁を作ってくれた。「ワカメが少なかったから。」と、今度は玉ねぎをたっぷり入れてくれた。

大鍋一杯のお味噌汁も被災者の方たち、ワーカーたちにちょうどみんなに行きわたった。

この後私は、生まれて初めて「ほや」を見た。カキの種類だそうである。えんじ色で正に軟体生物であった。触ると、グニュグニュしていた。貝類だから、水を吸い込むプラスと吐き出すマイナスの角がついてあった。目の前でさばいてくれて、切り身はサーモンみたいだった。口に入れるとツーンと磯の香りがして、シコッ、コリッと海のミルクみたいな味だった。わさび醤油で美味しく頂いた。

食事をしながら私は、愛媛から来たという事や小豆島出身である事を話すと、I さんは、「俺、大阪万博の頃、千里が丘ニュータウンに居たんだ。ベンチで寝てたら、胸ポケットからスリに財布をすられちゃった。金は大して入ってなかったんだけど、世話になった方たちの連絡先を無くしたのが辛かったな。」と話された。

元ラーメン屋さんも、「俺、若い時はエレキやってたんだ。」とギターを弾く真似をされて、「ベンチャーズとかベイシティローラーズが好きだったな。」と話してくれた。

ここでも私は、ハーモニカを吹いた。「ふるさと」「アメイジンググレイス」を吹いた。勝手にアンコールに応えて「たなばた」も吹いた。今日がワーク最終日。もうここにはしばらく来られないけれど「お元気で」と心の中で願いつつ、「またね」と昨日、一昨日と同じように帰った。

次に、Nさんの畑へ行く。大きなビニールハウスの中に、長い4つの畝があった。薄いビニール手袋をして小さな草を手で引いていった。小さい草のうちに処理すると、草の種が生じる前なので育てている野菜に影響が少なくて良いそうだ。大雨がハウスを打つ音をBGМに、ワーカーたちが散らばって草を引いた。時々腰を伸ばしながら、段々きれいになっていく畑を見るのは気持ちが良かった。側で、植えられたばかりのさつまいもの葉っつぱが、緑色に光っていた。

エマオに帰ってミーティング。今日で最後の私は、「もっと居たいんですけど」と泣きそうになる。まるで幼稚園児のようだ。

その後、隣のキリスト教書店へ行く。入口がわかりにくいからと、畑谷さんがついて来て教えてくれた。本を買って帰ると「おっ、今度は迷いませんでしたね。」平然と言う彼のジョークはおもしろい。

エマオでは木曜日はカレーライスと決まっていて、楽しみにしているワーカーたちも多いそうだ。大きなじゃがいもがゴロゴロと入ったカレーに、サメのから揚げやおつけものも二種類あった。食事をしながら話は、各々の世代や地域の学校給食の話にまで及んだ

明日ひと足先に愛媛に帰る私は少し寂しく、この楽しい晩さんがいつまでも続けばいいな、と思った。

けれども、震災後まもなく発足したこのエマオの会の仲間たちの輪が、東日本大震災復興を目指して、過去、現在、そして未来へとしっかりつながって行くのだろうな、と思った。

最後に被災者の方々、エマオスタッフの方、寝食を共にしたワーカー仲間(丸亀教会の栗崎さんご夫妻、西東京のいずみさん、節子さん、北海道は旭川から、おばあちゃんと一緒にキッチンボランティアに駆け付けたことちゃん、香港から、長期滞在ボランティアのキティちゃん。お会いしていないけれど陰で支えてくれたキッチンボランティアの方々)全ての方との出会いに感謝です。

祈って、捧げて、送り出して下さった四国教区、教会のみなさまありがとうございます。

これからも主イエス・キリストの名の元に集まった教会のみんなが、祈って力と心を合わせながら、東日本大震災復興を支援して行きましょう、と願います。

2014623日 沖縄の日に


「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
emaoshikoku@gmail.com