第12次派遣ボランティア報告
 
土佐嶺南教会 鍋谷仁志

具体的な日々のできごとや、そのときに感じたことは、現地からの速報としてお送りしましたので、この報告は帰ってからまとめた全体的な感想です。

最初に、当教会で地域の方々にお配りしている「浜風」という伝道文書に記した報告を転載します。

 

七月二十二日から二十六日にかけて、昨年の十一月に続いて、東日本大震災被災地ボランティアに行ってまいりました。皆さんは、今の被災地の現状をご存知でしょうか。がれき撤去はほぼ完了し、もう復興は相当に進んでいる。あの地に住む人たちの日常は私たちと変わらない、と思っておられるでしょうか。あるいは、福島の原発問題は何も終わっていないし、仮設住宅に住んでいる人たちもいる。まだまだ復興など進んでいない。そう思っておられるでしょうか。

正解は、どちらも現状である、と言えるでしょう。災害は、全ての人に平等に起こるわけではありません。考えてみれば、高知にいる私たちには、須崎での津波被害など一部を除けば、大きな被害はありませんでした。高知と東北と、平等に災害にあったわけではないのです。同じように、東北の各地も、平等に災害にあったわけではありません。だからこそ、その災害からの復興も、やはり平等ではないのです。

仙台の中心は、少なくとも経済的には復興景気でかえって良好なようで、多くの人で賑わっていました。しかし、今回見てきた石巻市中心は、がれきこそ撤去され、建物もだいぶ建ってはいるものの、まだ手つかずの空き地も多い状態です。もっと大変なのは女川町です。街のほとんどが津波に呑まれ、90センチも地盤沈下した街の中心部は、跡形もなくなった空き地のままです。重機が動き始めてはおりますが、この復興にどれだけの時間とお金がかかるのだろうと思います。さらに中心から離れている地域は、復興のめどが何も立っていないところがまだまだあるのです。

この復興の程度の違いが、被災地の現状なのです。地震や津波は人間の力ではどうにもなりませんが、しかし、復興は人の手によることです。つまり、復興の程度の違いは、人の思惑、人の都合によって、早い話、多くの人にとって大切かどうか、ということで順位をつけて進めているからこそなのです。その順位が、被災の激しい順、より多く苦しんでいる人を助ける順になればいいのですが、そうはならない、また難しい現実があるのです。

そのこと自体を非難する、あるいはそのことを指導している国や県などの行政を非難する、そしてより平等な復興をするようにと促す、それも必要なことかも知れません。しかし、私たち教会のなすべき復興のためのボランティアは、そこに主眼はありません。私たちは、何よりも、被災によって今も困難な中にあって苦しんでいる一人一人に、寄り添うことを第一にしています。それこそが本当に求められているからです。そして、彼らの復興のスピードにあわせて、ゆっくりと歩んでいくことを第一にしています。被災の現状の厳しい人たちはもちろん、仙台市内の方々も、心の回復はいまだ不十分です。彼らの思いにあわせ、彼らが立ち上がれるようになるのを待ちつつ、ゆっくりと寄り添っていくことが、何より大切なのです。

しかし、先に触れたとおり、程度の大きく違う復興の現状の中で、そのそれぞれの地に住む人たちに同じように寄り添って生きることは簡単ではありません。そこで、私たちには何よりも祈りが大切になるのです。被災にあわれた一人一人を、確かに愛しておられる神が、私たちのボランティアを通して、彼らを守り支え導いてくださるようにと、祈ることが何よりも力となるのです。いや、祈ることこそ、何もできない私たちの力となるのです。「寄り添い=スローワーク、祈り」こそが私たちのテーマなのです。

そして、遠く四国に住む私たちにその点においてできることは、彼らのことを忘れないこと、そして忘れていないことを彼らに伝えることです。私たちが高知から来た、と伝えたとき、誰もが本当に嬉しそうでした。離れていても、心はつながっている。それが復興の何よりの支えとなるのです。どうか、皆さんも、彼らを忘れずに、寄り添い続けてください。

 

「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印です。わたしはこのように書きます。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」

(テサロニケの信徒への手紙二3章16~18節)

 

帰ってきてすぐの発行に合わせて書いたものなのでまとまりはよくないかもしれませんが、これが今回被災地に行ってきました私の、特に女川方面等へのフィールドワークに行ってきました私の第一に感じたことでした。

前回うかがった笹屋敷地区周辺は、途上ではあっても復興に前向きな姿が見えました。反対に手つかずの家の土台のみが並ぶ荒浜地区は、心の締め付けられる寂寞感には襲われましたが、災害危険区域に指定された、もう住むことのできない場所でしたから、復興の差という点では感じることはなかったのです。

しかし今回は、復興の程度の差を思わされるさまざまな現場を見せられました。仙台中心の四国のどの街よりも大きな大都会ぶり。石巻駅前のようやく復興した街の様子。日和山から見た石巻市旧北上川周辺の復興の進んでいない様子。女川町のようやくがれきが撤去されただけの有様。そして雄勝、大川小周辺の、かつてここに人が住んでいて、これからも人が住むはずである場所が、真夏であることもあって雑草が生い茂った、あまりにも人の気配のなさ過ぎる空間。同じ被災地という言葉でくくることのできない、その現状の違いを、まざまざと見せられたのです。

かといって、それぞれの地域に住む人たちの心の傷はまた見た目通りではありません。仙台市中心部に住んでいる方も、癒されていない心の傷はもちろんあるでしょう。そういうことも考えたときに、単純にそこに差別があると感じることも正しくないと思わされ、しかし、その全ての人々に寄り添っていくことは、本当に難しいことだ、と感じさせられたのです。そのような困難に、あえて向かっていくエマオの働き、いや、それができない人間をそのように突き動かされる神さまの召しに、心から驚かされるばかりなのです。

高知にも、四国にも、やがて必ず来ると言われている東南海地震。東海地方から四国までを襲う可能性のあるこの地震に私たちが見舞われたとき、この東北で見た復興のモザイク模様は、確実に私たちの未来です。そのような中で、本当に前を向いて生きていけるために、神さまの導きに従って生きていけるために、今東北で起こっていることを知り、その苦しみを共有し、自分たちのこれからに生かしていこうとする姿勢が大切です。そしてその中にあってエマオが行っていることに私たちは目を向け続け、共に寄り添い、共に歩み、何よりも祈り続ける必要があります。地震が来るのがいつかはわからない。明日かも知れないし30年後かも知れない。私も含めた誰もが、そのときにまだ地上に生きているか分からない。しかし、私たちが以上のことを踏まえて生きることが、いざそのときのための大きな財産になるだろうと思います。

二度目の被災地ボランティア、前回とはまた違った多くのことを学ぶことができました。送り出してくださった四国教区諸教会に心から感謝いたしますと共に、次なる送り手がさらに続いていきますよう、お祈りしています。今回、高校生の笹原寛仁君と一緒に行けたことは本当に幸いでした。私たちの中の一人が被災地に行き、そこに生きる人たちと僅かであっても交わりをすること、それがいかに大きな喜びを生み出すのか、ぜひ一人でも多くの方に経験していただきたいと願います。その思いをもって、ぜひエマオのためにも、エマオ四国のためにも、献げていただければと願っています。あらためて、ありがとうございました。四国教区諸教会の皆様の上に、被災地を生きる方々の上に、神さまの祝福が豊かにありますように。

 

「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
emaoshikoku@gmail.com