ボランテイア報告

 
日 時 :2015年3月29日(日)~4月3日(金)
派遣先 : 東北教区被災者支援センターエマオ 仙台、石巻
大野フミエ(松山城北教会)

3月29日(日)移動日   同行者:今治教会 福永晃くん(高校3年生)

PM18:05 松山空港発 伊丹経由 仙台
PM22:30 仙台エマオ到着 スタッフの千葉さん、名取教会荒井牧師に挨拶
PM23:00  宿泊ホテル入り

3月30日(月)

月曜日のエマオは活動休み。午前中は青葉城、午後は仙石線にて松島湾へ行きました。4年過ぎた仙台駅周辺には、被災の跡はみられず、松島も湾の中の島々が防波堤となり、津波の被害はあまりなかったそうです。しかし、仙台と石巻をむすぶ仙石線は、今年5月にようやく全面開通の予定と聞きました。

3月31日(火)

<AM7:30 エマオ集合 車で10キロ先の七郷公園仮設住宅へ>
 空き家となった仮設住宅の掃除の要請に応えたワーク。想像以上に狭く、簡易な建物に4年間のご苦労を思いました。清掃の後、“おちゃっこ”体験。仮設の集会所には、居住者9名、エマオから8名、女子高校生数人と、にぎやかに、白菜の漬物やコーヒーで、ゆっくり、なごやかにスローワーク。おみやげの“せとか・でこぽん”を甘くて美味しいと喜んでいただきました。どこの仮設も現在は4分の1から3分の1の入居者に減り、市当局は、今年度中に仮設を解消したい方針との事。多くのお年寄りが取り残されていく現実があるのを目の当たりに見た思いでした。皆で“ふる里の歌(ふる里の浜)”を歌いました。この曲は、地元の方の作詞作曲で、今はもう、居住禁止区域となった荒浜地区の美しい景色を織り込みながら、優しいメロディの曲でした。歌をうたっているときは、皆さん笑顔でしたが、どんなにか切ない思いをいだいておられる事だろうと、胸のしめつけられる思いでした。福永君も私もコンビニで買ったおにぎりを食べながら、話の弾むひとときを過ごし、皆さんと別れを惜しみつつエマオへ帰りました。

<PM14:00 エマオにてオリエンテーション>
 新入りのボランティアは、その心得や留意すべきことを学びます。先週までは、ボランティアの数は多かったそうですが、今日は5人。見渡せば若者ばかり!先ず自己紹介。15才埼玉・16才女子東京・17才愛媛・18才東京・・・思わず“19才、愛媛松山から来ました”というと、ブーイングがおこりました。スタッフの方の“じゃ、みなさん未成年者ですからお酒は飲まないように”というとりなしで一件落着。

<PM16:00 報告ミーティング>
 腰を下ろし輪になって各自今日のワークを報告の後、手をつなぎあっての祈りで散会


<PM16:30 シェアリング>
 ボランティアだけで、一日の分かちあいの時をもつ。

<PM18:00 夕食>
 エマオの冷蔵庫にある材料で夕食を作ってくださいとのことで、皆で力を合わせて、きつねうどんとおにぎりを作り、食卓を囲みました。

 私は、できることなら石巻へ行きたい旨、スタッフに伝えていたのですが、その思いを受け止めて、石巻のスタッフと調整して下さり、明日、もう1人の希望者と行くようにと、取り計らってくださいました。“どのワークも大切だけど、フィールドワークも大切、ぜひ見てきてください”と言ってくださり、本当に有り難く思いました。

4月1日(水)
同行者 ガルシア氏(スペイン人・来日7年・3週間の予定のボランティア)

AM 8:17 石巻行き高速バス乗車

AM 9:30
 石巻エマオスタッフ 西田紗代子さんと合流
 約1時間かけて大川小学校へ・・・テレビ、写真で見ていた地へ、雨風のなか降り立ったのでした。眼前には、あの日のままの小学校の残骸と、小学生74名、教師12名を含む数百名の名前と年齢を刻んだ黒い大きな墓碑数基とおびただしい供花・・・すべてが息をのむ光景でした。津波が一村を、多くの尊い命をのみこんでいったのです。きっと、震災前は、美しく豊かな北上川のほとりで、なごやかな暮しが営まれていたことでしょう。今日の激しい雨風は、私の鎮魂の心にふさわしいものでした。3人でしばらく祈りをあわせ、その場を離れました。

 次に行ったのは雄勝です。ここは、リアス式海岸の地形で26メートルともいわれる波に襲われ、被災地域は狭いけれど被害は大きく、壊滅状態だったそうです。いまだに堤防が壊れたまま残っており、案内してくださった西田さんは、“4年たった今だからこそ見てもらうことが必要です。”と話されました。

 海沿いの道を、また山の中の道を、西田さんの達者な運転でいったん石巻市から女川町へ入りました。女川町は、一湾全体が土の茶色で塗りつぶされているという感じを受けました。現在、町ごと高台移転するための嵩上げ工事の最中で、ようやく建った駅舎の白い屋根が遠目にひとつぽつんとあるのが印象的でした。あの駅を中心に再び人々の生活が戻るのは、いつになるのだろうと思いました。

 女川町を出て石巻日和山へ。石巻湾を見おろす大きな丘が日和山です。この地名も、ニュースでよく耳にしていたため、実際にその場に立ったとき、あの日の映像がよみがえってきました。ここでも、一瞬一歩の判断が生死を分けたのでした。桜の名所ですが、いまだに花見に来られない方々もおられると聞きました。

 開館まもない“石巻復興町作り情報交流館”と“石巻日日新聞ニューゼ”を訪問しました。特に石巻新聞ニューゼでは、被災翌日から6日間発行した“壁新聞”の展示があり、見入りました。一枚、一枚から、情報を伝えたい一心で作る人、それを読む人の息づかいが聞こえてくるようでした。

<PM16:00 石巻山城町教会にてミーティング>
 関川牧師、石巻エマオスタッフ2人、西田さん、ガルシアさん、大野で話し合いと祈りの時を分かちあいました。関川牧師からは“心に受けた重いものを持ち帰らないでここで軽くしていってください。”と言われました。祈っていただき、大正時代に建てられた美しい教会を辞しました。今日一日、石巻エマオスタッフの有り難いサポートを受け、悲しく厳しい事実を見ることにはなりましたが、“やはり見て良かった、来て良かった”と思いつつ、石巻をあとにしました。

<PM19:00 受難週夕礼拝出席>
 今日はもうひとつ大きな目的がありました。仙台東六番町教会の受難週夕礼拝に出席し、中本純牧師にお会いすることです。厳粛な雰囲気のなか、聖餐に与りました。教会員からの信頼もあつく、活き活きと牧会しておられる先生と再会を喜び合いました。教会の庭の大きな紅葉や桜の木に教会の歴史を感じつつ、おいとま致しました。

4月2日(木)
 今日の私のワークは、荒井2号公園仮設住宅へ昼食を作って届ける事です。他の若者メンバーは、七郷仮設住宅でラジオ体操をした後、笹屋敷の農園支援に行きました。
 エマオの台所で、近隣の教会婦人3名の方と力を合わせ、手際良く楽しく時間どおりにできました。メニューは、山菜ごはん、いもたき、小松菜と人参の煮びたし、小かぶ(手伝った農家からのいただきもの)の浅漬け、せりの味噌汁、どれも味良く色良く作ることができました。福永君のおみやげの“あげ”も大活躍。スタッフの方は手慣れたもので、大なべごと、炊飯器ごと車に積み込み、10キロ離れた仮設住宅へと運びました。仮設の集会所には10名の方が集まっておられ、皆さん“おいしい、おいしい”と笑顔いっぱい。里芋は、仙台では“いも煮”といって味噌で味つけするそうで、松山の砂糖・しょうゆの味は珍しいと喜んでいただきました。食事の後おちゃっこタイム、ここでも“ふるさとの歌”を歌いました。この仮設でも、やはりお年寄りが残っているとの事、4年過ぎた今、さらに複雑な思いをいだきつつの暮らしだろうと思いました。3時頃別れを惜しみつつエマオへ帰りました。エマオへ戻ってから、支援物資の仕分けの手伝い、掃除のあと、東北教区センターエマオの松本館長が隣接する青葉荘教会へ案内してくださいました。素晴らしく荘厳な大きな教会で、2階の立派なパイプオルガンも弾いて聞かせていただき、夢を見ているような時間でした。その後、ミーティング・シェアリングをし、夕食はお昼の残り物を中心に、皆で楽しくわかちあいました。

4月3日(金)最終日

<AM7:30 エマオ集合>
 “松山へ帰って報告するために写真がいりまーす”と言ってエマオの中庭でにこにこ記念写真。スタッフの方々との別れを惜しみつつ、ラジオ体操をするため再び七郷公園仮設住宅へ行くことができました。仮設の方は3人、エマオからは10人、楽しいかけ声の入るラジオ体操でした。エマオでは土日以外の毎朝、訪問してラジオ体操をしているとの事。これは並々ならぬ粘り強いご奉仕だと思いました。入居者の方にとって、どんなにか心強い支えとなっていることでしょう。そのあと“おちゃっこ”で傾聴のひとときを過ごしました。

<AM9:20 七郷公園仮設住宅から仙台空港へ>
 いよいよ仙台を離れる時間がきました。なごりの握手をお一人おひとりと交してお別れしました。思いもかけず、専従スタッフの佐藤真史牧師が、仙台空港まで人をお迎えに行かれる便に乗せていただくこととなりました。空港へ行く道すがら、荒浜地区、笹屋敷の農業ワーク基地、名取市の閑上地区を、時々車を止めて、丁寧に説明をしてくださったことは、本当に感謝でした。荒浜地区800戸すべてが太平洋の波にさらわれ、今は何一つない居住禁止区域となった海岸地区には、住民の“この地に必ず帰ってくる”という、志の象徴として掲げた“黄色いハンカチ”の旗が浜風に激しく翻っていました。

後想

 キッチン・ボランティア募集を知って1年半、“行く”と意を決して半年、万全ではない身体でしたが、毎日、神様に“御心ならば行かせてください”と祈り続けました。また、なぜ“行きたい”と思うのか、自分自身に問いつづける日々でもありました。そして認めざるを得なかったのが自分のなかにある“震災の記憶の風化”でした。時折りの募金にもなかなか応じられない自分がありました。時間とともに他人ごとになっていったのです。

 そうした移ろいの中にある私に、神様は、東北エマオへの道を開いてくださったのでした。
 仮設住宅のお年寄り・大川小学校・女川町・日和山・荒浜地区等々、厳しい現実の見聞のなかの4日間でした。さまざまな出会いがあり、温かい交わりがありました。そして東北エマオの、神様の御心にそった働き、それを支える人々の尊い日々の積み重ねを知りました。その輪の中にすこしでも身をおくことをゆるされたのは大きな感謝でした。
 送り出して下さった「エマオへの道・四国」、中予分区婦人会、矯風会松山シャロン、城北教会の皆さま、有難うございました。これからは機会あるごとに、勇気を出して“東日本大震災を覚えましょう、いまなお深い苦しみのなかにいる人々を覚えましょう。そして、「フクシマ」を覚えましょう。私たちは原発の恐ろしさを知ったはずです。決して忘れてはいけませんし、無関心であってはなりません”とお伝えしていきたいと思っております。


「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
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