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第一次 震災ボランティアの報告
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丸亀教会主任担任教師 岡田真希 |
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2011年8月25日~30日の間、4名の教職が皆様からのご支援をいただき、被災地でワークをして参りました。以下、報告させていただきます。(参加者・・・広瀬:三津教会、上島:今治教会、成田:土佐教会、岡田:丸亀教会)
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ボランティアの拠点・エマオ
我々が行ったのは、仙台にある東北教区センター「エマオ」(http://www.uccj.jp/)。センターの2階の一室にスタッフが詰め、そこを基地にしている。
エマオは「私たちにお手伝いさせてください」と地域に呼びかけ、依頼があったお宅に毎日ワーカーを割り振って送り出している。現在、二箇所(仙台市若林区荒浜地区七郷・石巻市渡波)に派遣している。
我々が行った最終日(8月29日)には石巻にも拠点を立ち上げた。その日から数人のワーカーが石巻の基地でも宿泊を始めた。今後も継続して、仙台と石巻を拠点にしてワークを続けることになるだろう。
エマオに来たワーカーの宿泊のために、近隣のキリスト教会が礼拝堂や部屋を提供してくださっている。また、ワークを終えて戻ってくる人たちの夕食を、近隣教会の婦人会の方々が交代でエマオにいらして準備してくださっている。ワーカーの宿泊・夕食の費用は一日300円。
ワークを終え、エマオに戻ってきたワーカーは「シェアリング(分かち合い)」の時をもち、被災地に入り、被災者との出会いを通して感じたことを分かち合う。
基本的に、雨が降るとワークは休みとなるか、エマオ内での作業となる。 |
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ボランティアの人たち
現在(8月)エマオで活動しているボランティアは、ほとんどが夏休み中の大学生で、一日40人程度であった。中には社会人もいたが、少数。大学の夏休みが終わるとボランティアの数が激減すると予測される。秋以降のワーカーの確保がさしあたってのエマオの一番の課題となる。一度に多くのワーカーを派遣することよりも、途切れずにワーカーを送り続けることが地域との関係を築き上げていく上でも大切だろう。
エマオにはキリスト教大学から派遣された学生ボランティアが多く来ていた。どの大学も、一週間に3人ずつ派遣する、というやり方をしていた(桃山学院大学、梅花女子大学、桜美林大学・・・など多数。遠くは沖縄キリスト教学院大学からも)。宿泊が一緒になった桃山学院の学生の話では、1週間16,000円の生活費と往復の交通費が大学から支給されている、とのこと。もちろん、大学からの派遣ではなく、自腹で来ている学生も多くいた。
教区単位の支援では、西東京教区がこれから(9月以降)5週間、一週間に3人ずつワーカーを送り出すことになっているとのことであった。 |
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若林区荒浜地区七郷への移動
七郷はエマオから約13キロ。そこへの移動は自転車(台湾の教会から電動自転車10台、西東京教区からも自転車の献品がエマオにあった。西東京教区からは自転車整備の派遣も行っている)。
七郷での(岡田の)ワークは、畑に入り込んだ土を道路に戻す、というもの。Kさんという方の畑。Kさんは仮設住宅から畑の仕事に来られていた。瓦礫を畑の中から出して、なんとか種をまいたが、一度潮水に浸かったので今年はほとんど野菜ができない、と呟いておられた。Kさんの畑の前にも田畑があったが、持ち主がどうなったのか、草が生え放題であった。「草でわかんないけど、その辺には車が十台ぐらい転がってんだ」とのこと。 土運びを終え、畑の中にある細々したゴミを拾う。片方の靴やストッキング、結婚の報告のハガキなどがあった。心痛むワークであった。 |
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ワークの合間に聞いたKさんの話
①津波はまず海から来た(西から)。次に、集落の南と北を東西に流れている二本の川から水が溢れて来た(南と北から)。さらに、第一波が、集落の西を南北に通っている高速道路に当たり、戻ってきて押し寄せた(東から)。つまり、四方から波が来た。それにより、家財がどの方向に流れたのか検討がつかない状態である。
②七郷の人たちは、ほとんどが仮設住宅に入っている。若い人たちはもう皆外に移ってしまった。今ここには60-70代の「頑固な人たち」が残っている。皆、先祖から受け継いだ土地・田畑を捨てられない。しかし、高齢の者達が仮にここに残って家を新しく建てたとしても、10年後、20年後の集落のことを考えると不安である。 |
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仙台北三番丁教会の教会員さんの話
宿泊していた仙台北三番丁教会の教会員の方ともお話する機会があった。
「仙台の市街地は、地震で揺れましたが、津波は届いていません。海岸沿いの人たちは仮設住宅に入り、厳しい生活を強いられているのに、自分たちは仙台の市街地で便利な生活を送っています。しかし、その人たちのために何も出来ない自分たちをもどかしく思います」とのこと。同じ仙台市内でも、市街地と海岸地域で、被災の程度や人々の心境に大きなギャップがある。
また、仙台を離れていった人も多い。「目の前で子供たちが波に飲まれてしまった知人は仙台に帰って来ることが出来ません。今でもその時の子供たちの声が聞えるんだそうです」とのこと。心に傷を負い、仙台に戻って来られない人が多くいる現実がある。被害は物理的なものだけでなく、心理的なところにも深く及んでいる。 |
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石巻への移動時に見たもの
3日間のワークの内、2日間は石巻であった。
七郷でもそうだが、津波が届いたところと届かなかったところの境界線がはっきりとわかる。波が届かなかったところは何事もなかったかのように生活が営まれているが、届いたところは畑もつかえず、電信柱が折れたり曲がったりしていた。海岸に近づくにつれ、被害は大きくなるのがわかる。
途中、遺体の安置所(仮設のバラック)を見る。石巻ではどういう事情かはわからないが、一日に8人しか火葬できないとのこと。我々が行った時には火葬はもうほとんど終わっている様子であった。
石巻の市街地は通行できないので、バイパスを通って渡波(わたのは)に行く。途中、海岸線を西から東に走る。北を見ると、海岸に一番近い家々が見える。ほとんどの家は根こそぎ波に持っていかれていた。残っている家でも、例外なく一階は波に打ち抜かれていた。
少し走ると、海岸(南側)に整備された広い公園に、何十メートルもの高さにゴミが積み上げられているのが見えた。北側に目を移すと、流された車(三台積み上げられたものが何十メートルも続き、それが何十列もあった)や、瓦礫の山(約5メートルに積み上げられており、奥行きがどれぐらいかは見えなかった)があった。今後これらの瓦礫・ゴミをどうするのか、エマオのスタッフに聞いてみたが、「わからない」とのこと。
渡波に入る直前に、車の左手(北)に石巻市の市街地の全景が見えた。石巻市立病院と黒こげになった小学校の校舎が見える。 |
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エマオのスタッフの説明。
「津波はあの病院の4階まで届きました。屋上にHELPの文字を作ったのがテレビで報道されていました。その隣に見える小学校は、避難所として指定されていたところです。皆さん校庭に車を停めて避難していましたが、津波が来る、というので、車を残して山に逃げました。波が海から来て、停めてあった車を校舎に押し流しました。それが炎上して校舎も焼けました。この辺りの人たちは、地域ぐるみで津波のことをある程度学ばれていて、皆さん『津波は第二波が一番強い』、という共通認識を持っていました。ですから第二波が来たらたくさんの人が山を下りてしまいました。でも、今回の津波は第4波まであって、第3波が一番強かったんです。たくさんの人が波にさらわれて、後で、3~400体の遺体が山の麓に流れ着きました。」
車の右手(南)には海の中に沈み込んでいる灯台が見えた。50~200センチ地盤が沈んでおり、今後、石巻の海岸に近い地域では家を新たに建てられるかどうかわからない、とのこと。
海岸線を更に東に走ると、水産加工場がある。いくつかは稼動していたように見えた。この地区では、工場の冷凍庫にあった魚が波で流され散乱した。そのせいで、長期間強烈な悪臭が漂っていたらしい。以前は車の中でも臭うぐらいで、ボランティアはマスクを3重にしてワーク先に通っていた、と聞いた。
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石巻では信号がまだ使えないため、警察や警備員が辻に立って手信号で車を誘導していた。
石巻市・渡波で(岡田が)割り当てられたワークは、Aさんという方のお宅の畑の草抜き。Aさんのお宅は海岸から3キロ以上離れているが、床下浸水した。(岡田の)先に来ていたボランティアは、お宅の床下から泥のかき出し作業をしていたので、その続きとして、畑で野菜が作れるように、と草抜きを頼まれた。
Aさんの話。「石巻の復興は時間がかかると思います。地盤も沈下しているし、残っている家を一軒一軒取り壊しながら、です。水産業が主産業だったけど、全部やられました。これからどうなるのか、心配です」。
石巻で、津波の後空き家になっている家を見ると、窓に潮の後がくっきりと残っており、どれほどの高さまで水が来たのかがわかった。上島牧師が、家の中から散乱したゴミを出す作業の際、「タンスを空けたら潮水が入っていたよ」とおっしゃっていた。 |
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四国からのワーカー派遣支援の意義
現地に行く前までは、「被災地・被災者」という言葉を聞いても、漠然と「大変なところ・大変な目にあった人たち」というイメージだったが、実際に行ってからは、「石巻のAさんのお家、七郷のKさんの畑」という風に、被災地の情景、被災者の顔・名前が思い浮かぶようになった。
エマオに来たワーカーは「自分は被災地・被災者を助けた」ではなく、「自分が勇気をもらった」と皆感じていた。ワーカーがエマオを去る際、ほとんどの人が「また来ます」と宣言して帰っていった。出会いを点で終わらせることなく、被災地・被災者に寄り添い続ける、という想いが与えられて帰っていく。
丸亀から仙台に行く前には、「四国から1人行くよりも、東京近辺の教区に献金して、そこから二人派遣してもらった方がよいのでは?」という思いが少なからずあった。しかし、現地での体験を通して、数字の上だけの計算で考えてはいけない、という思いへと変えられた。
確かに、ワーカーが1人でも多く現地で働けた方がいいかもしれない。しかし、現地の方々に、「四国(遠く)から来てくれた、というだけで勇気付けられます」、と言われた。ワーカーとしてどれだけのことができたか、という成果よりも、「あそこを実際に見た人」を四国内に増やし、現地の情報(どのような状況で、何が必要とされているか)を共有しながら、被災地への思いを強く保つ、という点にこそ、ワーカー派遣のための支援の意義があるのではないか。
ワーカーとして一日必死になって働いても、できることはたかが知れている。しかし、「大河の一滴かもしれないが、一滴が集まれば大河になる」、という思いでエマオのスタッフは長丁場の働きを続けている。エマオでは「被災地・被災者に寄り添い続ける」ということを大切にしていた。現地に行かせていただき、この「想い」が自分の体にも染み込んだことが、何よりの宝であった。
四国に南海沖地震の影響が及んだ際に、一つの教会が「どのように近隣の教会と連携をとるか」「どのように地域の拠点となり、人々に働きかけるか」「どのように現地の状況、ニーズを全国に発信するのか」「どのようにスタッフを配置し全国からのボランティアを受け入れるか」、ということを考える一つのモデルケースとしてエマオの働きを自分の目で見ることができたことも有益であった。
仙台に行く前は、香川県は瀬戸内側なので津波は来ない、と漠然と考えていたが、香川県のホームページを見ると東南海・南海地震が同時発生した場合(マグニチュード8.6)の被害予想が掲載されている。それを見ると仙台や石巻で自分が見たことは決してヒトゴトではないことがわかった。
香川県南海地震被害想定調査の概要
http://www.pref.kagawa.lg.jp/bosai/tunami/kaisetu.html
香川県津波浸水想定区域図
http://www.pref.kagawa.lg.jp/bosai/tunami/tunami_main.html
被害想定図を見ると、西讃の教会(多度津・善通寺・丸亀・琴平・坂出)では、波は多度津教会、坂出教会、坂出大浜教会に及ぶことがわかる。マグニチュードが8.6を上回ると丸亀教会も波をかぶる。そうなった時に西讃の諸教会はどう連携をとるか。
また、香川には直島・豊島・小豆島に教会・伝道所がある。島の教会・伝道所が被災した場合、香川の諸教会は初動をどうすべきか、支援をどう継続すべきか。様々な状況を想定して、分区内で前もって話し合いを重ねておかなければならないだろう。
そのためにも、エマオに行かせていただき、「あそこを実際に見る」ことができたことは有益であった。今回の体験を活かし、四国にやがて来るであろう震災に備えていきたい。
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