エマオへの道・四国  第7次派遣報告(全文)

 
香川分区・丸亀教会 岡田恵子
 
 前回(第3次派遣:201112月)エマオへ行かせていただいてから約8か月がたちました。当時荒浜で見た光景はテレビで見る印象と実際に行ってみて感じた印象とは全く違っており、一面に土台だけが残った家の跡が広がっている場所に身を置いて、被害に遭われた方々の恐怖がいかに大きなものだったか、とても言葉では言い表すことはできないであろう、と思いを巡らせていました。12月、冬の海はとても穏やかで静かに砂浜には波が打ち寄せるだけ。この穏やかな海が多くの人の命と生活を飲み込んでしまったことが信じられないほどでした。何もなければ今も延々と続いていたであろう防風林はかろうじて残っている松がまばらに生えており、それも波の力でななめになっていました。電信柱が折れ、ガソリンスタンドは屋根がぐにゃりと曲がったままの状態、この場所に再び帰ってきたい、というメッセージボード・・・忘れられない光景となりました。しかしその後香川に帰り、日常生活を繰り返す中で荒浜の光景を忘れてしまっている自分の姿がありました。もう一度胸に刻みなおしたい、と思い今回参加を希望しました。皆様の貴い祈りと献金によって再びエマオへ送り出していただいたことを心から感謝します。

 81日(水)移動日

・丸亀→仙台へ移動(新幹線)。1930エマオに到着 エマオに隣接する仙台青葉荘教会1階和室にて宿泊(1日~7日)。私のほかに5名の宿泊者。銭湯と食事から部屋に戻ったのは22:00頃だったが、すでにみなさん就寝中のため私も早めに就寝。寝る時は蒸し暑く、寝袋の上に寝転ぶだけだったが、明け方近くなって寒くて目が覚める。寝袋の中に入ってようやく落ち着いて眠ることができた。


 82日(木)ワーク1日目

・オリエンテーション
 ミーティングの前に受付のため、スタッフルームへ。スタッフの方よりエマオでの注意事項を教えていただく。私・岡田伝道師と横浜から来られたご夫婦の4名。彼らはこれから自家用車で石巻へ移動されるとのこと。基本的には仙台から石巻へはバスで移動するそうだ。


・朝のミーティング
 この日のワーカーは45人くらい。そのうち台湾から来られた学生が25人程。2週間ごとに20名程の学生が合計4回台湾長老教会から派遣されるとのこと、今回はその第2陣が2週目を迎えるようだ。本当は520名を超える応募があったそうだ。台湾の方々の被災地に対する熱い祈りがこのように多くの学生を送り出して下さっていることに感激する。


・自転車での移動
 前回12月に来た時は道路氷結の恐れがあったため車での移動だった。初めて自転車で移動する。人数が多いため5~6名で1つのチームを作り、自転車リーダーを募ってできるだけ同じ道を通らないように(その他の歩行者・自転車の妨げにならないようにするため)移動する。自転車の種類は3種類。ママチャリ・マウンテンバイク・電動自転車(女性が優先して使用可)。電動自転車は台湾から献品されたものだそうだ。今日はママチャリを使用した。初日の自転車リーダーは台湾の学生。わずか1週間の滞在ですっかり道を覚えて慣れているらしく、スピードが速い。私はついていくのがやっと。市内中心地は自転車道路が舗装され、道幅も広く走りやすいが、ワークの拠点がある七郷地区が近くなるとでこぼこした道が多くなる上道幅も狭い。津波で被害を受けた場所が近いことを感じる。以前通った時にはまだまだ土だけだった場所に稲が育ち、緑の田園風景が広がっていた。ここまで復旧が進んだのだと驚いた。50分ほど自転車をこいでようやく拠点となる「いこいの郷」に到着。自転車でここまで来るだけですでに疲労困憊。息を切らせながらなんとか到着できた。これからワークだというのに初日の移動でこの状態、とは・・・とすっかり体力に自信を無くす。帰り道では転んで左ひじを捻挫した方がいた。ほんのわずかな段差で転んでしまった、と話しておられた。自転車の移動には十分気を付けたい。


・午前のワーク
 「いこいの郷」に到着。そこでワークの割り振りが行われる。基本的には前日と同じ作業。新しく来た人はそれまでいた人やスタッフの指示に従う。私は12名程と一緒に畑での作業をするよう指示を受ける。そこは一度大きな瓦礫を撤去した後の細かい石や津波で流れてきたゴミを取り除き、土の塊をほぐす作業。「いこいの郷」から自転車で1分ほどの場所。畑までの道沿いに大きなひまわりがあちこちに咲いている。大輪のひまわりに励まされてワークに臨む。前日に少し作業をしていたらしく畑のほんの一部が掘り返されていた。大きなスコップ、小さなスコップ、石を振り分けるふるい、各自で好きな道具を手に取り作業する。大きなスコップで土をふるいにかけ、小さなスコップで細かな石を取り除いていく。が、なかなか作業は進まない。エマオスタッフの方よりもっとおおざっぱに作業を進めていくように指示をされる。ふるいにかける作業はやめて3人一組になって土を掘る人、石やごみを取り除く人に分かれて場所を区切って進めていくことにする。私は台湾の方2人と一緒に作業。今日はとても日差しが厳しい。丸亀の気温とさほど変わりがないように感じる。日焼けしないよう長袖、帽子、手ぬぐいを首にかけていたが、畑の土の質が細かく土を掘り起こすと砂埃が舞う。マスクを忘れてしまったので、首にかけていた手ぬぐいを顔に覆ってマスク代わりとした。

 作業をしていてしばらく、ふと顔を上げると空に虹がかかっている。アーチ型ではなく不思議な形、「虹だよ」と思わず叫んだ。誰かが「鳥みたい」と手を広げる。隣で作業していた方が「神様に祝福されているんだね」と言った。本当にそうだ、この地が祝福されているのだ。スコップをにぎる手に祈りを込め、ここで生活するすべての人が神様に祝福されますようにと願った。

 いっしょに作業をする台湾のみなさんは表情が明るい。にぎやかにおしゃべりしながらひたすら土を掘り返す。日本語が話せる人は少ないが、英語で話しかけてくれる。私はうまく話せないがその笑顔にエネルギーをもらって作業ができる。炎天下での作業はとにかくのどが渇くのでこまめに水分補給。30分おきに休憩。首に巻いていた手ぬぐいを顔に覆ったために首が赤く日焼けしている。日焼けすると体力を消耗するので、明日は手ぬぐいを2枚用意しようと思った。


・昼食
 「いこいの郷」は畳張りになっておりそこで各家や畑で作業していた人たちが一度戻って各自で用意した昼食をいただく。今日は人数が多くてその中に入ることができなかったため、屋外で昼食をとる。炎天下だが、お祭りのために準備していたやぐらの下が日陰になっているのでそこに座った。日なたは暑いが日陰に入ると心地よい風が吹いて疲れが取れる。


・午後のワーク
 午後からも同じ作業。さらに暑さが増す。隣の畑は耕され、種を蒔いたばかりだという。目の前にはスイカ、トウモロコシ、カボチャ、トマト、青紫蘇、赤紫蘇・・・さまざまな野菜がすでに大きく育っていた。作業しているこの場所も段階を追って隣の畑のように、そして目の前の畑のようになってくれれば、と希望を持って作業を進める。それにしても思っていたよりも重労働。スコップを踏む足がだんだん重くなる。東京から来られた女性が「私は還暦すぎているから・・・」と言いつつ私より軽いスコップさばき。自分の体力を過信してはいけないと思いながらその声に励まされ、頑張ろうと気持ちを奮い立たせた。午後からこの畑に青山短期大学の学生と先生10名程が加わり25名程で作業。加速して作業が進む。場所によって石やごみの多い、少ない、があるらしく、作業のスピードと取れるごみの量に差がある。掘り返す土もやわらかいところと、硬いところとがあり、土の塊をほぐすのに時間がかかる。石だと思って手でこするとパラパラくずれていくような土質。その中から石やプラスチックハンガーの破片、ねじ、ビニール紐、など様々なものが出てくる。いっしょに作業していた方がプリクラを見つけた。家族3人の笑顔。「この方たちは今頃どうしているのかしら。お元気だといいね。」みんなで名前も知らないこの写真の家族に思いを寄せた。

 帰り道、自転車をこぐのがやっと。行きの道は何とかついていけたが、帰りは何度も待ってもらった。1日でこれほど疲れるとは・・・と情けない気持ちになる。


 ・夕食
 今日は仙台市在住の青山短期大学OGの方々が後輩のために、と夕食を作ってくださった。メニューは肉じゃが、冷奴、おにぎり(みそ)、トマト、キュウリの酢の物。人数が多くて食堂に人が入りきらないため、外に出てバーベキュー気分でいただいた。

・銭湯でお湯に浸かると疲れが溶け出すよう。ここでしっかり疲れを取って明日に備えよう。 


8月3日(金)ワーク2日目

・朝のミーティング
 朝出かける前とワークから帰ってから夕方にミーティングは輪になって行われる。毎日ワーカーは入れ替わるため、新しく来た人、今日を最後に帰る人のあいさつもこのミーティングで行われる。今日帰られる男性のあいさつで、マルチン・ルターの「明日世界が終ろうとも私はリンゴの木を植える。」というメッセージを引用された。共感する。もしかしたら徒労に終わるかもしれない作業もあるだろう。でも、ここでともに汗を流すこと、被災された方に寄り添うことに大きな意味があるように思う。


・自転車での移動
 今日の自転車リーダーも速い。昨日の疲れが取れていないのでついていけない。ただし霧雨のような細かい雨がかかるような曇天で昨日より涼しく過ごしやすい。何とか「いこいの郷」に到着。


・ワーク

 今日も昨日と同じ畑での作業。朝からスコップを持つ手がだるい。今日は10名程で作業。あらかじめ「ここまでやろう」と石灰でラインを引いて目標設定。はじめは疲れてどうしようもなかったが、みんなでやると次第に元気になってきた。一人では絶対にできなかったと思う。昨日は全体の1/4ほどで終了したが今日は2/3ほどができた。


・昼食
 今日は「いこいの郷」で昼食をとるワーカーが昨日より少ない。ワーク先のお宅でお昼を食べている方もいるようだ。「いこいの郷」の部屋に大きく書かれた「ささへあう」の文字。一文字ずつ笹の葉でできている、さらにその葉1枚ずつをよく見るとここで過ごしたワーカーからの応援メッセージが書かれている。ワークでお世話になっているここ笹屋敷という集落はもともと120ほどの世帯だったが、震災後戻ってこられたのは70世帯ほど。残りの50世帯はバラバラになってしまったという。もしかしたら家族がバラバラになってしまったところもあるかもしれない。でもこの笹屋敷でまた会えることができたら・・・「支え合う」と共にそんな思いが「ささへあう」の言葉に込められているのだとスタッフの方が教えてくれた。また、テーブルの上にはこの「いこいの郷」ができるまでの様子が記録されていた。ここも津波の被害を受けている。建物の中にあった瓦礫を丁寧に取り除き、壁を張り替え、こうして今私達が座ってくつろいでいられる。ここに至るまでの道のりもたくさんの人の思いと準備と作業があった。エマオに関わる人たちが心を込めて1つ1つ丁寧に積み重ねられてきたことをこの「いこいの郷」でも感じる。昼食が各自終わるとおしゃべりの声がだんだん小さくなっていく。みんな満腹になっていい気持ちで昼寝を始めた。私も10分の昼寝。短くとも心地よく眠れた。

 いこいの郷はバスの停留所にもなっており、その奥にはエマオガーデンがある。そこにも大きなひまわりの花が咲いている。建物の隣には白菜、キャベツ、パンジーの種が植えられていた。ワークから自転車で帰ってくるとスタッフが丁寧に水をやり、日よけのシートをかけている。植物を大切に育てる姿にもこの地域でともに歩もうとする姿がうかがえる。スタッフの方はひまわりがわが子のようにかわいい、と目を細めて話してくれた。笹屋敷は農業を生業とする方々が多く住む場所。畑を元に戻す作業は彼らの職場復帰を意味することなのだ、とも教えてくれた。木で作られたかわいいプランターがいくつもあり、聞いてみると関西の福祉施設からの献品だという。ここにも遠くからの祈りが伝わる。


・夕食
 東京教区南支区の方々がミートボール、野菜炒め、お味噌汁、おにぎりを用意してくださる。遠方から食事の準備をしてくださることにより、仙台地区内の交代で食事の準備をしてくださっている方がお休みすることができる。こうした食事を提供してくださることも本当にありがたい。疲れた体に手作りのおいしい食事はお腹だけでなく心も満たされていく。


・銭湯から部屋に戻り、同室の方とおしゃべり。

 山形から家族4人(ご主人・高2・中1の息子さん)で来られた方:震災当時、避難指示が出たために避難しようとしたところ、突然それが解除されたことに不信感を持った、と話してくださった。結局一時的に東海地方に避難をしたが、あまりにも震災とは無縁の風景だったことに戸惑ったという。

 
東京の高校生2年生:たった一人で夏休みを利用してエマオに来たそうだ。被災者支援センターの立ち上げに大きくかかわられた野田沢牧師の話を学校で聞いて、エマオに行こう!と決心されたという。私が高校2年生の時そのような決心ができただろうか。彼女の姿にもまた、感銘を受ける。

 三重から来られたリピーターのワーカー:夜行バスで来て内勤(エマオ建物内での事務作業補助や清掃)をし、1泊して笹屋敷でのワークをしてその日の夜に夜行バスで三重に帰り、翌朝11時から仕事をする、と話してくれた。近くの銭湯がお気に入りで店主の女性とも仲良くなり、今度来たときはその方と飲みに行くのを楽しみにしているとのこと。昨日まで気が付かなかったが、銭湯の番台に置かれた写真たてに店主とその女性他数名のワーカーたちが並んでいた。ここでも地域の方と「つながり」、信頼関係が生まれていることに嬉しくなった。また、わずかな休暇を利用して仙台に足を運ぶこの女性の姿勢に頭が下がる。


84日(土)ワーク4日目

・自転車での移動
 今日の自転車リーダーは大阪から来られた男子学生、スピードを気にしつつ、後ろを振り返りながらゆっくり行ってくれる。2日間ママチャリを利用したが、今日はママチャリがすでに全て借りられているためマウンテンバイクに乗った。ママチャリよりもこぎやすく疲れない。長靴は車で移動する方に預けた。これなら何とか頑張れそうだ。スピードも速くないので心地よい風を感じながらこれまでよりも体力を温存して移動できる。


・午前のワーク
 今日は昨日の畑仕事から離れて「いこいの郷」での作業。6日(月)から「ささっこクラブ」といって子供たちがここに集まって夏休みの宿題をしたり、いっしょに遊んだりするそうなので、建物の隣にプールを置いて遊んでもらうため小石やガラスなど危険なものを取り除く作業。それからやぐらの拭き掃除。最後はやぐらの周りの草むしり。台湾の男女2人と作業した。男性は実家が農家らしく、畑でも鍬を持つ手さばきが慣れている、と感じていた。ここでもひたすら黙々と作業をする。とにかくよく働く。英語があまり得意ではなく日本語も話せないようだが、寡黙なのはもともとの性格のよう。午前中、やぐらの拭き掃除をしていると隣家の方が缶コーヒーを差し入れてくださる。少し間をおいて「塩気も必要だから」とキュウリのお漬物を一人1本ずつ3本くださった。この場所もまた近隣の方に支えられていることを感じる。


・昼食
 今日もいこいの郷にて昼食。前日まで石巻で作業をしていた方から写真を見せていただく。石巻はまだ復興が進んでいないとのこと。写真を見るだけでその被害の大きさがうかがえる。明日私たちは礼拝後石巻を訪れる予定。写真で見せてくれた場所にも行く予定なので、この目でしっかり確かめようと思う。


・午後のワーク
 台湾の女性とおしゃべりをしながら草ぬきをしていく。彼女は高校でカウンセラーとして働いているという。私は英語があまり話せないが、それでも何とか彼女の話が理解できれば・・・と必死に聞き取る。手を動かしながら一生懸命話しかけてくれる。日本の「涙そうそう」という歌は台湾では歌詞がアレンジされて讃美歌になっていること、先日までテゼに行ってきたこと、(歌も歌ってくれる)、高校生はたくさんの問題を抱えながら生活をしているが、自分は神様から与えられた大切な仕事をしていると感じていること、などなどおしゃべりしながら作業をした。黙ってやるよりずっと気分が楽になる。しゃがんだままの姿勢もそれほど苦ではない。あっという間に午後3時になり、続々とここにワーカーが自転車で帰ってきた。


・夕方のミーティング
 内勤のスタッフより近所から朝の移動がうるさいというクレームがあったことを知らされた。気をつけなくては、と思っていてもついつい興奮して話したり笑いあったりしてしまうことを反省する。また入れ替わり立ち代わりワーカーたちが訪れるため、近隣への配慮について伝え続けなければいけない。エマオでの注意事項、大切にしていることを伝えるのはスタッフだけの仕事ではなく何日か滞在するワーカー、またリピーターのワーカーにも課せられている。


85日(日)

・涌谷教会にて礼拝出席
 四国教区から一緒に来ている阪本さん、岡田伝道師とたまたま同室になったアメリカから来られているトオルさん、岡田伝道師の4人で、駅前でレンタカーを借りて礼拝出席のため涌谷教会(宮城県遠田郡涌谷町)へと向かった。8時半頃仙台を出発、涌谷町に着いたのは9時半くらい。


 ・震災当時のお話し(飯岡先生より)
 礼拝までしばらく時間があるから、と涌谷教会の飯岡先生が震災当日のお話をしてくださる。涌谷教会は保育園、子育て支援センターが併設している。地震のあった
1446分は保育園ではお昼寝の時間。大きな揺れの中で保育士の方たちが覆いかぶさるように子供たちを守っている光景が目に焼き付いています、とおっしゃっていた。石巻出身の保育士の方が、震災当初は被害の現場を訪れる人々を疎ましく思っていたが、今は忘れないで、という気持ちが強い、ぜひこの場所を見てほしい、そして伝えてほしい、と話されたことも教えてくれた。隣家は3階建ての建物だったが、ばったりと横倒しになったという。中にいた人は窓から放り出されて軽傷で済んだとのこと。その光景を見ただけでも衝撃が走ったと思う。飯岡先生は教会・保育園だけでなく地域の子育て支援にも大きくかかわっておられる。東京YMCAで働いておられて経験がおありなので、震災ボランティア受け入れにもそのパイプ役として大きなお働きをされている。地震当時のことはあまりにも忙しすぎて何があったかよく覚えていない、とお話ししてくださった。地震の混乱の中で礼拝を守り、保育園や地域のために奔走されるのは本当に大変なことだと思う。ただただ、頭の下がる思いがした。

 礼拝堂の後ろには掲示板があり、震災関連の記事もある。

 東北教区教会復興委員会通信より

 「どこを見ても、前と変わらない町並みと人並み、豊かな自然がそこにあるならば、だれが、そこに放射能があると思い続けることができるでしょうか。「あれは夢だったんじゃないか」と錯覚してしまうのも、きわめて自然なことではないでしょうか。これが「見えない放射能」の苦しみであり、本当の恐ろしさなのかもしれません。厳しい現実ですが、残念ながら人間が忘れても放射能は忘れることなく、少なからず私達の体に影響を及ぼし続けます。どうしたら私達はこの問題と向き合うことができるのでしょうか。放射能からいのちを守るということと同時に、この『こころのあり様』とどのように向き合っていくのかということも大切な課題のひとつなのではないでしょうか。」

 と記されていた。非常に考えさせられる問いかけだと思った。

 礼拝後の報告で「福島原発緊急事態発生メール配信システム」についての説明があった。東北教区の教会はほとんどが福島原発から200キロ圏内にあり、新たに大きな原発事故があるときは、避難を余儀なくさせられる位置にあるため、緊急時の情報発信のために整備された配信システムとのこと。原発事故によってすでに大きな犠牲が出ている上にさらなる被害拡大への恐れはどれほど大きなものであろうか。

 今日の説教題は「主イエスは命のパン」。御言葉に耳を傾けながら、今日初めて礼拝に出席されるという阪本さんとトオルさんと共に礼拝を守ることができた幸いに感謝する。


・震災当時のお話し(教会員さんより)
 
礼拝後、お茶の席を用意してくださった。震災のことを教会員さんが次々とお話ししてくださる。「備蓄しておいたもので不要なものは何一つなかった」と語る方がいた。自分たちで使わなくとも買い物に行けない、地域の人のために奔走してくださっている方たちに差し上げることができた、と。防災の準備は決して自分たちだけのものではない、周囲の人々にどう役に立ててもらうべきかを考えさせられた。涌谷町は内陸部にあるため、津波の被害はなかったが、地震そのものの被害が大きかったという。まだあちこちにビニールシートのかかった家が残っているようだ。教会の目の前の家もブロック塀が壊れたままになっていた。教会員さんのおうちでも食器がほとんど割れたという。「大事にしていたものほど割れちゃうのよね、どうでもいいのばっかり残ったりして・・・」と笑って話しておられた。


・昼食
 石巻で被災した人たちが多く訪れたという町内のレストラン併設の温泉施設に連れて行っていただく。名物はおぼろ御膳、とのこと、みんなでそれをいただく。おぼろ豆腐を使ったメニュー。ずんだもちもついて宮城らしい食事をおいしくいただいた。


・石巻市へ移動
 涌谷町から再びレンタカーで移動、石巻へと向かった。市内に入って大通りには大きなショッピングセンターやチェーン店が立ち並ぶ。商店街には石ノ森章太郎のアニメキャラクターの像があちこちに点在している。少し小高い坂を上り、日和山公園に到着。涌谷町から通ってきた道からはあまり被害の大きさを感じることはなかったが、ここに来ると階下に津波の被害にあったところが一望できる。正面には大きな市立病院が見える。少し手前に積み上げられた瓦礫の山。あとは土台だけ残った家が続いている。転々と家が残っているように見えるが、よく見ると1階部分は窓が開いたままになっている。かろうじて流されなかった家も浸水し、住める状態ではないようだ。東の方を見ると旧北上川の中州に石ノ森マンガ記念館が見える。ここも大きな被害を受けている。公園内にはあちこちに銅像や句碑が建てられており、歴史的な公園ということを知る。駐車場はいっぱいで多くの人がこの場所を訪れていた。日和山をおりて、門脇小学校へと移動。津波で流された車が次々と校舎にぶつかり、炎上したために校舎も燃えたとのこと。焼け跡がそのままの状態で残っている。二宮金次郎の銅像が壊れて中の鉄骨が見えている、まるで涙を流しているように見えた。67年前の戦争を知らない私だが、この場所はまるで戦争の焼け跡のようだと感じた。隣のお墓ではお坊さんとご遺族が手を合わせている。まだ復旧の進まないこの場所にあるお墓の前でどれほどの悲しみを覚えておられるのだろうか。墓石は流された後、復旧されたのだろうか、きちんと残っている箇所もあれば、墓石のなくなっている箇所、壊れたままの箇所もある。エマオ石巻に移動。津波の被害にあったであろう民家が再建されて立ち並ぶ住宅地にエマオ石巻はある。日曜日でお休みのはずのスタッフの方が温かく迎えてくださった。男性2人と女性1人。彼女は大学を休学してここでスタッフとして働いている。とびきりの笑顔と元気に励まされた。この元気のよさで大勢の人々を明るく照らしていることだろう。きれいな普通の家だが、ここも津波の被害を受けている。畳を張り替え、住めるような状態にしてここに拠点がある。先日までアメリカから来られたワーカー20名程が宿泊していたとのこと。コーヒーとお菓子をごちそうになって笑顔で見送ってくれた。石巻には大きな製紙工場があり、津波によって流された紙の山がまだそのまま残っていた。壊れた車の山の横も通る。まだまだ、まだまだ復旧には時間がかかることを改めて感じる。


・石巻市→女川町→雄勝町
 その後女川町に向けて移動する。ナビで「女川町役場」と検索。着いた場所に役場はなく、きれいに整地されている。別の方角を見ると鉄筋の建物がおもちゃのように転がっていた。町の中心が津波に飲み込まれたのだ。次に訪れたのは雄勝町。建物の上に水産会社のトラックがまだ乗ったままになっている。何トンもある大型車が建物の上に乗っている風景は異常だ。中学校の前を通るが、校舎の中は空だった。津波の威力をここでも知る。


・石巻市立大川小学校
 この滞在中、私にとって最も印象に残る場所になった。石巻市内からここまでの道中にいくつかの仮設住宅がひっそりと立ち並ぶ。車の行き来もそれほどないこんな所に建てられていることに驚いた。孤立感に襲われてしまわないか、買い物はどうしているのか、山に囲まれたその場所で暮らす人々がどんな気持ちでそこで生活しているかと考えると胸が締め付けられるようだった。ここまでまっすぐな道ではなく、ぐねぐねとした山道を通ってきたため、大川小学校に到着したときは車酔いで気分を悪くしてしまっていたが、目の前に現れた光景はあまりにも無残で悲しいものだったことに衝撃を受け、気分が悪いことを忘れる。ユニークな構造の校舎、子供たちを迎え入れるこの校舎が今はコンクリートの塊になっていた。建物は残っているものの、一部倒壊している。水の威力はこんなにもすさまじいものかと思う。曲がった状態で鉄骨がむき出しになっている部分がある。学校の裏山の一部に10メートルくらい上まで木が生えていない箇所がある。その他にも枯れた木がまばらに残っている。そこまで津波が来たということだろう。その麓に壊れた墓石がいくつか並べられてあった。校舎の手前には慰霊碑が建てられている。この場所で教師10名、児童74名が犠牲になった。子供たちはどれほどの恐怖を感じたであろうか、本来ならば下っていくはずの川の水が反対方向から、海からさかのぼってきたのだ。今は静かに流れるこの北上川が校舎の上を超えて襲ってきたのだ。逃げようとしてもどこに逃げればよかったのか。学校のすぐそばに山はあったが、道らしきものはない。山ではひぐらしとうぐいすが鳴いていた。その鳴き声がまた悲しかった。そこに立ちつくし、あまりの悲しさに涙があふれた。宮沢賢治のシルエット、銀河鉄道の夜をイメージした平成13年度卒業制作の壁画が目に留まる。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」とともに「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない・・・・・」と書かれている。そのメッセージも悲しかった。もう一度通ってきた道で見かけた仮設住宅を思い出す。愛するわが子を津波で亡くした家族がその場所に住んでおられるかもしれない。張り裂けそうな胸の内を抱えたままそこで暮らしているであろうことを思うとまた悲しさが襲った。トオルさんが帰りの車の中で「次世代を担う子供たちを失うことは町全体の悲しみだ」とおっしゃった。本当に町全体が泣いているように見えた。時折吹く風に揺れる木々も、厳しい日差しに照らされる家々も、畑も、目に映るすべてのものがこの出来事を悲しんでいるように思えた。

 とても暑い一日だった。帰りの高速道路から夕陽がきれいに見える。夕陽を見ながら今日見たこと、感じたことは絶対に忘れてはならないと繰り返し思った。


86日(月)ワーク4日目

・自転車での移動
 今日もマウンテンバイクで移動。電動自転車も余っているようだが、何となくしっかりこぎたい気分なのでマウンテンバイクを選ぶ。リーダーは東京の女子学生。彼女もゆっくりとしたペースで後ろを気にしつつ運転してくれる。いつも通る楽天球場前で警備員さんに元気よく挨拶している。後ろにいる友達に「毎朝通るんだから挨拶した方が気持ちいいよね」と話している。自分の滞在日数は短いかもしれないが、ここは毎朝必ずワーカーが通る道。地域の知らない人とのコミュニケーションも大切なことなのだと教わる。笹屋敷に近づくと七郷小学校の前で止まり、「もし地震や津波が来たら自転車でここまで逃げてください」と教えてくれた。いつまた地震が起こるかわからない。逃げ場所の確保も必要だ。


 ・午前のワーク
 今日は1日目、2日目と同じ畑での作業。ずいぶん進んだように思えたが、まだ残っている。今日も15名程で作業をする。スコップで掘るが、石や細かい瓦礫は出てこないものの、土が固くスコップがなかなか入らない。足と手がだんだんだるくなってくる。今日もまわりの学生とにぎやかにおしゃべりしながら作業ができるので何とか踏ん張れそうだ。途中で畑の持ち主の方がジュースの差し入れをしてくださった。天気予報では午後3時から雨ということだったが、10時の時点では快晴。本当に雨が降るのか?と思っていたら12時前に急に雲行きが怪しくなってきた。


・昼食
 今日からささっこクラブが始まるため、いこいの郷は使用できず、道路を挟んで向かい側にある公民館をお借りして昼食をとる。ポツポツ降り始めた雨がおにぎりをほおばっているうちにどしゃぶりの雨になる。今日は横浜で英語の先生をしておられるフィリピン人の男性とお話する。これまで数日間東松島でボランティアをされ、仙台に2日滞在し、再び東松島に戻られるとのこと。東松島も被害は大きく、まだまだ手が付けられていないところもあるようだ。ふと外を見ると、我々が畑に残してきたスコップやたらいを、ずぶぬれになってスタッフが回収して運んでいる。申し訳ない。ここまでやってくださっていることに深く感謝する。


・午後からのワーク
 行きは自転車で来たが、雨のため畑での作業は中止となり、車で帰ることになった。私達が乗ってきた自転車は後で運んでくださるようだ。エマオに着くころにはすっかり雨は止んでいた。帰ってからは夕食準備の手伝い。おにぎりをにぎるのを手伝ったり、しょうがをすったり、味見をさせてもらったり・・・。何十人分もの食事を作るのは本当に大変なことだと思う。今日は仙台市内の教会のご婦人と大阪からボランティアに来られた女性が作ってくださる。帰ってきたみんなでワイワイと楽しくお手伝いさせてもらう。普段はあまり調理をしない学生も慣れない手つきで一生懸命に手伝っている。食事そのものがおいしいのはもちろんだが、こうした方々に支えられていることでよりおいしく感じる。作ってくださる方と直接お話しできると、作り手の思いが伝わる。温かい食卓はともに汗を流した仲間と、支えてくださる方の思いによって作られるのだと思った。しばらくすると、屋内で作業をしていたワーカーたちが自転車で戻ってきた。


・銭湯
 いつも行く喜代の湯が月曜日で定休。今日は市内の大きな商店街の近くにある駒の湯へ自転車で向かう。街が近づくとものすごい人の数。今日は仙台七夕祭り。市内にいるとここがあの畑からそう遠くない場所だということが信じられない。行きは人通りが多かったので、帰りの道は人を避けて別のルートを選んだつもりが、さらににぎやかなところへ来てしまったようだ。今回ワークしているがれきの残る畑の風景と都会のこの場所とのギャップを感じる。


87日(火)ワーク5日目

・朝のミーティング
 毎朝、笹屋敷の近くにある仮設住宅でラジオ体操とおちゃっこ(お茶を飲みながらおしゃべり)に参加を希望するワーカーを数名募る。参加する人たちは車で移動し、おちゃっこの後ワークをする。今日は最終日だったので、参加を希望するつもりでいたが、今日はすでに短期滞在の高校生グループが参加のため、一般のワーカーが参加できないとのこと。残念だが参加を見送る。


・午前中のワーク
 今日でワークは最終日となるため、畑作業ではなく個人宅での作業を希望した。

 関西の男子学生2名、西東京教区の伝道師の先生、スタッフと私の5名でKさん宅での作業。剪定した松の枝を拾い集めて捨てることと、庭の草むしりが中心。松の枝なので軍手ではちくちく刺さって痛い。たまたま持っていたゴム手袋をしたら作業がはかどった。目の前に松の枝がごっそりあるので、ついガツガツと作業を進めてしまう。スタッフの方からから「もう少しゆっくりしてください」と声をかけてもらう。この作業の仕方もエマオで大切にしていることなのだ。効率やスピードではなく、お宅の方の進め方に合わせること、コミュニケーションを大切にすること。スローワークで、と毎日注意をしてもらっていたのにすっかり忘れてしまっていることを反省した。途中の休憩でKさんご夫婦がお茶とお菓子をごちそうしてくださる。エマオスタッフとも長いおつきあいのようで、本音を漏らされスタッフが苦笑する場面もあった。松の木が立派に育つ広いお庭だが、石塔の一部は倒れたままになっている。草もずいぶん茂っているのは夏だから仕方がないと思っていたが、奥さまのお話しでは津波でいろいろな種が運ばれたためにこれまでには生えたことのないような草の種類が育ってしまっているとのこと。Kさん宅にはこれまでに各地からたくさんのワーカーが来られたようで、中国の方、音楽家、最高齢は83歳の方だった、など本当にありがたいことだと話してくれた。また、この地区の中では震災後一番早く畑を復旧させたということでテレビの取材があちこち来たそうだ。生放送もあって疲れたよ、と話しておられた。それでも畑は境界線がわからなくなってしまい、以前の半分ほどの面積になってしまったという。ビニールハウスではトマトとミニトマトがたわわに実っていた。今日はお孫さんが遊びに来ていたが、もともといっしょに生活しておられたとのこと。息子さんご一家は津波が怖くてこの家には帰ってくることができず、市内のマンションで暮らしているということだった。スタッフの方の話だと、津波の被害に遭った人たちの間でも、家が流された人、家は残ってリフォームして住んでいる人、など被害の大小によって気持ちのずれが生じているという。小学校も津波の被害にあったところと被害に遭わなかったために避難所となったところがある。時間がたつにつれて、復興の進み具合に差が出てくる、それが人々の意識や気持ちの差にもつながるのかもしれない。


・昼食
 今日は
Kさん宅でいただく。カレーをごちそうになった。おにぎりは持参しているのでルーをいただく。圧力鍋で炊いたそうで、野菜の甘みがしっかりして美味しい。トマトやアイスクリーム、なすの漬物(丸ごと1本)もふるまってくださる。おにぎりは3個持参していたのでかなりお腹いっぱいになった。時間が少しあったので、学生と歩いて近くの墓地へ行ってみた。「いこいの郷」のテーブルに置かれていたエマオの活動を撮った写真の中で見た墓地だ。墓石が倒れ、瓦礫がいっぱいあった場所はきれいに整備され、写真で見た光景とは別のものになっていた。が、墓石がなくなっているお墓もある。黒く新しい墓石も目立つ。写真の解説には地域の人にとって大切な場所であるこの墓地の整備をエマオに任せてくださったことに感謝する言葉が記されていた。


・午後のワーク
 午後からも草むしり。昨日は雨が降ってほとんどワークができなかったので、最終日の今日こうして作業できてよかった。草むしりが終わると家の前にある畑で黄色いカリフラワーの苗を植える作業。ご主人が畑にしるしをしていく、そのあとを奥さんとみんなで穴を掘って小さな苗を植え、足で踏み固める。苗を立たせるのが意外と難しいが、みんなでやっていると楽しい。ここが冬には一面の黄色いカリフラワーになる様子を想像した。

 午後にお手洗いを借りるために家の中に上がらせてもらうとリビングに大きな液晶テレビがある。奥さんが、「このテレビは津波の被害に遭わないようにソファの上に寝かせてその上から毛布を被せてあったから盗られなくて済んだ」、と話してくださった。近隣では震災後液晶テレビの盗難が相次いだのだそうだ。津波の被害だけでも十分すぎるほど心を痛められただろうに、その後の一部の心無い人の行為によって再び傷ついた人が多くいるのだ。

 初日にずいぶん体力を消耗したため、5日間のワークができるかどうか心配だったが、それほど疲れを感じることなく終えることができた。今日は特に被害に遭われた方と直接お話しさせてもらう機会を与えていただいたことをありがたく思う。直接お会いすることで、思いがより強く、具体的になる。


・シェアリング
 ミーティングの後、シェアリングといって今日の感想を思いのままに話し、分かち合う時間が持たれる。今回は最終日の今日初めて参加した。グループは私を含めて8名。うまく話すことはできないが、上手に語ることはできなくとも、思ったままの感想、感情を言葉にすることと他の人の言葉を受け止めることはとても大切だと感じる。シェアリングのルールは批判しないこと。同じものを見て、同じ体験をしたとしても感じることはそれぞれに違うこともある。初めて参加した高校生は目に涙をいっぱい浮かべて泣くのをがまんしながら、話してくれた。体でも心でも全力で今日の出来事を受け止めていることが伝わる。仙台市郊外に住まれ、自ら被災しながらボランティア活動を続けておられる男性のお話も聞くことができた。今日のワーカーは全部で60名程。とても多く、一人ひとりとじっくり話せる時間はないが、全員が仲間なのだと感じて最終日を迎えた。昼食をお腹いっぱいいただいたため、夕食はとても入りそうにないので失礼した。


・宿泊
 ワーカーの数が増えたため、隣の仙台青葉荘教会から移動し、エマオ2階会議室にて女性7名で宿泊。所要のため、駅と銭湯に歩いていったら疲れがどっと襲ってきた。これまで夜は興奮状態でなかなか眠ることができなかったが、今日は早めに就寝。


88日(水)

・朝のミーティングに出席後、自転車で出発するワーカーを見送ってから帰る予定だったが、出発する時間になって雨がぱらつき始めた。自転車で出発するグループは隣の青葉荘教会駐車場へとまず移動するのだが、駐車場で全員が揃うのを待っている間に雨のためエマオ建物内で待機するよう指示が出る。私達は同じ時間にエマオから仙台駅までタクシーで移動するため、見送るつもりが、仲良くしてくれた大学生2人がタクシーに乗るまで見送ってくれた。今日はワークができるのであろうか・・・気になりつつ、エマオを後にした。


振り返り 

 毎日大勢のワーカーがエマオに訪れ、それぞれの感想を述べてここを去って行かれます。今回、こんなにも多くの方が海外から(台湾・アメリカ・イギリス・スイス・スウェーデンなど)、また全国から集まってこられていることに驚き、深い感動を覚えました。毎日朝夕手をつないで一つの輪になって祈りが合せられるとき、国や立場を超えてみんなの思いが一つになっていくのを感じました。ミーティング後の佐藤真史伝道師の祈りの中に「この思いが混ざり合いとけあいますように」という言葉がありました。一人ひとりの思いは具体的なことは違うかもしれませんが、誰のために祈るのか、その方向は同じだと思います。たった一人だと小さなものかもしれませんが、手をつなぎ大きな円の一部になるとその思いはこれほど大きな力になるのだと勇気を得ました。そしてここにいる私達のために大勢の方が祈ってくださっているという確信を持つことができました。この滞在中、ともに汗を流す喜びも、悲惨な現場を目にしたときの悲しみも、多くのことを体全体で感じ、受け止めることが大切だと思いました。

 今回は仙台だけでなく、石巻方面にも訪れ、改めてこの震災の被害の甚大さを思い知らされましたが、私が訪れた場所はそのごく一部に過ぎず、まだまだ広範囲に渡って被害を受けた地域があること、被害に遭われた方々が数多くいらっしゃることを思います。忘れてはいけない、思い続けなければいけないと思いました。遠くにあってそばに行くことはできなくとも、祈ることはできます。この滞在中に出会った全ての人、また被害に遭われた方々のために祈り続けたいと思います。このような経験をさせていただいたことに感謝するとともに、今後自分に課せられていることは何か、問い続けていきたいと思います。

 二度にわたりとても大切な時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうございました。

「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
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