エマオへの道・四国  第7次派遣報告

 
香川分区・丸亀教会 岡田真希
    

 皆様のご支援を受け、2012年8月2日(木)~7日(火)の六日間、東北教区被災者支援センター・エマオにボランティアに行かせていただきました。ワークした場所は仙台市若林区荒浜です。

今回は3度目のボランティアでした。一度目は昨年の8月でした。1年経って、当時の現場がどのように変わっていたか、また何が変わっていないかなどを報告させていただきます。

 

ワーク内容

8月2日から7日までの自分のワークの内容です。

2日(木)

男性6人で(日本人3人と台湾人3人)

○畑に竹が生えてきているので、根っこから掘り返す作業。

3日(金)

男性4人で

○Nさん宅の畑の切り株掘り。クワとチェンソーで掘り出す。

○畑の中にあった石を移動させる。

○とうもろこしの収穫、畑のネットをはずす。

○別のとうもろこし畑に鳥やハクビシンが来ているので、とうもろこしの下と上にネットを張る。

4日(土)

男性3人、女性1人で

○Nさん宅の倉庫の掃除。倉庫からものを全部取り出して洗う。倉庫の中の土を掃き出して、物を中に戻す。

5日(日)

○エマオのワークは日曜日が休みとなるので、レンタカーを借りて涌谷教会に出席。その足で石巻市街~女川町~雄勝町~大川小学校を見て回る。

6日(月)

男性1人、女性1人で

○Nさん宅の蔵から人形や記念品などの思い出の品々を出し、津波で被った泥を洗い落とす。

○蔵の中の泥も掃除する。

7日(火)

男性2人で

○Nさん宅の蔵の掃除の続きを行う。

○収穫した枝豆を枝と豆に分別する作業を手伝う。

○土を運んでお宅の駐車場を整地する。

 

一年前に荒浜に自転車で向かった時には、地震の影響で海岸に近づくほど道が波打っていたり砂利道になっていたりしましたが、今回は自転車で走る分には全く支障がないぐらいに舗装修理されていました。また、畑の中に津波で流された車がゴロゴロ転がっていたのも片づけられ、電信柱が傾いていたのも直されていました。一面土色だった水田にも今年は稲が青々と育っていました。それらを見て、少しずつ復興しているのだな、と実感しました。

 

荒浜で聞いたお話

 しかし、ワーク先の方のお話を聞くと、実際には見た目よりも生活は厳しいことがわかりました。

仮設住宅から荒浜の家に帰って来ることができているのは、まだ半数ぐらいだそうです。仮設住宅に入られている方は、一日仮設にいると気が滅入ってしまうので、荒浜に通ってきて畑をされたりしているとのことでした。

ワークをさせていただいたNさんご一家は、震災後一か月ほど避難所で過ごされ、風呂などは親戚の家を回ったりされたそうです。荒浜は震災後3~4日で泥棒に入られたとおっしゃっていました。

 

ワーカーたち

 今回のボランティアで特徴的だったのは、一緒に働いたワーカーたちの顔ぶれでした。半数近くが海外からの参加でした。今回参加した6日だけで、台湾、アメリカ、フィリピン、ドイツ、スイス、スウェーデンからのワーカーに出会いました。

 一番多かったのが台湾からのワーカーです。台湾基督長老教会(PCT)はこの夏、20人を二週間ずつ、4回にわたってエマオに派遣するのだそうです。台湾の教会は、今回の地震では一番大きな支援を日本基督教団にくださっています。今回の派遣も、最初は500人を超えるワーカーを日本に送る予定でしたが、日本側の受け入れの容量を超えているので、4回にわたって計80人を送る計画になったそうです。

 アメリカのシアトルからは17人のチームが石巻にボランティアに来ていました。

 ミーティングではスタッフの指示を台湾語と英語に通訳する声が飛び交っていました。

 

 また、昨年と違うのは、中高生が多く来ていたことです。教会学校のプログラムでの参加や、家族連れで参加した中学生もたくさんいました。

高校生にも多く会いました。ICU高校の2年生の女の子は「野田先生(SCF主事・東北教区被災者支援センターの立ち上げに関わられた牧師)の話を聞いて来ました」と、東京から1人で参加していました。明治学院東村山高校からのボランティアチーム(第9次派遣)は被災地の子供たちと「流しうーめん」の企画を持ち込んで交流を深めていました。

 大学生では桃山学院大学、桜美林大学、青山学院短期大学、松山東雲短期大学からの学生に会いました。桃山学院大学は今回が第13次派遣のチームで、この夏は第18次派遣まで、約20名をエマオに送ることになっているのだそうです。

 

教区では、西東京教区の第7次派遣の第一陣と第二陣が来ていました。西東京教区は、ボランティアが手薄になりそうな時期を選んで派遣しているのだそうです。今まで、のべ250人を超える人を派遣しているとのことでした。

 料理ボランティアとして来られた方々もいました。「青学の学生がボランティアに来ると聞いて」と、青学のOGの方々が料理に来られていました。大阪から来られた方で、「わたしみたいなおばあちゃんはお料理とお掃除で奉仕します」と、内勤ボランティアをされた方も。

 「私、本当は天理教なんですけど、前回荒浜でボランティアをしたときに自転車で来ている人たちがいて、それがエマオのワーカーだったんです。自転車で来るようなボランティアがいいな、と思って今回ここに参加しました」という方もいらっしゃいました。

 

 このように、様々な場所、年齢、宗教の人たちが集い、同じ祈りをもって働くことができたことは、エマオの活動の根が着実に広がっている成果だと思います。

 

エマオ仙台の新しい取り組み

 エマオではこの夏から新しい取り組みを始めました。「ささっこクラブ」というもので、荒浜の笹屋敷というところで、被災地の子供たちを集めて学習指導やレクリエーションをします。桜美林大学や宮城学院女子大学の学生たち、明治学院東村山高校の生徒たちが関わっていました。

 エマオは825日までの三週間、()()()にこの活動を続けます。「夏休み、家から走ってどこかに遊びに行っていたのを思い出すと思います。でも、被災地ではなかなかそういう場所がありません。だから、エマオがそういう場所を創れたら、と思うんです」とおっしゃったエマオスタッフの言葉が印象的でした。

 

日曜日

 日曜日はエマオのワークは休みです。8月5日の日曜日にはレンタカーで涌谷町にある涌谷教会の礼拝に出席しました。涌谷町には津波は届いていません。しかし、地震による被害がありました。街中を車で走ると、家の塀や壁が崩れているのが見られます。

涌谷教会は神学生時代の同級生、飯岡洋介牧師が牧会されている教会です。いろいろと話を聞くことができました。

地震は涌谷教会の保育園のお昼寝の時間に起こったそうです。揺れ始めた瞬間に保育士さんたちが子供たちを自分の身でおおって守ろうとした姿を見て「この人たちは自分の命を省みずに子供たちを守っている」と牧師は感動したそうです。その話を誇らしげにしてくださいました。牧師(園長)と保育士の皆さんが本当に一つになって震災後も懸命に保育に関わっていることがよく伝わりました。

 揺れがおさまって窓から外を見ると、さっきまでそこにあった三階建てのビルが横に倒れていたそうです。

 

 震災直後牧師は、人からの問い合わせへの対応に追われたそうです。連絡がひっきりなしに入って、「何が必要か」「どこに送ればいいか、どう送ればいいか」などの電話に応え続けなければならず、それが大変だったとのことでした。

取材のために現地に来た人たちも多くいました。純粋な気持ちから「被災地の様子を伝えないといけない」と思って来るのかもしれませんが、中にはマナー違反の人もいたそうです。「取材に行かせてくれ」という問い合わせには困ったそうです。ある牧師は、ブザーが鳴ったので玄関に出てみると、カメラでこちらを映している人が立っていた、などということもあったそうです。

 

 礼拝後、涌谷教会員の方々とお茶をいただきながらお話を聞かせてくださいました。

 「地震から一か月以上お風呂には入れませんでした。でも、仕事を再開しないといけないし、大変でした。このあたりは地震や津波についての学びをしていた地域で、3・11の直前にも大きな地震があったんです。だから、たくさんの人が備蓄をしていたと思います。私もたくさん買い込んで、震災に備えていましたが、買っていたもので使わなかったものは何一つありませんでした。自分も使いましたが、人のために働く人たちにあげたものが多かったです。働く人たちは家を片づけたり、モノを買ったりする時間がないんです。でも、働いてもらわないといけない。だから私のものをあげていたら、全部なくなりました。」

 「以前は、被災地の人たちは、誰かが外から来て自分の町の被害を見に来たり、写真に撮られたりするのを嫌がっていました。物見遊山で自分たちの町に来られたように感じていました。でも今は、もっとたくさんの人に見てほしいと思うようになっているんじゃないでしょうか。だんだん自分たちが忘れられているのを感じているんです。ぜひ、たくさんの場所を見て帰ってください。帰ったら、四国でたくさんの人に伝えてください。」

 

 涌谷町から車で石巻市街に移動。日和山公園に行きました。津波に襲われた市街地を一望できる場所です。

一年前に来た時は土色でしたが、今年は上から見ると緑が増えて、町全体が穏やかになった印象を受けました。しかし、その緑というのは、家が流された後に雑草が生えただけで、復興には程遠いのが現状でした。ポツポツと家が残っていましたが、山から下りて近づいてみるとやはり壊れた空家でした。

 日和山の麓には門脇小学校があります。津波で流された車が校舎にぶつかり、それが引火して炎上した小学校です。校庭に入り、校舎に近づきました。焼けた校舎を覗くと、まだ強烈に煤のにおいがしました。

 門脇小学校の脇にあった墓地も、津波で破壊されたまま直されていないお墓がたくさんありました。

 小学校を歩いていると何台かバスが来て、ガイドが観光客に門脇小学校の解説をしていました。大学が借り切って被災地を回っているように見受けられるバスもありました。被災地を見ることを学びの一環と捉えているのだと思います。涌谷教会員の方がおっしゃった、「被災地が忘れられていっている。どうぞ見てください」という言葉を思い出しました。

 

その後エマオ石巻に挨拶をして、女川町に向かいました。カーナビに「女川町役場」と入れて向かったのですが、何もないところで「目的地付近です」とナビの案内が終了しました。本当に何もない・・・全く何もないところでした。あるのは、整地された町一つ分の広さの空き地と、二つ三つ横に倒れているビルだけでした。「町の中心にあるべき役場がない・・・ということは、町全体がごっそりと津波に削られた、ということか」とわかった時には背筋が寒くなりました。「町がここにあったらしい」という風景に言葉を失いました。

 

 次に雄勝町に向かいました。ここも女川と同じく、町ごと津波に削られていました。中学校がありましたが、よく見ると校舎の枠だけが残って、窓ガラスや扉は壊れていました。カーナビは、「ファミリーマートを右です」と案内しますが、どこにコンビニがあったのか、その形跡すらわかりませんでした。山裾の木々は斜めに倒れており、津波の力がどれほど強かったかがわかります。

 

 女川町から雄勝町に向かう道は、海沿いではあっても山間を走っています。車を運転すると、山深い中を走っている感覚です。そのような道の脇にも仮設住宅がありました。車中のみんなで、「こんな山の中に仮設がある!」と驚きました。仮設住宅は、市街地にある、という思い込みがありました。あそこに物資を運ぶだけでも大変な作業でしょうし、市街地にある仮設よりも孤独感を感じるでしょう。自分が住んでいた町が津波で削られ、将来を模索しながらあの山深い仮設住宅の中で過ごさなければならないことは、大変なストレスだと思います。同じ仮設住宅でも、市街地にあるのと、山間にあるのでは全く環境が違い、それぞれが違うストレスを抱えていることがわかりました。

 

 最後に大川小学校に行きました。全校生徒104名の内、74名が流された小学校です。慰霊の碑が建てられており、我々が行ったときにも車やバスで人が訪れていました。祈りを捧げた後、校舎を見て回りました。印象的だったのは、大川小学校の奥にあったフェンスです。フェンスは、波が来た方向ではなく、波が引いた方向に曲がっていました。引き波の強さを物語るものでした。津波は北上川を遡り、小学校を飲み込みました。小学校の被災は、町の未来そのものの被災です。津波がこの町にどれだけ深い悲しみを残したのかを思うと胸が痛みました。

 

ボランティアを終えて

 皆様の祈りに支えられ、三回目のエマオでのワークを無事に終えることができました。今回は特に、世界各国から来ていたワーカーと思いを共有することができ、世界がこの震災を覚えていることを知り、心強く思いました。

スウェーデン人の男性は、「昨年、テレビでこの地震を見てから、全力で日本に尽くしたいと思っていました」と日本語であいさつされました。スイスのジュネーブから来た女性は日本語ができないにも関わらず、インターネットで調べて単身2週間のボランティアに来ていました。フロリダから来た男性は、「アメリカで報道されているのは、この震災がいかにひどいか、どれだけ大変か、といった否定的な面だけです。しかし、実際はどうなのかを自分の目で確かめたいと思って来ました。来てよかったです。日本人が強いスピリットで復興に邁進する姿を見ることができました」と言って帰って行かれました。

 しかし同時に、厳しい面にも気づかされました。シアトルから来た男性は、「日本に来て感じたのは、多くの人が震災や原発のことに対する意識が低下していることです。これには驚きました」とおっしゃいました。被災地の外では、以前と変わらず日常生活が営まれています。外国から来た人たちの客観的な目には、被災された人とそうでない人たちの間にある意識の差が見えたのかもしれません。

今回のエマオ滞在中に聞いた話では、被災者の方々の間においても大きな意識の差が生じているとのことでした。同じ小学校でも、自分の家から通う児童と、仮設から通う児童とでは意識がまったく違っているそうです。児童の間でも、そしてPTAの間でも、意識の差によって互いに衝突するようなことが起こったりしているのだそうです。

 このように、海外からの祈りがあることを心強く思う一方で、実際問題として、物理的な被害以外にも多くの問題が震災によって与えられていることを知りました。

 

私達にできること

 ワークから帰る途中、一年前に自分が土運びをした畑がどうなったかを見ることが出来ました。一年前、「津波で潮水をかぶったから農作物が育たない」と持ち主の方がおっしゃっていた畑には、立派にたくさんの野菜が育っていました。あの方はこの土地で、一年間歯を食いしばって、未来に希望を見ながら土と戦ってこられたのだ、と胸が熱くなりました。複数回エマオでのワークに参加すると、「あのお宅は今どうなったのか」を見ることができます。

 被災地の方々は、昨日も、今日も、あの土地で生きるために土と戦っておられます。そして明日も、その戦いを続けていかれます。私達は遠くにあって祈ることしかできない、無力だ、と思うかもしれません。しかし、一人ひとりの祈りがどれだけ大きな力になっているかを、今回のエマオでのワークを通じて感じました。

 震災後、多くの団体が被災地に入り、ボランティアを続けて来ました。しかし、1年半が経とうとしている今、引き上げているところが多いそうです。「ほとんどが資金面の問題です。震災直後は意識も高くて、資金も集まったけど、1年半も経つと難しいですね・・・」とエマオのスタッフに聞きました。

 被災地で生活されている人々に寄り添う心を強く保つためにも、献げ、祈り、四国から1人でも多くの方をエマオに派遣することができれば、と願います。


「エマオへの道・四国」
〒791-8031 松山市北斎院町58-3 日本キリスト教団さや教会内
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