第13次派遣報告

 
日 時 : 201392日(月)~5日(木)
派遣先 : 東北教区被災者支援センター  エマオ仙台
泰山咲美(松山東雲短期大学 教員)

わたしは今まで、テレビやインターネットでしか東北の情報を知らず、各地の様子や犠牲者の方々に対してもぼんやりとした悲しみがあるだけでした。
 みなさんも覚えていると思います。当時のテレビからは、「震度6 宮城県中部、福島県中通 震度7宮城県北部マグニチュードは新情報8.4」と、今まで聞いたことのないような大きさの地震を伝える速報に続き、海からの津波がどんどん押し寄せ、家も道路ももちろん人もでかいぶよぶよとした真っ黒な濁流に飲み込まれていく映像が毎日流れました。しばらく経つと避難場所で毛布にくるまるおばあさんや子ども、すごく怒りを表している男の人・・・よく、「日本人は地震があっても暴走せずに相手を思いやった」という国民性を褒められていましたが、決してそんなことはなかったと思います。たくさんの人が悲しみ、怒り、助かって生きていても健康といえる状態ではなかったはずです。
 それから福島第一原発での事故。丸いドームのようなところで、ボンッと爆発し、白っぽいおおきな煙がいつまでも空に昇っていく光景は、本当に同じ日本で起こっていることなのか?遠い異国のニュースをわたしは見ているのかもしれない。と思うほどショッキングな映像でした。しかしわたしには東北に親族も友人もおらず、これを幸いといってはいけなのかもしれませんが、具体的な辛さというよりかは漠然とした、恐ろしさのようなものを感じていた気がします。
今こうしてわたしにとっての3・11を思い出してみましたが、2年半が経った今、その時感じていた毎日の不安や悲しみは、なんとなく薄れて来ているような、思い出せば思い出すけど、その間にまた自分のあれやこれやの生活が目の前にあり、それが最優先になっていました。しかし、勘違いをしてはいけないのです。東北について薄れていく、忘れていくことは、「癒されていく」とは違うと思うのです。
 2年半が経った今、メディアが東日本大震災について取り上げる回数は格段に減りました。様々な情報が行き交い、私たちがテレビやスマホから得ることは膨大でもありほんの一部でもある気がしますが、でもそれは「知っているつもり」なことがほとんどでした。
わたしは今まで小さな募金をしたりすることで東北を忘れないでいましたが、いつか東北を訪れたい と思っていたところ、今年の9月、時を与えられて四国教会を通じてここにいる学生メンバーと、同じ思いをもった友人と、仙台へボランティアとして行かせていただきました。
初めて訪れた仙台市中心部は松山よりも都会で高層ビルやきれいな町並みが広がり、震災があった土地という実感は湧きませんでした。タクシーに乗った時「古い家は地震で倒れた。もう再建したところとまだのところがあるよ。」と運転手さんが教えてくれました。活動の拠点となる東北教区被災者支援センター・エマオでは、みなさんと同じ大学生が全国から集まり、共同生活を行いながら復興支援のワーク先へと出かけていきました。わたしは今回、学生ワーカーさんたちの夕食をつくるキッチン隊として行かせていただきました。毎日50人くらいの夕飯を、近隣教会の婦人会の方々が日替わりでつくりに来てくださっており、私たちはほんとに少しの手伝いしかできないにもかかわらずとても温かく受け入れてくださり、初日から感謝の思いでいっぱいになりました。
 そしてわたしは2回、フィールドワークへ参加することが出来ました。一度目は津波被害の大きかった荒浜地区の沿岸部を中心に、二度目はその被害の爪痕が今もなお残っている閖上地区へと行きました。
 荒浜へは、3人でいき、自転車で一時間ほどで到着しました。道を走っていると、都会と感じていた仙台市内から離れ、大きな橋を超えたあたりからだんだんと家がなくなり、沿岸部に着くと広い雑草の原がありました。そこはかつて、800戸ほどの住宅街だったと聞いた時にはとてもおどろきました。新築の家も昔からあった家も、全部津波に流されていました。当時の波の高さと同じ大きさで立てられた慰霊碑の前からわたしたちはしばらく動くことが出来ませんでした。家の土台だけを残した土地の一角に、黄色い旗が立てられていて、「荒浜再生を願う会」と描いてありました。また、震災当時のがれきの写真や波の様子を、展示してありました。わたしはそれを見て、改めて当時の様子を思い、そして復興にむけての強い思いも感じました。
 帰り道、きっとそこも住宅街であったろう場所には、がれき処理場があり、2年半経った今も多くのトラックが行き交っていました。山となっていたがれきをずっとずっと取り除く作業をしてくれていた人が居たのです。
 また、仮設住宅にもおじゃまし、おばあさんやおじいさんたちとラジオ体操をしたりお茶をいただきました。「仮設はせまくてしんどいけれど、こうして毎日ワーカーさんが来てくれてうれしいのよ」と話してくださったり、時には亡くなった家族のはなしも聞きました。ほんとうに少しのことではあるかもしれませんが、毎日必ずワーカーが行き、荒浜地区の方々に寄り添い生活をしていました。
 夕方エマオに着き、そこからはみんなで毎日のフィードバックの時間をもちました。今日一日の報告をしたり、みんなに伝えておきたいことなどをシェアリングしたり、スローワークの大切さを考えていきました。わたしは4日間という短い期間でしたが、その間にもたくさんのワーカーと意見を交換したり話し合うことが出来ました。出来ることがあれば、と一日だけ来てくれる人や、遠くは台湾からもたくさんの人がボランティアに来ていました。毎日出会いと別れがあり、滞在期間も国籍も違っていましたが、同じ思いの中で日々みんながつながっている、見えないバトンを繋ぎながら2年半の間、この支援センターは被災地の中にあって動き続けて来たことを感じる、とても印象的な時間でした。
 その日で帰るという男性の言葉が忘れられません。「わたしはちょうど2年前にこの地を訪れました。そのときはまだがれきばかりでどろをかけどもかけどもなくならず、とても先のことが見えず無力感を感じていました。しかし、今回再び訪れることが出来、がれきばかりだったたんぼが今年初めて再生し、もうすぐ穂を垂らすその光景をみて、本当に嬉しくなりました。私たちがやってきたことは日々ほんのわずかなことで微力だったかも知れないが、決して無力ではなかった。」
 わたしはその言葉を聞き、2年半が経った今、自分はこうして初めて仙台を訪れましたが、東北のことを忘れずにずっとずっと今日までたくさんの人たちが復興に向けて歩んで来た、その見えないバトンを自分もちゃんと受け取ることができていたんだと思うことが出来ました。私たちは若く、まだ具体的になにが出来るか分からないかもしれません。しかし、ボランティアに来ていた学生たちは、とてもいい目をしていました。ワークを通して、また自分の住むところでそのバトンをつないでいくのだなとわかりました。まだまだ東北は復興したとは言えないとわたしは思います。今回東北で受け取ったバトンは、しっかりともち続けていきたいと思います。今日はここにいらっしゃる一人でも多くの方に、私たちのバトンが届いたことを信じています。
 最後にお世話をしてくださった山本先生、四国教区の方々、このような機会を与えてくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。


「エマオへの道・四国」
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