子どもの街をつくりたい(1)
〜学校週5日制〜
学校週5日制の導入・毎月1回、第二土曜日
 平成4年(1992年)9月12日(土)から完全に毎月1回、第二土曜日が学校休日になるが、子どもたちがその1日を地域や家庭において「ゆとり」を持って過ごすにはどのようにすればいいのか。初めての試みであり、多くの議論が起こった。
 テレビや新聞が全国のいろいろな取組み予定の事例を紹介する中で、土曜日の過ごし方そのものが大きな社会的関心事となった。
 家庭や地域が子どもたちを静かに見守る「ゆとり」どころか、学校に替わるべき「居場所」をどこにどの様に創るのか、その方向への競争合戦となっていった。

林崎小学校区児童生徒校外活動推進協議会

 このような状況の中で、学校週5日制の導入による「居場所として」の地域子ども会の存在が論議されるようになってきた。
 そして、長年にわたり、子ども会活動や地域のボランティア活動に関わり、特に北浜青空子ども会のお世話を続けてきた細川龍繁先生から、
「毎月1回、第二土曜日の学校休日に向けて、子どもたちがもっと野外体験をしてほしい。人とのコミュニケーションの楽しさを知ってもらいたい。そのために、「地域子ども会の活動を今以上に活発にしたい。地域と家庭の教育力を高めたい。熱意ある人たちに集まってもらいたい」
 このようなお話があった。私にとっては願ってもない、ありがたいご提案であった。
 そこで、林崎小学校区の地域子ども会の活動を支援したり、また地域の方々が協力したりして林崎小学校区全体で何か一つのまちづくり活動を続けていきたい、そのための「世話人会」を発足しようとの趣旨で、平成4年(1992年)6月22日(月)に林崎小学校区校外活動委員会の代表者会を開催した。
 これが「林崎小学校区児童生徒校外活動推進協議会(以下、校外推協)」の発端である。

校外推協の設立趣意書
 設立に向けての「趣意書」は、次の通りである。
「学校教育の肥大化を是正し、学校・家庭・地域の教育のバランスの適正化を図ることを目的として、学校週5日制が実施されようとしている。この学校週5日制の問題は、学校や子どもの問題でなく、社会の問題である。学校教育が始まって120年、進学過熱競争の中で、学校教育に依存してきた教育から、子どもにゆとりと生きがいのある生活を保障するために、家庭や地域の教育力を高め、人間性豊かな子どもを育てる教育へ転換するために『新しい地域を創造しようとする革命』である」
 「地域社会において、青少年の健全育成に関する活動をしている機関・団体・施設・個人・有志が一つの組織をつくり、新しい地域の創造のために、英知を結集し、地域全体に総合的・有機的に機能する『地域ネットワークづくり』が緊急の要務である」
 「このような趣旨から、林崎小学校区児童生徒校外活動推進協議会をつくろうと考えています。何卒、趣旨にご賛同賜り、この運動にご参加下さいますようお願い申し上げます」


校外推協の会員
 会員のメンバーは、小学校・中学校のPTA会長と校長、子ども会連合会会長、社会教育団体(ボーイスカウト、ガールスカウト、海洋少年団、スポーツ少年団)の代表、公民館館長、児童館館長、地区民生委員、地区主任児童委員、地区社会福祉協議会会長で、この方々に年会費の1000円を払ってもらい、当分の間、会の運営費に充当した。従って、当初の年間予算の基本的な収入は会員24名分の24000円だけであった。

平成4年(1992年)9月12日(土)
 校外推協は、学校週5日制が始まる平成4年(1992年)9月12日(土)の第二土曜日に、私たち保護者や大人は何をすべきか、何を考えねばならないか。現在は毎月1日だが、そのうちに全部の土曜日が休日になった場合、地域や家庭、学習塾やクラブ活動、スポーツ少年団などは、どのようにして子どもたちに対応したらいいのか、また、地域や家庭で子どもを育てるとはどういう意味なのか、これらの課題や問題点を話し合うため、何回も会を重ねていった。
 当日は、全国的に人工的な「イベント」の開催が多かった。
 特に学校の中庭や校庭において、親子や三世代でゲームを楽しむ様子が、テレビニュースで放送された。
 私たちの校外推協でも、外見上は同様な取組みであった。

逆に「ゆとり」が消えた
 その後、校外推協では、子どもたちと大人たちが集まって、継続的な事業を続けてきたが、全国的には人工的な受け皿としての「イベント」の開催は急速に姿を消していった。あれほど過熱気味に取り上げていたテレビや新聞は、第二土曜日の学校休日のことを何も報道しなくなった。
 しかしそれは、家庭や地域において、子どもたちが自発的に自主的に「ゆとり」を満喫するようになったとか、また、学校週5日制の「当初の目的」を達成したからではない。
 むしろ逆に、問題は大きく膨らんでいったのである。
 当初、第二土曜日の午前中の「活動」を自粛していた学習塾も中学校のクラブ活動やスポーツ少年団も「我が時間を得た」とばかりに、以前にも増して、その密度が濃くなっていった。

第二・第四土曜日の2日の休みになって
 そして、第二・第四土曜日の2日が学校休日となって、その勢いは止まる所を知らない。
 子どもたちにとっては、学校に行かなくて良いだけで、子どもたちを「引っ張ってきたい」と期待しているところが「わが意を得たり」と微笑んでいる
 予想していたことだが、恐らく、完全学校週5日制になれば、もっともっと「ゆとり」を消し去る動きが「活発」になると思われる。

私は完全学校週5日制に反対
 私個人としては、この現状のままに放置するならば、平成14年4月からの完全学校週5日制には反対である。
 子どもたち一人ひとりが家庭や地域でじっくりと過ごす休日となっていない。また、土曜日に休んだ分を月曜日から金曜日までの平日の時間割りの中で何とか詰め込もうとして、子どもたちと先生が時間的に急かされてくるように見えるからである。
 家庭や学校に対して「ゆとり」を求めながら、かえって「ゆとりのない」家庭生活や学校教育になっていくのではないか、と心配している。

文部科学省もPTAも
 「土曜日には、学校もしくは学業やスポーツについて児童・生徒の関わる一斉の行事(公式大会、交歓試合、各種会合)を取り止めること」 と文部科学省はもっと本腰を入れて「ご指導」すべきである。PTAももっと力を入れて「お声(提案)」を発するべきである。
(ただし、スポーツクラブ関係の試合は、すぐには廃止できないだろうから、まずは私的な「冠大会」を排除して、公的大会では私企業からの寄附行為に柔軟に対応すれば、もっと公的大会を質と量ともに充実させることができる。また、私的な「冠大会」の試合があるからこそレベルが上がるとの意見もあるが、それには義務教育課程のクラブ活動そのものの意義から考え直すべきである)

土曜日を学校休日にする一番の狙い
 子どもから、
「それじゃあ、何をするの?」
 と質問されたら、
「まずはボオォッとしていたらいい」
 と答えてやろう。
 そうすると一部の大人から、
「子どもなんて、一人で放っておいたら何をしでかすか分からん、危ないものだ」
必ずこのような意見が出てくる。
 そのとおりである。大人が何もしないで放っておいたら、子どもたちはそのうちに心身がムズムズしてきて「何か」をしたくなる。その「何か」が大切なのだ。子どもたち自身がその「何か」を自分の意志で見つけ出することこそ、土曜日を学校休日にする一番の狙いであると、私は考えている。
 また、この時にこそ先生も「学校の外」へ出ていって、社会的体験を積んで大いにリフレッシュすることが大切である。

子どもたちを徹底的に手放してみる
 子どもたちの自主と自立の確立のため、今こそ、保護者や先生、スポーツ指導者や児童・生徒目当ての業者など、子どもに関係するすべての者に対し「子どもたちを徹底的に手放してみる」ことが求められていると思う。しかし、間違っても「見放し(見限っ)」てはいけない。「手放し」と「見放し」を混同してはならない。
 大人は、子どもを「手放し」ながら、転んでも自分から立ち上がろうとするまでじぃっと見守る我慢ができるのか、次々に先回りして「早くしろ」「ああしろ、こうしろ」「なぜ、できないの」と言ってしまう気持ちを押さえることができるのか。
 学校週5日制とは、私たち大人が「大人らしく」なり、「子ども離れ」ができるのかどうか、それを改めて問うている制度である。

「半ドン」・土曜日の精神的なゆとり
 ここで、少し話が逸れるかも知れないが、産業界・経済界の完全週5日制、つまり週休2日制について、感じている点を書き出してみたい。
 現在、このような完全週休2日制が少しずつ定着してくると、その反動としてか、反省としてか、土曜日の勤務がなぜか懐かしい気がしてくる。
 時間的にはゆとりが無さそうだった「半ドン」は、本当は、精神的に大きなゆとりを生み出す効用があったのではないか? 私はそのように思い直している。
 「土曜日の仕事があった頃の方が良かった。土曜日の午前中の数時間、仕事をしたのかしなかったのか、その中途半端さが良かった。午後からの数時間は職場でも個人的にも貴重な時間帯であった。仕事についても同僚との関係においても、土曜日には何かちょっとノンビリした気分を味わう時間があった」
 私の20年間のサラリーマン体験から、今では私自身もこのように思うし、また多くの社会人の友人から聞く話である。
 「半ドン」の土曜日には、職場の仲間と「午後の昼過ぎ」から「一緒に遊ぶ」ことがあった。ビヤガーデンに行ったり、ボーリングやソフトボール、バレーボールをしたりした。昼間の解放感や仲間との共有感を満喫する素晴らしい瞬間であった。

「半ドン」土曜日がなくなって
 親しい家族的な仕事感覚こそが、勤勉さ(楽しく仕事する)の根源であると思うが、土曜日の「半ドン」がなくなって、その感覚を共感する場面が少なくなってしまった。
 最近では、仕事から離れて「一緒に遊ぶ」のは、月曜日から金曜日の「午後の夜間」に移って、そのほとんどが宴会・飲み会となった。
 今では、職場の仲間意識を仕事以外の方法や場所で再確認できる「軽い行事」がなくなった。
 そして、仕事についての考え方が「仲間的・積極的」から「個人的・義務的」に変わってきた。これは残念なことである。

週休2日制と仕事観の変化
 経済的にゆとりが出来てきたのだから、休日を増やし完全週休2日制にして、もっと個人の生活を楽しもう、この呼び掛けは正論である。
 しかし、その結果として「個人主義が内在化」して、仕事観そのものにも大きな変化が起こってきたように思う。
 「仕事をする。その対価として給与がある。これが雇用と勤務の契約なのだから契約通りの仕事でいいんだ。きっちりと8時30分に出勤して、ぴったりと定刻5時に退社する。5時以降の自分、休日の自分はまったく職場の自分とは別人である。いかに効率的に仕事をして、いかに効果的に会社の業績に貢献するか、それが会社員として仕事をするってことである」
 私もこれはこれでいいと認めるが、しかし、仕事とは効率よく効果を出せばいい、ただそれだけの事務的な作業だろうか?

週休2日制と職業観の変化
 また一方、会社の営業状態によっては、または業種によっては完全週休2日制など考えられない所もある。それなのに例えば、役所や大手企業などは「まったく何の心配もなく」休んでいる。
 長引く不況の中で、休みのない人からの「そんなことってあるの?」って心境は良く分かる。
 多くの人が根本的な疑問を持っている。
「休みを取らなければならないほど、平日の仕事は激務なんですか? 逆に土曜日に完全に休んでも仕事になるんですか? いいですねぇ」
 週休2日制を完全実施している業種の給与体系が平均的に高いレベルなので、このような素朴な質問が出てくる。
 これが現実である。公官庁や銀行、大手企業に勤めたら、給料はいいし、休みも多い、だから、その業種に就職できるように条件(学歴、推薦)を整えていこう。必然的に子どもの頃からの競争はこれからますます激化していく。
 これでいいのだろうか?

週休2日制と人間観の変化

 完全週休2日制を可能にした別の要素として、高度情報化の進展を上げることができる。人の移動の必要性が低下して、手紙のやり取りが不要になって、情報は機械が瞬時に処理をして、私たちの手元に届けられる。とても便利になった。日々の仕事の密度は濃くなってきたが、高速の情報処理によって時間的余裕ができ、休日が取りやすくなった。企業でも、あらゆる分野にコンピューターが配置され、一人ひとりに携帯電話が普及して、情報の伝達方法が大きく変化した。
 しかし、そのためますます生身の人間関係から得られる情報よりも、情報機器から得る情報を重視するようになり、その結果、私たちは瞬時に流れてくるマスメディアの情報を簡単に信じ込むようになった。
 そしてここで問題となるのが、子どもたちが「目の前にいる私たちの言葉」よりも「マスメディアからの情報」の方が正しいとの確信で、そのまま何の疑いもなく全面的に信用してしまうことである。
 マスメディア(や情報機器から)の情報と生身の人間の情報をしっかりと区別できる間は心配ないが、現状のままでは、ますます人間の情報は軽視されるようになるだろう。テレビで伝えること、新聞に書いてあること、コンピューターの画面に出ていることが事実であり、真実であって、身近な大人が、それも両親や祖父母などが言う事を信用できなくなったり、また生の声であるから、その分「説教くさく」「押し付けがましくて」「うっとうしく」感じたりして、拒否するようになるのではないだろうか。
 これが、一番怖いことである。

平成14年4月、完全学校週5日制の実施
 表面上は、まったく混乱なく、それは始まった。家庭でも地域でも、初めて導入された平成4年9月12日(土)の時のような「フィーバー(加熱)」はない。月に2日の土曜日休日が4日になった、それだけの感覚である。
 そして、その他にも自ら学び自ら考える力の育成、特色ある学校づくりの推進、開かれた学校づくりの推進が始まった。
 文部科学省の唱える、子どもたちに「生きる力」を身に付けさせるための改革である。
 家庭や地域社会において、積極的に生活体験や自然体験、社会体験、文化・スポーツ活動などが行われることが提唱されている。

新学習指導要領の導入
 同時に、別の制度も実施されている。新学習指導要領の導入である。それに伴い「教科内容が3割削減される」ことになった。
 それで、保護者の間に「学力低下」への不安が広がった。
 完全学校週5日制の導入や「総合的な学習の時間」の新設によって、教科の授業日数が減るではないか、そして内容が3割もカットされれば、学力が低下するのは明らかである、このままでは将来(受験・進学)が不安である、ということである。
 そして別の不安もある。
 「ゆとり」の中で「生きる力」を育てるために、と称して、義務教育課程の「学校教育が大きく変わろう」としても、現実に厳しく存在する高校受験や大学受験が改革されない限り、取り残される者が増えるだけである、それでは何の意味もないではないか。
 確かに、これらの不安感には説得力がある。

完全学校週5日制の実施で失う「何か」
 さあここで、文部科学省はどうするのか。土曜日が休日になった分、授業日数が減る、しかし教科内容を3割削減したから、学校の授業時間が足りないはずがない、たとえ足りなくても月曜日から金曜日までの間で時間割を工夫すれば収まる、と考えているのであろう。
 机上の計算では、それはそうかもしれないが、このことがまさしく「ゆとりのない授業になる」とは、想像がつかないのであろう。物理的な工場生産物を計算するのであれば、それで大正解かもしれない。
 しかし、学校は物的な完成物を以って評価できるところではない。結果としての学科試験で教科についての理解度は評価ができるが、それだけでいいのなら、予備校と同じである。教師も要らないし、子どもたちは自宅でテレビ授業でも受けたらいいのである。
 学校で学ぶこと、それは教科の理解の外に大量にある。それは現場感覚、臨戦感覚、実戦感覚のない者には計り知れない「何か」である。当然、私たち自身も小さい頃に感じて学んだ「何か」である。
 完全学校週5日制の実施によって、子どもたちから、そしてまた教職員から、その「何か」が奪い去られてしまわないかどうか、私たちはしっかりと見守っていかねばならないと思う。

これからも学校教育を守ろう
 新しい制度が始まった。私たちはその移行を見守るしかない。
 しかし、先ほど「週休2日の仕事観・職業観・人間観」で述べたように、これから先、学校教育の中において、私たち企業人の先達が経験した「微妙な人間関係のすれ違い」が生じてくるのではないか、と私は危惧している。
 社会のすべての根本は教育にある。一に教育、二に教育である。それも学校教育こそが、その中心である。
 しかし、そこに集う「人間としての」先生の心境の変化、「人間になろうとする」子どもたちの態度の変化、この二つが微妙に複合し合って、学校教育が崩壊していくのではないか、私は真剣に懸念している。
 人が寄り集まって、切磋琢磨して、社会に出て行くための修練を積み重ねる処、それが学校である。小学校と中学校は、子どもたちが社会人になるための初歩を学ぶ所である。人の中で、人として成長を遂げていく所である。
 この点さえ忘れられなければ、学校が週3日制でも4日制でも、私は構わないと信じている。土曜日の、たったの半日であるが、それが完全に休日になることによって、人との関わりが「半日以上」の欠損に及ばないようにと願っている。企業が「半ドン」効果を手放して、その結果「仕事観や人間観のゆとり」を失ったように、学校もその同じ道を歩むとするならば、それこそ、国全体の存亡に関わる重大な事態なのである。
 どのような結果が待ち構えているのか。それは何年か先に顕著になってくる。決して学校教育が崩壊しないように、今こそ私たちは、肝に銘じて、人と人とが出合って学びあう学校教育の姿を守らねばならない。


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