私の社会活動の軌跡(1)
〜大学卒業から地域社会活動へ〜
東京から鳴門へ
 私は早稲田大学・法学部の学生として、自由気ままな都会の生活を満喫していたが、父が病気になり、看病する目的で鳴門に帰った。当分の間は大学に残りたいと考えていたので、このような形で大学を去ることに大いに未練があった。しかし、父の病状からすれば、親孝行できるのもそう長くはないかも知れないと思い、重苦しい覚悟で帰ってきた。
 仕事は、業種については深く考えず、転勤があっても自宅から通勤できること、という程度の理由で地元の鳴門信用金庫に就職した。
 友人や同僚、取引先のお客さんからよく質問された。
「大学は早稲田だって? それじゃあ、なぜ東京の方で就職しなかったの?」
 元々、就職を見通して早稲田大学を選んだわけではなかった。早稲田に行きたい一心で勉強しただけだったので返答に困った。そしてまた、帰ってきた理由として、高齢な父の重病の様子を語る必要もなく、この話題が出ると、複雑な心境を語る言葉に窮してしまった。
「やっぱり鳴門って所が好きなので。小さくて狭い地域だけど、ご近所同士の顔見知りの人たちと一緒に暮らすことが一番楽しいですよ」 と言って、笑っていた。
 これは、自分自身にも言い聞かそうとする精一杯の言葉であった。東京を離れた寂しさと父との同居の期間は短いかも知れないと案ずる寂しさ、この二つの寂しさが私の気持ちの中に充満していて、他に何も受け入れる余裕はなかった。まったく意気消沈していた。

鳴門に定住する
 73歳の父は8時間に余る大手術を受けた。その後は病状が安定してきたので、私は信用金庫を辞めて上京する夢を何度か描いてみた。しかし、日々の生活を積み重ねるごとに、家族で一緒に過ごす気楽な状態を変えようとする意欲は少しずつ薄れていった。当時の私はささやかな安定を求めていた。
 それに並行して、私の「公・私」の中で、鳴門に定住する条件が着々と整っていった。
 信用金庫では、当初は鳴門信用金庫・瀬戸支店に配属なったが、すぐに徳島信用金庫内に新設された「しんきん共同事務センター」に転勤になった。そこは、金融オンライン用のシステムを開発するために、県内3金庫(鳴門・徳島・阿南)が共同出資して設立した部署であった。私は5年と少しの間、コンピュータープログラムの開発を担当した。
 また、現住の弁財天の土地を購入して、2所帯同居を考えた和風の家を新築した。資金のほとんどは20年以上で返済する住宅ローン借入金で手当てした。
 加えて定住を決定づけたのは、結婚したこと、子ども二人に恵まれたことであった。
 その後は現在に至るまで、子ども二人を中心に楽しい家族の時間が流れてきた。

父は天寿を全うした
 父は一度目の手術の際にやむを得ずに施した処置で右手の扱い(腕の上げ下ろしなど)が不自由になっていた。しかし、そのことで日常生活にちょっと不便は感じただろうが、風呂やトイレの介護はほとんど必要なかった。
 また、生来の陽気な性格もあって、病後は自分の体調と上手に付き合いながら家族と四国八十八か所巡礼に行ったり、2人の孫と楽しそうに遊んだりしていた。
 平成2年(1990年)10月24日、父は再び大手術に立ち向かった。明治35年(1902年)生れの父は満88歳になっていたが、凛として気丈夫であった。
 だが3時間の手術の後、相当な我慢だったのか、疲れ切った様子で言った。
 「もう手術はええぞ」
 今まで、何ら苦悩も現わさず、苦情も言わなかった父が、手術室から病室に戻った時、ひと言、そう言った。
 その後も再び、家族みんなで同じような冬・春・夏・秋の季節を過ごし、次の秋の気配が近付きつつある頃の平成4年(1992年)9月18日、父は90歳と1ヶ月の天寿を全うした。
 私が東京から帰ってきて、17年が過ぎていた。

テニス合宿とスキーツアー
 県内3金庫の「しんきん共同事務センター」に勤務していたとき、たまたま同僚が始めた硬式テニスに魅了された。鳴門グリーンテニスクラブ(現在の蛭子山倶楽部)の会員になって、毎日の仕事の帰り、学校のクラブ活動のような熱心さで楽しく通った。県内の大きなテニス大会に出場したり、信用金庫の仲間と小豆島でテニス合宿をしたりして、テニスの時間をたっぷりと味わった。スポーツが大好きな私の唯一の息抜きであった。
 また、阿南信用金庫の職員有志が主催していたバスで行くスキーツアーのお世話役を引き継いで、ハチ高原や志賀高原のスキーツアーを企画しては毎年多くの初心者を冬山に連れ出した。
 私は、10年近く続けたテニス合宿とスキーツアーを通して「人が集まる会」を企画したり主催したりすることの面白さを体験して、その達成感と充実感に酔いしれた。自分自身が楽しむ実践の中で「コンベンション・ビューロー」の極意をしっかりと実感させてもらった。
 このことがその後、私の政策の一つとして、鳴門市議会において「コンベンション・ビューロー設立」を提案する原点となった。

保育所の保護者会役員
 私たち夫婦は共働きだったので、子ども二人は近所の私立の岡崎保育所にお世話になった。
 保育所の春夏秋冬の行事に積極的に参加しながら「子育ての楽しさ」と自分自身の「親育ちの喜び」を実感させてもらった。そして、まわりの子どもたちや同世代の保護者との関わりを大切にする気持ちが芽生えていった。
 いろいろな場面で、保護者同士が「親育ちの喜び」を共感し合ったが、その中で「子育てを取り巻く社会的問題」に悩んでいる多くの保護者がいることを知った。
 私は、鳴門市私立保育所保護者会連合会の会長になったとき、保護者の悩みを解決する方法はないのか、何とかしたい、と思った。

子育ての悩み、仕事の苦悩
 親としての「問題(悩み)」とは、
(1)産後に仕事を続けたくても、昼間に育児をお願いする人がいなかったり、時間的・経済的な事情があったりして、退職せざるを得なかったこと(産後休暇が終わって、子どもを預けて仕事に出ようとしても、公立私立ともに保育所では生後3ヶ月以上にならないと保育してくれないので、私立の乳児施設に申し込むことになるが、経済的な負担が大きい)。
(2)一度退職してしまったら、同じ職場に再就職することはとても難しいこと(事業主は賃金の安い若い人を雇うようにしている)。
(3)再就職で選択できる職種にはパートタイマー、アルバイトが多いこと。
(4)子育てに一段落ついて復職しようとしても、同じ条件で自分のキャリア(資格、職歴)などを生かせる職場が少ないこと。


産休明け保育の陳情
 このような悲痛な声を聞いて、行政当局に対して実情を訴えるために『産後休暇明け保育』の陳情を行うことにした。
 陳情書に添付する資料とするためにアンケート調査を行った。その自由回答の多くは「仕事を続けて保育所か、仕事を辞めて子育てに専念するか」に悩んでいる(悩んできた)親の姿を浮き彫りにしていた。産後休暇が終わって仕事(会社)に行こうとしても、子どもを預かってもらえる施設が少なくて、この間に仕事を辞めてしまったこと、そして、保育所への入所可能な月数になり、保育所に預けて再就職しようと思っても、希望どおりの仕事に復帰できなかったこと、などであった。
「親のこの苦悩を何とか取り除きたい。私も一人の親として、保護者会の役員として、何をどうすればいいのか……」
 この時、私は自分自身の気持ちの中で、実際の体験を基にした「政治に目覚める自分」を強く意識していった。

小学校・中学校のPTA役員
 長男が小学校に入学すると同時にPTAの「役」がまわってきた。
 1年生の時(昭和63年・1988年)は学年委員長、2年生の時(平成元年・1989年)はPTA校外補導委員会の委員長になった。3年生の時(平成2年・1990年)に前会長からPTA会長に推挙され、その後は小学校や中学校のPTA会長を務めてきた。
 保育所の役員の時とは比較にならないほど多種多様な「会」に出席する機会が増えた。その「会の役」を通して「子どもを取り巻く複雑な社会的問題」を直接に見たり聞いたりするようになった。
 学校や教育委員会が抱える課題、教育を取り巻く地域社会の劣悪な状況、家庭や大人自身の問題など、解決すべき課題や問題が次から次へと見えるようになった。
 その中の一つに気持ちを入れ込むと、もう抜けられない。あれも解決したい、これにも答えを出したい、と考えている間に1年が過ぎ、よぉし来年こそ、と意気込んで、ああだこうだしているうちに、結局、小学校・中学校のPTA役員を、長女が中学校を卒業する平成13年度(2002年4月)まで続けた。
 「未来を担う子どもたちのために、私にできること、私がしなければならないこと、それは何なのか?」
 教育についての関心が広がり、私はますます「政治に目覚めて」いった。

少年補導協助員として
 平成元年(1989年)林崎小学校PTAの校外補導委員会の委員長になったとき、10月に鳴門警察署から少年補導協助員への就任の依頼があった。
「こちらの地域で一人、誰かにお願いできないものかと探していたら、三津さんなら引き受けてくれるだろうと聞いてきたので、是非ともお願いします」
 このようなありがたい電話をいただいた。
「校外補導委員会の委員長さんでもあるし、子どもたちの校外生活の安全を確保するために、いろいろ何かとご協力をお願いすることもありますから」
 子どもたちのため、と言われたら断り切れなかった。
 少年補導協助員のほとんどの人は、長年にわたり積極的にPTA活動に関わってきた方たちで、私にとってPTAの大先輩、PTA活動の功労者の人たちばかりであった。その他の会合と重なって毎回は参加できないが、月1回の街頭補導に出かけたり、市内外の研修会に参加したりしている。
 少年補導協助員の活動をしながら、PTA活動とは、学校を支援するだけの活動にとどまらず、子どもたちを取り巻く社会環境を守るため、地域社会と強く結び付き、様々な問題解決のため真正面から立ち向かっていく純粋な社会教育活動である、ということを教えてもらっている。

子ども会の活性化と『まちづくりの原点』
 私は小学校のPTA会長になってから、地域子ども会の復活と活性化に力を入れようと思った。
 地域の子ども会活動が活発になって、異なった年齢の子ども同士が仲良く、そして親同士も知り合いになって欲しいと願っている。
 なぜなら、多くの親同士が知り合って親しくなったら、それだけ地域がにぎやかになってくる。地域がにぎやかになれば、ごく自然に明るく住みやすい環境が整って、ますます安全にして快適な地域になっていく、と確信しているからである。
 これは、私のライフワークとして考えている、子どもたちを中心にした『まちづくりの原点』そのものである。

鳴門市子ども会連合会のリーダー研修会
 その願望と確信を実践の中で証明できるチャンスがやってきた。
 平成3年(1991年)7月、林崎小学校を会場にして、鳴門市子ども会連合会が主催する「子ども会リーダー研修会」が行われた。
 私は、この研修会を絶好の機会と見て、心密かに次のような「作戦」を立てた。
 『林崎小学校区の地域子ども会活動を活性化させよう。同じ子育て世代の親同士が仲良くなるイベントを立ち上げて、地域を盛り上げていこう』
 短い準備期間であったが、6年生の保護者を中心に手作りの設営と運営ができて、親子ともに心に残る研修会となった。
 『研修会の「場」で広がった人間同士の「共感(共通体験)」こそが、新しいまちづくりに向けての「第一歩(動機づけ)」である』
 この研修会は、私にとって貴重な「実践の機会」となり、その後の私の生き方までも決定付けたと言える画期的なイベントとなった。

弁財天子ども会の盛り上がり
 いろいろな「場に参加する」こと、お互いが「共感する」こと、その繰り返しと積み重ねが新しいまちづくりへの広がりとなっていく。
 「子ども会リーダー研修会」において、多くの保護者が、多くの子どもたちが、まちづくりの「動機づけの場」を共通体験した。地域子ども会が盛り上がると、地域の活性化になる、この機会に地域子ども会を盛り上げよう、そんな気運が高まっていった。
 特に、私の地域の弁財天子ども会では、リーダー研修会の後すぐに「子どもの集い」と「秋祭り」を開催して、子どもたちを中心にした地域のまちづくり活動が一気に本格化していった。
 私は、子どもたちと保護者同士が一緒に楽しむ春夏秋冬のイベントとして「歓迎会、送別会」「花見」「夏祭り」「クリスマス会」「もちつき大会」「新年会」「忘年会」など、次から次へと企画を打ち上げ、実行していった。

「子どもの集い」と「秋祭り」
 弁財天子ども会と育成会(特に6年生の保護者)は「子ども会リーダー研修会」が終わってすぐに「子どもの集い」を企画した。
 親子のふれあいをテーマに、計画はとんとん拍子に進んだ。そして、夏休み最後の日、8月31日に近所の公園でバーベキュー大会を開催した。保護者はビール片手に会話が弾んだ。子育てのこと、学校のこと、町内のことなど。子どもたちは簡単なゲームをしたり、肝試しに夜の妙見山を歩いたり(ナイト・ウォーク)で大盛況であった。
 雑談の中で、私は「10月10日の秋祭りの出店」の企画を持ち出した。
 地元のお宮さん(神社)の秋祭りはここ何十年間か衰退の一途をたどってきた。屋台が消え、境内の出店が消え、子どもたちが集まらなくなり、当日は台車に乗せた神輿を引っ張る世話人さんが寄り合うだけの行事になっていたのである。
 十分な準備期間はなかったが、6年生の保護者の素早い動きのおかげで、弁財天子ども会と育成会が主催した「秋祭りの出店」は大成功であった。地域の人がたくさん集まって、子どもたちも大喜びであった。それ以上にお年寄りが感激していた。
「にぎやかな秋祭りがまた見えるなんて………、ありがとう」
 そんな感想に、私はまた感激した。この感動を続けていきたい、と思った。

弁財天青年会を結成
 平成3年(1991年)8月の「子どもの集い」、10月の「秋祭りの出店」から復活した弁財天子ども会活動は、小学生の保護者(育成会)と卒業した保護者の協力で、毎年盛んになっていった。
 そこで、小学生の保護者集団というよりも、地域の大人のだれもが参加できる「会」を作ろう、こんな声が上がってきた。
 その趣旨に賛同して、平成5年(1993年)11月13日(土)午後7時30分から弁財天集会所で「弁財天青年会結成総会」が開催され、15名の出席のもと「弁財天青年会」が結成された。
 私は結成記念として「もちつき大会」を提案した。12月5日(日)に大勢が参加して、にぎやかに開催された。秋祭りの子ども屋台にもらった「ご祝儀」を「そのまま地域の人に還元する」意味を込めて全額残しておいて、もち米やあんこの購入費に充てた。つき上がった餅は見物に来た人やお手伝いの人、町内の人に無料で配布した。
 その後「夏祭りと秋祭りの出店」は、この弁財天青年会が主催している。

弁財天・地域活性化の流れ
 地域まちづくりの主な流れをもう一度まとめてみると、次のようになる。
 平成3年(1991年)7月、鳴門市子ども会連合会の「子ども会リーダー研修会」をきっかけに、弁財天子ども会と子ども会育成会が8月の夏休み最終日に「子どもの集い」を開催した。保護者同士が仲良くなった。そこで一気に、弁財天市杵島姫神社の10月の「秋祭り」の日に、子どもたちの店を出そうという話になった。
 6年生の子どもたちとその保護者が中心となって活躍した「秋祭りの出店」は予想どおり大盛況であった。そしてまた、神社総代の協力で子ども屋台(よいあいしょ)が復活され、子どもたちを乗せ、保護者が担いで町内を華々しく練り歩いた。
 その後、活動の主体を小学生の保護者から地域の人たちに移そうと考えた。地域の誰もが気軽に参加できるように、平成5年11月に「弁財天青年会」を発足した。この会が「夏祭りと秋祭りの出店」を主催するようになった。
 冬に「もちつき大会(平成5年、6年)」、春には「お花見(平成6年から)」、夏には「夏祭り(平成6年から)」と次々に春夏秋冬の行事を開催していった。
 子ども会も一緒に「夏祭り」「秋祭り」を楽しみながら、子ども会独自の活動として「クリスマス会」や新1年生と卒業の6年生の「歓迎会、送別会」を行ってきた。

弁財天の市杵島姫神社の氏子総代
 氏子総代は、町内の四つの丁(西、東、仲、派名)から各4名ずつ選出され、合計16名で「総代会」を構成している。昭和63年(1988年)10月、私は西の丁から選出されて、38歳で弁財天市杵島姫神社の氏子総代となった。
 メンバーのほとんどが、町内会や納税組合(平成13年度に解散された)、衛生組合、老人会などの役員を兼ねている世話好きな人たちなので、毎月第四日曜日の「月例総代会」は、神社の事だけでなく、町内の課題を話し合うことの方が多い。ゴミの分別方法や収集場所の設置、危険箇所の点検や補修など、「地域づくり」の原点が具体的に話し合われる。その話し合いの中から、町内の多くの課題が解決されてきた。
 私はここで「地域の一住人」としての自覚を教えてもらった。すなわち、自分たちができること、しなければならないこと、してみたいことをしよう、お互いがお互いに関心を寄せ合いながら、ご近所同士が仲良くしていこう、このような地域(町内)自治精神が今こそ求められている、ということである。
 私は総代会において、私の子どもの頃(昭和20年代後半から30年代)のような秋祭りのにぎわいの復活を願い、子ども屋台の修復とお宮の境内での「出店」を訴え続けた。
 当初は「もう子どもたちが集まってくるような時代じゃない」って言われたが、やってみると「やっぱり、だれでもにぎやかに集まること」は大好きだったことが再確認できた。平成3年(1991年)10月、6年生の子どもたちとその保護者が中心となって活躍した「秋祭りの出店」は大盛況であった。私の長年の願いが実った。
 先代の代表総代、成松正勝氏が亡くなり、その後は私が「総代会」の代表総代となって現在に至っている。

弁財天町内連合会の結成
 平成5年(1993年)4月18日(日)午後7時から弁財天集会所において「弁財天町内連合会」の結成準備会が開かれ、5月1日(土)「弁財天町内連合会結成総会」でもって正式に結成された。
 青年会や子ども会の活動に刺激を受けて「町内を美しく明るくする気持ちをもっと広げていこう」という趣旨であり、目的は「弁財天町民各位の親睦、美しく明るい町づくり、そして町内の発展に資すること」である。
 同年5月22日(土)午後7時からの月例会では、この会に顧問をおくかどうか、第48回国民体育大会の民泊等についての諸問題、ゴミ問題等について、議論された。
 この当時から、ゴミ問題は町内でも中心的議題であった。各地域で鳴門市ゴミ減量推進委員を選任して、指定されたゴミ以外のゴミを出さないように、ゴミの選別を家庭の段階から徹底しようと話し合われた。
 この会長役も先代会長の成松正勝氏の後は私が会長を務めてきた。そして平成11年(1999年)度から、町内会長の長が任期2年で交替して務めることに変更した。

学校週5日制の導入
 私の『まちづくりの原点』は、地域子ども会活動の活性化そのものにある。
 子どもたちは明るく元気、保護者同士も仲良し、このような楽しい子ども会活動が起爆剤となって、町内全体を活性化していきたい、私はそう願いながら動き回っていた。
 同じ頃、学校教育において、新たな試みが始まろうとしていた。
 平成4年(1992年)9月12日(土)から毎月の第二土曜日が学校休日となる「学校週5日制」が導入された。
 これによって、地域子ども会のあり方も見直されるようになってきた。
 学校が休日となる毎月第二土曜日に、地域子ども会はどのような活動をしたらいいのか、地域の私たちにどのような「教育力」が必要なのか、その「教育力」が存在するのかどうか、家庭ではどうか……、マスコミでも大きく取り上げられ始めていた。

林崎小学校区児童生徒校外活動推進協議会の発足

 子ども会活動や地域のボランティア活動のお世話をずっと続けてきた細川龍繁先生から、次のようなご提案があった。
「学校週5日制に対応するため、地域子ども会の活動をより一層活発にしたい。地域と家庭の教育力を高めたい。熱意ある人たちに集まってもらいたい」
 そこで、平成4年(1992年)6月22日(月)、子ども会活動を支援しつつ、まちづくり活動を行う「林崎小学校区児童生徒校外活動推進協議会(略称・校外推協)(愛称・子どもの街をつくる会)」が発足した。
 会員は、小学校・中学校のPTA会長と校長、子ども会連合会会長、地域の社会教育団体(ボーイスカウト、ガールスカウト、海洋少年団、スポーツ少年団)の代表、公民館館長、児童館館長、地区民生委員、地区主任児童委員、地区社会福祉協議会会長などであった。
 年会費は1人1000円で、当初の年間予算は会員24名分の24000円であった。

学校週5日制への対応
 子どもの街をつくる会(校外推協)は、学校週5日制が始まる平成4年(1992年)9月12日(土)の第二土曜日に、私たち保護者や大人は何をすべきか、何を考えねばならないか、そして、今は毎月1日だが、そのうちに全部の土曜日が休日になった場合、地域や家庭、学習塾やクラブ活動、スポーツ少年団などは、どのようにして子どもたちに対応したらいいのか、また、地域や家庭で子どもを育てるとはどういう意味なのか、これらの課題や問題点を話し合った。
 現在まで、年間の事業を通じて、異年齢の子どもたちや地域の住民が集う活動を続けてきた。3世代ふれあいフェスティバル、あそびリンピック、キャンプ体験、などである。
 しかし、私たちの意図はまだまだ広がっていない。
 私は、子どもたちも高齢者も住みやすい街にしたい、この心意気だけは決して後退させずに活動していきたい。

小学校・中学校のPTA役員、PTA連合会の役員
 平成2年(1990年)から平成5年(1993年)まで、林崎小学校PTA会長をして、鳴門市幼小中PTA連合会(以下、市P連)の監事を務めた。
 この間に、じっくりと林崎小学校のPTA活動に専念できた(子ども会リーダー研修会、地域子ども会の活性化、制服の見直し、PTA広報紙の充実、PTA組織の再編成、国体の鼓隊・集団演技、運動会の種目の見直しや体育倉庫の改築など)。
 平成6年(1994年)第二中学校PTA会長となって、市P連会長、徳島県PTA連合会(以下、県P連)の監事になった。
 平成7年(1995年)平成8年(1996年)に再び林崎小学校PTA会長となって、市P連会長、県P連では副会長となった。平成7年には四国ブロックPTA研究大会徳島大会がアスティ徳島で開催された。
 平成9年(1997年)から平成11年(1999年)は続けて林崎小学校PTA会長、市P連会長になって、県P連では会長になった。社団法人日本PTA全国協議会(以下、日P)で監事となった。
 平成10年に市P連で「鳴門市PTA50周年記念事業」を行った。小学校・中学校・幼稚園の校歌や園歌と学校沿革などを集めた50周年記念誌の発刊、そして、鳴門市文化会館の舞台で校歌や園歌、童謡を歌った鳴門市PTA50周年記念大会を盛大に開催した。
 平成11年には4年に1回の四国ブロックPTA研究大会徳島大会が開催される予定であったが、愛媛県で日Pの全国大会が開催されたので、翌年の平成12年に延期した。
 平成12年(2000年)は、第二中学校PTA会長となって、続けて市P連の会長、県P連の会長になった。日Pで常務理事(財務会計担当)となった。11月に第29回四国ブロックPTA研究大会徳島大会を鳴門市で開催した。四国四県から約1700名の参加があった。

(社)日本PTA全国協議会の監事
 平成9年(1997年)県P連会長となって、日Pの常任幹事となり、日P総会で監事に選ばれた。
 監査において、細かいところまで調べることができなかったので、年度末の監査報告の時に「事業別予算」を作成することを提案した。
 事業別予算とは、一つひとつの事業ごとに、予算の詳しい明細(収支)を記述する仕方である。
 日Pの全国大会や表彰式・研修会、常置委員会の活動など、これらの事業は、組織体の行動理念を具体化したものである。その事業の予算額とは、行動理念を金額に置き換えて、具体化したものである。ならば、その事業一つひとつの予算金額の中身(積算の過程や収支)を、なぜ細かく記述できないのだろうか。
 会費は適正にして有効に使われなければならない。無駄があってはならないし、当然に使途不明金などは許されない。厳正に監査を行い、次年度の活動に向けてより一層の効果的な予算配分を行わねばならない。そのためには事業別に収支の明確な予算を組むことが必要である。
 この程度の原則論が、なぜ現段階でもなかなか理解してもらえないのだろうか。遅々として「改良」は進まない。

(社)日本PTA全国協議会の常務理事
 監事は平成9年度だけで、その後、平成10年度、11年度の2年間は常任幹事だけを務めてきた。
 平成12年(2000年)に、4年に一度のローテーションで回ってくる四国ブロック協議会の会長となり、日Pの四国ブロック代表理事となった。そこで、日Pでは三役の常務理事に就任した。会計担当の常務である。
 また、インターネット委員会委員長、映画審査委員会と日本PTA基金特別委員会の担当役員となった。
 月に平均して1回から2回、東京・新橋の日P事務局へ行くことになり、個人的には楽しくありがたい限りであった。
 実際には常務理事の具体的な任務が理解できていなかったが、今井日P会長を中心にして、会長や他の役員の補佐役を務めつつ、会がスムーズ(シャンシャンと終わらせることでなく)に運営できるような気配りを心掛けた。
 また、日Pの三役になったからといって、決して上位の役席(経営者、指導者)感覚に染まらないように、常に一人の保護者、一人のPTA会員としての視点を忘れない活動をしていこうと思った。


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