私の社会活動の軌跡(2)
〜信用金庫から市議会議員へ〜
鳴門信用金庫の職歴
 父の病状を気遣いながら、大学に未練を残しつつ帰郷した私は地元の鳴門信用金庫に入庫(就職)した。
 新人としての研修期間は短く、すぐに瀬戸支店(得意先係)へ配属となった。午前中は支店で内勤して、午後からは店の周辺を歩いて営業にまわった。
 毎日のように新鮮な魚をもらったり、土曜日の午後から取引先の会社とソフトボールの試合をしたりして、気持ちが段々と落ち着き始めていた頃に、金融オンラインプログラムを開発中の「徳島しんきん共同事務センター」に一人欠員ができて、コンピュータープログラマーとして出向した。
 5年2ヶ月の間、預金と融資のオンラインシステムの開発に係わった。いつもかも不規則な勤務時間であったが幸いにして体調をこわすことはなかった。
 その間に、個人的には家を新築したり、結婚したり、また硬式テニスの合宿や試合、スキーツアーを通じて多くの人と知り合った。
 事務センターから戻り、本部の業務部(代理業務)に配属になって、国民金融公庫、中小企業金融公庫、全国信用金庫連合会などの代理業務を担当した。
 次に本店営業部(融資係、融資係長)で、じっくりと融資業務の実務を経験した。ここでは信用金庫が取引きしている中小企業の資金繰りの厳しさを実感した。それらの中小企業こそが地方都市・鳴門の経済を支えているのだが、経営基盤が脆弱で、融資稟議書を作るときなど、地元に本店を構える信用金庫として、もっと支援できないものかと、やり場のない苛立ちを感じていた。
 次の松茂支店(得意先係長、支店長代理)では、得意先係専用のカブ(単車)に乗って、1日60キロから80キロ、雨の日も風の日も預金獲得と融資セールスに走り回った。
 里浦支店(支店長代理)で内勤となった。私は41歳、この時点で信用金庫を辞めて、平成3年(1991年)の統一地方選挙、鳴門市議会議員の選挙に出るかどうか悩んだが、結局は出なかった。
 翌年の平成4年(1992年)9月、父が亡くなった。入院した病院が支店から近かったので、昼休みに様子を見に行ったり、朝夕に立ち寄ったりすることができて、ありがたかった。
 北島支店(支店長代理、次長)では、次長として支店経営を受け持った。支店の事業計画書を作成したり、月次の業務報告書をまとめたりした。
 そして、平成6年(1994年)10月5日(水)、翌年4月の統一地方選挙で鳴門市議会議員の選挙に立候補するため、ここ北島支店の支店次長でもって鳴門信用金庫を退職した。

『バブル』の踊りを眺めつつ
 本店営業部に勤務していた頃、大蔵省がNTT株を売却するころから『バブル』が膨らみ始め、人々は借金してまでも土地と株を買い漁った。
 また、天皇陛下の在位60年を祝う10万円記念金貨を金融機関窓口で交換することになったとき、当日の混乱を恐れて「抽選券」を発行したら、その券一枚に数千円のプレミヤムが付いたり、券を強奪したりする事件が続発した。
 この金貨はすぐにでも40万、50万円には跳ね上がると噂されていたが、まったくの空手形に終わり、その後、金融機関の窓口に「額面どおりに使用できる紙幣」への両替が始まった。狂乱の後、白々しく眺めた光景は空しい限りであった。
 金貨の製造原価は約4万円であり、差額の約6万円は、結局はだれが手にしたのだろう。大蔵省・国なのか、そこから何か有意義な公共事業に使われて広く国民に還元されたのか、国の赤字財政の補填に使われてどこかに消え去ったのか……。
 資本主義経済の『陰』の部分が日本全体を覆った時期であった。ここで私は一獲千金の欲に群がる人間の悲しい姿を目の当たりにした。

大笑いしている者もいる
 だれが火を付けたのか、だれがそれを煽ったのか。大笑いした者は今も静かに隠れて、舌を出して笑っているに違いない。泣くに泣けない弱者だけが今でも袋叩きにあっている。
 当時、私のまわりには『バブル』に大きく踊らされた者(取引先、職員)はいなかったが、都会では、月に1回、土地取引に絡む数億円の融資業務をするだけで、あとは高級車を乗り回して遊んでいる某銀行の行員がいる、という噂が鳴門にも伝わってきた。
 結果、金融(業界)再編成の嵐の中で、伝統ある名前を無くした銀行が多く現れた。それらの銀行が破綻すれば日本経済が危ない、経済秩序維持のためだ、との名目で公的資金が導入されたにもかかわらず何ら効果はなく、現在でも合併したり名前を変えたりして、法人(組織)として責任を取る格好を繰り返しているだけである。
 しかし、組織としてそのようなポーズを取りながらも、必ずやだれかがどこかで大笑いしているに違いない。弱肉強食の業界である。

考え方(政策)を行政に

 信用金庫では、地元中小企業の経営の厳しさを知った。そして鳴門に育った子どもたちが鳴門で就職できる環境づくりとして「地場産業の育成」が大切であると思った。
 保育所の保護者会活動の中で、子育てを取り巻く「社会環境」の向上と充実をはかること、また、小学校・中学校のPTA活動において、「教育環境」の劣悪さを改善して、新たな学力観を創造していくことの必要性を実感した。
 そのためには、鳴門市はまず第一番に、すべての物的・人的資源を有効活用した「人口増加策」を考えねばならないと思った。
 そのような私の考え方(政策)を鳴門市の行政に吹き込みたい。
 平成3年4月の統一地方選挙で鳴門市議会議員に立候補することをめざして、活動を開始した。

立候補の断念と反省
 しかし、どういう具合(流れ)だったのか、私のまわりでは平成2年の12月前後に「今回は立候補しない方がいい」という雰囲気になっていった。
 結局、平成3年4月の立候補は断念した。
 反省としては、ただ一つ。私の『覚悟』が未熟であった、ということである。どんなに中傷されても、どのように罵倒されても、正々堂々と自分の信念を通す覚悟、蹴られても倒されてもたくましく立ち上がる覚悟、あらゆる清濁を悠々として飲み込む覚悟が足らなかったのである。

そして、1人からの立候補

 また、4年間、立候補予定者として『覚悟の習練』が始まった。
 険しい道であった。善意から何をしても何を言っても、うまくいくと「売名行為でしているのか」、逆に、少しでもつまずくことなら「まだまだ若いなぁ、頼りない者じゃ」となった。
 そのような厳しい監視の中で、仕事やPTA活動、社会団体(少年補導協助員、子ども会育成会、神社総代、町内会など)の役をコツコツと務めていった。『覚悟』が固まり、平成6年10月に信用金庫を退職した。
 12月には後援会事務所を開いて立候補の意思を公表したが、事務所に立ち寄ってくれる人は少なかった。
 その後も毎日毎日、1人で1軒ずつあいさつまわりをする日々が続いた。

素人戦法の大勝利、選挙は変わる
 平成7年4月の統一地方選挙で鳴門市議会議員に立候補した。立候補当日の出陣式には90名余りの支持者のみなさんが来てくれた。
 事務所スタッフの中は、選挙プロが一人もいない、何となく怪しい長老格もいない、若さ溢れる同好会やサークルの寄り合い感覚であった。
 机の上にはミカンとお菓子、お茶とコーヒーだけで、アルコール類の提供は一切しなかった。家かどこかで酒を飲んできて事務所に入ろうとする支持者に対しては、事務所の中にいる者が「事務所に入らないように。ここで飲ませたように思われる。ここで全員が飲んでいるように思われる」と言って、帰ってもらった。当初はそれに対して、中には悪態をつき暴言を吐く者もいたが、決して恐れたり萎縮したりすることなく、逆に事務所の中の団結が高まっていった。
 素人集団であったが、何の不安もなかった。日ごとに若い勢いが増していった。
 私は街頭演説の戦法で、各地域をまわった。選挙戦の最終日には、半日かけて徒歩で地元周辺の地域を回りにまわって、結果、若いボランティア組織が怒濤のような大勝利を勝ち取った。得票は1598票で、順位は30名中の4位であった。
 ある新聞では「街角で政策を訴えて支持を広げ上位に当選した新人がいた」と評価した。
 私は、これからの選挙は大きく変わる、これからは立候補する理由が変わる、そしてこれからは候補者(議員)そのものの資質が変わる、と確信した。

鳴門市議会議員になって
 平成7年4月、私は鳴門市議会議員になった。思う存分に政策を提案できる『場』が与えられた。
 私は、この鳴門でたくましく育った子どもたちが、大学などで一時は市外や県外に移り住んだとしても、その後はここに帰ってきて、家族や友人と和気あいあいと暮らせる町、そのような鳴門市にしたい。そのためには、雇用力のある職場を育成すること、安定した税収入をはかること、充実した住民福祉サービスを向上させることが必要であると思っている。
 具体的には、地域産業の育成、教育環境と福祉制度の充実、地域文化の継承、快適な生活環境づくりに重点を置いて、議会活動を行った。

私の政治政策
 私の基本的な政治政策は『住民本位の豊かな生活空間づくりをめざす』である。
 人々の毎日の生活が安全であること、そのために政治が必要な施策を実行する、ということであり、次の五つの分野について考えている。
 (1)安全で快適な生活環境づくり
 (2)地域産業の基盤づくり
 (3)教育や福祉の充実
 (4)自然との共生
 (5)地域の生活文化の伝承

 定例議会において、一つずつテーマにそって一般質問の項目に取り上げた。

コンベンションビューロー
 コンベンションとは、研修会、展示会、見本市、大規模な会議、学会、イベントなどのことであり、それらの誘致のための支援活動や情報提供をするのがビューローである。
 私は信用金庫のテニス合宿とスキーバスツアーを企画・主催して「人を集める会」や「人が集まってくる会」の面白さ、すなわち「コンベンションビューロー」の極意を経験した。
 それが私の政策の一つとなり、鳴門市議会において「コンベンションビューロー」を設立する提案となった。
 例えば、関西に本店を置く会社が、全国の支店の管理職を集めて四国で研修会を行いたいがどこが良いだろうか、会場の設定・設営や宿泊の案内、部屋割りも全部やってもらって、それに観光が付いていれば最高だが、そんな「段取り」をしてくれる所があれば、一括してそこに頼むのだが……。
 こんな時こそ「コンベンションビューロー」の出番である。そのような「内容」の集まりでしたら、鳴門ではこのような「方法」があります、私どもがすべて「準備」いたしますので、どうぞ鳴門にお越しください。
 私は、鳴門に出入りする人口(交流人口)が増えることを願い、鳴門市議会において「コンベンションビューロー」の設立を訴えた。

鳴門市の人口増加策
 私は鳴門市の人口増加策には大きく分けて2種類あると考えている。
 一つは安定した定住者の増加策、これには坪単価が安くて便利な周辺環境(学校、医療、買物など)を整えた宅地の提供が必要である。
 二つには、シーズンによって観光客として、またそれ以外の目的(研修会、大規模な会議などのコンベンション)で交流の形で流入してくる人たちの増加策、これには鳴門の資源(観光資源、宿泊施設、収容会場など)を知り尽くし、それらの資源を魅力的に組み合わせてパック(商品)として提供できる『何か』が必要である。
 その『何か』を生み出すのが「コンベンションビューロー」である。

本会議で質問・提案する
 私は、鳴門市議会の定例会の一般質問において「コンベンションビューロー」の開設を提案した。(平成9年・第3回定例会、平成10年・第4回定例会)
 定例会は年に4回開会されるが、毎回すべてに登壇して一般質問した。4年間で連続16回の質問に立った。その中で、特に2回も質問して強調したテーマは、この「コンベンションビューロー」だけであった。
 しかし、当時の理事者には、鳴門市に流入する人口の増加策などまったく念頭にないのか、手応えはなかった。
 そしてまた、税収入の増加政策を「創造する」という視点や「創造せねばならない」という危機感が感じられなかった。

コンベンションビューローの設立
 やっと平成12年度になって第三セクターの「株式会社鳴門コンベンションビューロー」が立ち上がり、市役所内の経済部横に事務所ができた。
 しかし、人集めのサービス業であること、株式会社であること、この基本がまったく徹底されていない。トントンとノックして事務所に入っても即座に「いらっしゃいませ」や「お世話になっています」など、営業としての応対意欲が伝わってこない。
 この「コンベンションビューロー」は、市政の基本的施策の中でも、交流人口の増加策として特に重要な施策の一つであるが、その認識が甘く、対応振りや中身はまだまだ未熟である。この様子から察すると、初めは大会運営補助、情報提供などの依頼はあっても、途中から「頼りないなあ、そんな程度なら、もうよろしい」ってことになるのではないか。
 初めに熱を入れて提案した者として、まことに残念でならない。

地方議会議員の第一の仕事
 地方議会(都・道・府・県・市・町・村の議会)議員の仕事とは、地方自治法に定められているとおり、議員一人ひとりで構成されている議会での「議会活動」が唯一の職務である(この点、国会議員と地方議会議員とは違う)。その中でも特に本会議において現在の行政の課題について質問することは、特に重要である。
 全国的に見ても1回も質問に登壇しない議員、選挙の改選前になったら質問に立つ議員など、議員の議会活動方法にも色々ある。私は議会人の当然の責務として、4年間に毎回の16回連続して質問に立った。
 多くの住民・有権者が誤解しているが、地方議会議員において「議員の個人活動」というのは、本来は存在しない。
 例えば、特に地元(選挙)対策的な活動として、道路を直して欲しい、側溝を整備して欲しいなどの地元の要望を議員が聞いて、役所の担当課に対して「何とかしておけ」と口添えするような行動は、存在しない。その程度のことは町内会・自治会の世話人さんが役所に苦言を呈して、対応させればいいことである。議員がしゃしゃり出て言わないと対応できないというのは役所職員の職務怠慢そのものである。
 全国の地方議会の議員について言われていることであるが、議員に行政全般にわたる「議員本来の仕事」をさせなければ、勿体ない限りである。住民のご用聞き程度のことに徹して「あの議員さんは町内のお世話をよくする」などの人気を得て、議員を続けさせるのは、歳費(議員の給料)の無駄である。住民(有権者)はもっと賢くなる必要がある。自分のまわりを良くしてくれる議員が良い議員、などと自分の身近なエゴを満足させることを基準にして、議員を評価してはならない。それでないと、予算書が解読できないとか、行政施策の課題について質問さえも出来ないような質の低い議員を選別できない。そのような議員がのさばるとしたら、ますます低級な地方議会になってしまう(視察先:宮崎県都城市・参照)

平成7年・鳴門市議会での質問項目
 ◎第2回定例会(平成7年6月15日)
   1.市長の政治姿勢について
      ・行政業務におけるボランティア精神について
      ・鳴門市のボランティア活動について
 ◎第3回定例会(平成7年9月27日)
   1.市長の政治姿勢について
      ・コミュニティーのまちづくりについて
      ・地域自治振興会と行政との関わりについて
   2.福祉行政について
      ・エンゼルプランと鳴門市の保育所事業について
      ・地域子育て支援センター事業、産休明け入所予約モデル事業について
 ◎第4回定例会(平成7年12月12日)
   1.福祉行政について
      ・本来の児童館のあり方について
   2.教育行政について
      ・養護教諭の複数配置について
      ・スクールカウンセラーと養護教諭との連携について

平成8年・鳴門市議会での質問項目

 ◎第1回定例会(平成8年3月8日)
   1.観光行政について
      ・観光PRビデオについて
   2.教育行政について
      ・小さな使節団派遣事業について
      ・小学校・中学校の施設開放について
 ◎第2回定例会(平成8年6月12日)・会派代表質問
   1.市長の政治姿勢(市政のコンセプト)について
      ・鳴門市立鳴門工業高等学校への合格陳情について
      ・鳴門市立鳴門工業高等学校の定員枠の協議について
   2.教育行政について
      ・鳴門市立鳴門工業高等学校活性化調査研究事業について
      ・生涯学習における公民館活動のあり方について
 ◎第3回定例会(平成8年10月1日)
   1.環境行政について
      ・水質汚濁防止対策について
      ・生活排水対策(合併処理浄化槽)について
   2.教育行政について
      ・小学校用コンピューター整備事業について
      ・教員のコンピューター研修制度について
 ◎第4回定例会(平成8年12月12日)
   1.市制施行50周年記念事業について
      ・塩業資料館の見直しについて
   2.環境行政について
      ・放置自転車対策について
      ・遊休地の有効利用について
   3.教育行政について
      ・いじめ、不登校対策(鳥居龍蔵博士の生き方)について
      ・小学校用コンピューター整備事業(機器の選定、ソフト)について

平成9年・鳴門市議会での質問項目
 ◎第1回定例会(平成9年3月6日)
   1.鳴門市長期プラネット21基本構想について
      ・基本構想の見直しの過程について
      ・市税の重点を高める具体的施策について
   2.観光行政について
      ・岡崎海岸環境整備事業(地元との協議)について
      ・岡崎海岸海水浴場について
   3.教育行政について
      ・鳴門市立鳴門工業高等学校の活性化調査研究事業について
      ・高等学校の定数問題について
 ◎第2回定例会(平成9年6月12日)
   1.市制50周年記念事業について
      ・行政主導型の記念事業の開催状況について
      ・今後開催される事業の概要と事業効果について
      ・民間との共催について
   2.教育行政について
      ・市立図書館について
      ・学校図書館について
      ・図書館司書について
 ◎第3回定例会(平成9年10月1日)・会派代表質問
   1.市長の政治姿勢について
      ・鳴門市長期プラネット21の基本構想について
      ・歳入に占める市税と競艇事業からの繰入金について
      ・コンベンションビューローの設立について
   2.行財政改革について
      ・行政コスト意識(事業別予算書)について
      ・財務会計システム開発事業について
   3.教育行政について
      ・中央教育審議会(中教審)の答申について
      ・中学校教育用コンピューター整備事業について
 ◎第4回定例会(平成9年12月11日)
   1.税務行政について
      ・前納報奨金制度の見直しについて

平成10年・鳴門市議会での質問項目
 ◎第1回定例会(平成10年3月5日)
   1、商工行政について
      ・小売商業の現況とその活性化について
 ◎第2回定例会(平成10年6月11日)
   1.神戸・鳴門ルート全線開通記念事業について
      ・事業の開催状況と今後の展開について
   2.教育行政について
      ・中央教育審議会(中教審)の中間報告について
      ・生涯学習体系の推進について
   3.文化行政について
      ・ドイツ館の資料について
      ・ディバラッケの整理方法と発刊方法について
      ・謄写版印刷物の観光資源活用化について
 ◎第3回定例会(平成10年9月18日)・会派代表質問
   1.市長の政治姿勢について
      ・経済環境委員長報告をもとに、地元住民への説明会について
      ・経済環境委員長報告をもとに、適正価格の土地購入について
      ・鳴門市の債務保証の解消時期について
   2.行政改革について
      ・鳴門市行政診断報告書について
      ・鳴門市行政改革懇談会の答申について
      ・鳴門市行政改革大綱について
   3.情報公開について
      ・行政上の情報について
      ・行政情報の所有者について
      ・市民の知る権利の保証について
 ◎第4回定例会(平成10年12月11日)
   1.観光行政について
      ・明石海峡大橋開通後の経済効果について
      ・コンベンションビューローについて
      ・交流をメインテーマとした鳴門のまちづくりについて

平成11年・鳴門市議会での質問項目
 ◎第1回定例会(平成11年3月2日)・会派代表質問
   1.市長の政治姿勢について
      ・行政改革大綱に見る鳴門市の課題について
   2.商工行政について
      ・中小企業振興特別融資基金条例について
      ・今後の商工活性化対策について
   3.教育行政について
      ・児童、生徒の問題行動の実態について
      ・問題行動の背景と解決への取り組みについて
      ・少子化による複式学級や休校への対策について

私のライフワークとしての「まちづくり」
 私の歩んできた道、その時々が『人生の岐路』であった。
 大学受験に浪人して、早稲田大学・法学部に入学、学園紛争の中で『政治』に関心を持ち、いつか鳴門に帰って政治家になろうと考えつつ、当分の間は大学に籍を置いておきたいと願っている矢先、父の病気で帰郷、信用金庫に就職、そこで硬式テニスやスキーを経験して多くの仲間と出会った。
 結婚して子どもに恵まれ、保育所の保護者会役員として「産後休暇明け保育」の陳情を行ったり、小学校・中学校のPTA役員となり「子ども会リーダー研修会」をきっかけに弁財天の「子どもの集い」を開催したり、地域子ども会の活性化こそが地域のまちづくりの原点となることを確信して「子どもの街をつくる会」や町内のまちおこしグループ「弁財天青年会」を結成、多くの子ども会行事と町内の春夏秋冬の行事を立ち上げてきた。
 少年補導協助員、弁財天の市杵島姫神社の氏子総代、町内会の役員などを務めながら、その経験のすべてを地域の「まちづくり」に投入してきた。すべての『出会い』に感謝を込めて 今ここで、改めて、これらの機会を与えてくれた『人生の岐路』に感謝したい。
 そして、それ以上に、その時々に私と『出会ってくれた人たち』に心からお礼を申し上げたい。
 その人たちとの『出会い』は、当然にすべて計算外の『出会い』であったし、突然の『出会い』であったが、すべてが良縁であった。
 その人たちがいればこそ、今の私がある。その人たちの存在こそが、私をここまで鍛えてくれた、支えてくれた。今の私になるまで導いてくれた。
 この地域で生きている私は、この地域に生かされている。この地域の人たちによって生かされている。
 これからも、この地域において、私に何ができるのか、私に何が求められているのか、私は何をしたいのか、私はどっしりと腰を据えて、じっくりと考えて、取り組んでいきたいと思っている。
 新たな「まちづくり」のために、また激しい情熱を燃やし続けていきたい。
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