土佐錦魚その1(土佐錦魚の歴史)

土佐金の生い立ちや歴史について、高知県教育委員会に申請されている書類をもとにまとめておきたいと考え始めてからもう5年になる。今までにも矢野城桜氏等が取り掛かっていたことは耳にはしていた。又小冊子等ではお目にかかったことはあるが、残念ながらそれ以上のものには接していない。ここではそれら発行物も含めながら、土佐金の生い立ちと歴史を書いてみたいと考えている。
 しかし、何とも時間がない。そんな中でも何とか時間を作り取り掛かる事とするが、その前に土佐錦魚とのお付き合いについて書かないと何故そんな心境になったか理解ができないだろうと思い、文頭に一文を載せる事とする。
 昭和42年7月、道楽が過ぎて熱帯魚店を開店した。当時は高知市に2店舗の熱帯魚屋さんが[鉄の枠]や[ステンレス枠]の60cm水槽を高価な値段を付けて販売していた。そんな32万人程の町に脱サラした私などが、なけなしの金をはたいて店を構えた訳である。勇気があったか、時流に合ったか、知恵がなかったかは知らないが、高知市では有名な、毎週日曜市が開かれる追手筋に面した場所にあった小さな店舗を借りて、「熱帯魚園」と看板まで自分で書いて無謀にも店としてしまった。あえてこの店舗名にしたのも訳がある。そもそも今の町はどこの国の商店街か、疑いたくなるほどアルファベットやかな文字に覆い尽くされている。車のボデーに書かれている店舗名を読んで何屋さんだろうと思った事は1度や2度でははない。もしも私が店を出したなら(何処かで聞いたような言葉だが・・)店舗名を読んだだけで何を売っているか、何の商売かが確実に分かるネームにしたいそんな夢を持っていたことは確かだ。
 そんな訳で「稼ぐに追いつく貧乏なし」などと言うカルタを取った世代で有ればこそ,朝5時に起きてステンの網を3メートルほどの竹棒の先につけたものとバケツを持って、泥と混じった糸目を取って分別し、販売した。当時は高知市内の「どぶ」には多い少ないの差はあっても何処にでも糸目はいた。(今は、こんなものまで東京都心の河川の物や大陸からの輸入に頼っている)
 開店してから2年程経った夏、この糸目(あかこ)を常に切らさず店で販売していたために,土佐錦魚を趣味で飼っておられた方々とのお付き合いが始まり、高知市の中心から言えば南へ10キロ余り離れた長浜の門田宅で初めて土佐金と呼ぶ金魚に出会った。
 仕事柄、熱帯魚の流線型や扁平な魚体が脳裏に焼きついている私には「これが優勝魚だ」と指差されても、赤い金魚そして尻尾が広い金魚、泳ぎにくそうな金魚、それ以外は頭に残っていなかった。
 その時「こんな汚い水に入れておかず、丸フィルターをつけてあげたら如何か」と真心からお勧めしたことを思い起こす。門田さんは今はお亡くなりになってしまったが、私の真心からのお勧めを、何と言って断られたか今となっては思い出すこともできない。多分[要らぬお世話』とも言えず、門田さんは狼狽せられただろうと、今更、気の毒に思えるが、それこそ、今となってはどうする事もできない。
 次に土佐錦と出会ったのは又1年程経った夏のこと、高知城から西北に1キロ位か、距離のある新屋敷の近森実宅の事である。屋根の上に作った棚に数十の丸鉢が乗っており、歩くたびにぎしぎしと音がした。如何なる用事があってお伺いしたか、少々頭を傾けたぐらいでは思い出せないが、どうぞと声を掛けられて恐る恐るはしごを上がると、近森氏は汗を滴らせながら水換えをしておられた。鼻に掛けたメガネを右腕で直しながら,無数と思われる稚魚を一匹一匹選別してもおられた。
 古い麦わら帽子が今でも目に残っているようだ。この時点ではまだ私の土佐金への思いは、認識は,道楽をそんなにしてまで何故?の域を脱していなかった。
 三度目に会ったのは東雲町の野中進宅であった。コンクリートの角鉢に巨大な魚体を、「くねらせて」と呼ぶほうがぴったりするような泳ぎ方で、餌を求めている姿に呆然とさせられたことを記憶している。 
 さすがに数十年かけて土佐金の飼育に情熱を燃やしつづけておられる方々の努力とそして苦労、持続、守ることへの執念を目の当たりにした感を受けた。そのようにして土佐金への見方も考え方も変化してきた、その年の夏、大阪の取引先から依頼があり、何方に分けて貰ったかトンと忘れてしまったが,土佐金の稚魚を数十匹送ったことが有った。
 現在のように陸送が進んでいなかったために,当時、日章空港と呼ばれていた現在の高知竜馬空港から,伊丹空港着でその土佐金を送った。納品書を見た取引先の社長から「あんな色も変わっていない金魚は商品とは言わない。一匹10円にも買えないから其のつもりでいてくれ」との電話に「色代わりは遅いのだ、我が高知県の天然記念物なんだ。大量生産などできない土佐の特別の金魚なんだ」とまくし立てた後でしみじみと土佐金の特異性に気が付いたことを思い出す。
 其の年から土佐金に取り付かれたように飼い始めた。たかが金魚。熱帯魚店を経営しているために、世界から集めた魚類を飼っているプロだ、等という慢心が、たかが土佐金から手痛い仕打ちを受けようとは思ってもみなかった。当時は、高知でも有名な追手筋、別名、日曜市通りに店舗を借りていたために、丸鉢等の置き場は全くなく、ガラス水槽で土佐金を飼い始めた。
 セットして2〜3日は調子よく飼えたが4日目頃から土佐金の稚魚たちは一斉に餌を食ってくれない、魚体は黒ずんで水面に浮いてくる。そしてやせ細り、目は頭蓋骨の中に隠れてしまい、一匹また一匹と死んでゆき、ついには祈るような気持ちで回復を待っていた最後の一匹まで死亡した。何度かこれを繰り返すうちに鰓を剥ぐって観察した。そして確実に鰓病であることは認識させられた。エルバージュやホルマリンあらゆる薬品を振り掛けてみたが結果は同じで有った。ろ過も実験した。オーバーフロー方式はもちろんの事、無菌水を作る中空糸フィルターまで試して見たが思わしい結果は全て出なかった。
 土佐金保存会の方々から稚魚を時々分けて頂く時「丸鉢にしてみては」とか「貯め水はしよるかよ」とか「十万円殺したら上手に飼えだす」などと、耳の痛い言葉を聞きながら、「フン」と鼻で空気を噴出して「飼えない筈はないんだよ」と自分に言い聞かすのだが、何度挑戦しても土佐金は生き続けて呉れないのである。
 諦めようかと思いもしたが世界の魚類で飼育が難しいものは「卵生めだか」だと思い込んでいた私はプライドが許さず、来年こそはと心に秘めていた。そんな年の暮れ、お客さんの熱帯魚が病気に罹った原因を探りにPH計や薬品を持ってのサービスの帰り、汐江の四国電力に勤めておられた中野さんのお宅へ寄り、土佐金談義を聞きながらPH計を鉢の水に入れてみた、私は信じられない数値にとんでもない声を上げてしまった。
 何とPHが8.4を示している。これは我が家の海水魚のPHより高く、海のPHと同数値となってしまう。私は考えた。苔だ、鉢に付着している苔が土佐金を生かせているのだ。様ざまなろ過器は硝酸バクテリヤにより水は酸性になる、土佐金は違う、アルカリを好むのだ。目の前が明るくなったような衝撃を私は受けた事を今でも鮮烈に覚えている。大袈裟だとは思うが、お釈迦様が悟りを開いた其の瞬間もかく在りなんと思えたりしたことも恥ずかし乍事実であった。
 その場に居合わせた中野氏に、(実は逆だが)土佐金は飼育環境のPHが他の鑑賞魚類と全く違う、すごい環境の中で生きているのだ。この環境を維持できるのは、光と餌と水換えのバランスが用件だと思う。等と感動をぶちまけると、『当たり前のことをしよるよ』と不思議そうに私の顔をしげしげと見つめられて少々恥ずかしかった事を思い起こす。
 ここまでHPに載せて以下次号としたら、パソコンが急病になり、入院してしまった。一ヶ月程そのままでメールも読まず、否、読めず放置していたら、沢山のメールやご注文を頂いており、誤解があっては申し訳ないので少し本文より離れてPH談義を継続させて頂く。
 確かに鉢の中に繁殖する苔は土佐金の出す汚物や炭酸ガスを吸収して成長し、PHを上昇させるが、PHが上がれば上がるほど土佐金は餌食いが悪くなる。経験されている方はご存知のように、当歳魚は環境に順応性が強く、長期間水換えをしなくても持っが、二歳以降はPH等の飼育範囲が狭くなり、水換えをすれば必ず餌食いが良くなるのはテストの結果、飼育水の硬度には全く関係がなく、殆どPHと濁度に原因が有るようだ。簡単に言ってしまえば日本全国水道水は殆どPH7.2と確実に弱アルカリ性で土佐金の最も好む環境は全国どこでも整っている。
 そして土佐金に必須項目を挙げるとすれば、貯め水・光・ある程度の苔・そして給餌、水換えのリズム等だろう。土佐金は飼育者の愛情と個性で様ざまな形に作り上げていく芸術品と呼べるのではないだろうか。
 まことに申し訳なく思いつつ、ここに一文を引用させて頂く事とする。それは、土佐金の映像に出会って、その優美さに感動され、是非このクラスの土佐金を手に入れたいと言うメールを度々頂くために、この高知県(土佐)が天然記念物として指定した地域の中に住んでいる私等の意見より、この魚を高知県以外の場所で飼育されている方々の苦労や、注意点等に一度目を通された方が、より土佐金の飼育に入り易いのではないかと思えるためである。
 例えば、親魚5歳物の優勝魚の映像をメールに載せて送って下さり「当歳物でこの程度の土佐金の値段を教えて下さい」と言われても答えようがなく、当歳、2歳、親魚等と映像をお返しして、反転が胸鰭の所まで来るには3年から5年はかかる事をご理解願っている。その一文とは「東京土佐錦魚保存会会報」の平成7年9月号の25ページに「初めて土佐錦魚を手にする人に」と題した飼育のコツとも呼ぶべきものである。お許しいただいて転載させて頂く。
 その文献は「土佐錦魚その2」に転載しました。リンクしていますのでお読みください。 
 随分長い文を引用させて頂いたが高知の「いごっそう」が作り上げた物に、闘犬の「土佐犬」が有る。又尻尾の長さが10メートルもある「長尾鶏」がある。又声を永く引く『東天紅』と呼ぶ鶏もいる。そしてこの土佐錦がある。この文にも有るように飼育家一人一人、考えや飼育の方法が夫々違うために、一律な飼い方では生かせない場合がある。東京の保存会の皆さんのご苦労は並大抵のものではなかったに違いないが、この引用のような努力の結果、土佐でしか生きられないと考えられていた土佐錦を良くぞ飼いならして下さったと感謝もするものです。
 ただ、高知の水は現在、殆ど水道水に変わり、四万十川の水質より良いと言われる仁淀川からの取水等で地下水の土佐錦への利用は殆ど無く、従って山際、海辺の水質の違いは全く無い事を付け加えておきます。
 是非この文を参考に、どの地域でも、どの方面でも土佐錦の飼育、繁殖、鑑賞をされる事を切望して引用させて頂きました
さて本文に戻り、土佐錦魚の生い立ちを続けさせて頂く、決して我が立場を自慢したり、選挙運動をこのHPでするために書くのではないが、実は熱帯魚屋の親父にも大きな人生の転機が訪れてきた。それは高知市の市会議員に当選させて頂いた事である。平成7年の4月に当選し、早速6月の第一回の質問で、高知県が天然記念物に指定した土佐金が細々と愛好家によってその命脈を保っておられるのは「いごっそう」の心意気を持った土佐人がおればこそだ、打算や損得でこの小さな命を保存し続けることが出来るものではない「飼育の中心地であるこの高知市は大金をとは言わないが、この天然記念物の飼育者拡大のために補助金を考えるべきではないか、又普及拡大のためにトロフィーや賞状を用意すべきである」と主張したが、補助金はその飼育者が不特定多数であるし、普及拡大の判断が人それぞれに一律でないために認められない。そして土佐錦魚の天然記念物指定は県がしたものであり、その飼育範囲も高知県下全体が対象とされるべきであるために高知市としては補助金は認められないとの答弁をされて、納得せざるを得なかったがトロフィーや賞状は県、市ともに用意して呉れて今も尚授与し続けられている。
 賞状について言えば、高知市に複数の土佐金の会が有るので授与できない、「一つにまとまって呉れれば直ぐにでも対応します」等と行政らしい訳の分からないことを言っていたが、三度ほど話し合ううちに、それでは、土佐金に係わる団体が今存在する数だけ用意するがそれに異存がなければ対応します。等と異存があるはずもない条件を示されて、宜しくお願いしますとは言ったものの「もしも、いずれかの団体に正統と、そして、そうでないものが有ったとしたら」という疑問が生じてきた。と言うのも愛好家の一人が「我が所属の会こそが正統なものであり、他の組織は土佐金を天然記念物に申請した団体ではない」旨の論旨でまくし立てられた事が私の頭から離れなかったせいもあった。そこで土佐金が天然記念物に指定された経緯について知る必要が出てきた訳であった。
 このページの冒頭にも載せた通り、高知県の教育委員会にその申請書は、古いファイルの中の一枚として保存されている。
 天然記念物指定申請の土佐金の記述は、昭和40年に高知市追手筋12の柳原範夫氏の申請から始まる。
 その申請書には「天然記念物」との題名のみで申請書の文字はない。2行目が「名称」と上部に書かれ、その下に{土佐金魚}の4文字があり、意外にも、「土佐錦魚」と書く「錦」の文字を入れて申請されてはいない。そして3行目上部に「所在地」として上記の
 {高知市追手筋12 土佐金魚会 柳原範夫}と万年筆で書き込まれて居る。
 次に「由来」として、{藩政の頃、藩士菅某が大阪ランチュウとリュウ金の交配により、新型の金魚飼育に成功、土佐金魚と名付け飼育してきたが、昭和20年空襲時壊滅的打撃を受け、滅亡寸前の状態になっていたものを田村広衛氏によって続けられた}と書かれており、この横13cm、縦25cm程の縦書きの申請書の最後には「指定を必要とする理由」として、{尾鰭に独特の特徴をもち姿態優美である。土佐金魚と地名を冠したものも全国的に少なく、全国に誇りうるが、年々減少しているので愛護(保護と訂正されている)を加えたい}このような一枚の申請書と呼ぶべきものが、高知県教育委員会の統括の中にある文化財保護課宛に、提出されている。
しかしこの申請書に対する許可書とか、指定通知書とかの書面や印は文化財保護課の書類の中には全く見当たらなかった。
 愛護の愛の文字を一本の斜線で消して左側に「保」と書き足し、保護と直している文字は、現在では筆ペンで修正していると言いたくなるような肉太の墨の文字でされている。同じ筆記用具で、高知市追手筋12 土佐金魚会 柳原範夫 と書かれた一行にも縦に一本の線を引き消してあり、その下に{高知県全域}と同じく、太い文字で書き足してある。
 普通、申請書等には年月日や申請者の住所氏名を最後に書き、氏名の下に捺印されているものであるが、全くそれはない。これが最初で最後の土佐金魚を天然記念物に指定してくれるよう、その指定機関に提出した書類である。
 ここで柳原範夫氏と出てくる人物に付いて説明しておく必要がある。上記の申請より2年程経って、県指定の申請用紙を使い、高知市東雲町の野中進氏(故人)が申請人となって高知県保護有形文化財の指定を申し出ている書類の中に、後に記すが近森実氏の名前が出てくる。実は彼の従兄弟に高知県教育委員会勤務の方がおられ、その職員を通じて天然記念物指定の働きかけが始まったものである。
 この近森氏は追手筋(度々出てくる追手筋とは高知城の玄関、追手門から東へ1Kmほどの区間で、別名日曜市通り)の追手前高校から県道16号線を挟んですぐ東に柳原病院という大きな病院があったが、その病院の事務長をされていた。その病院の院長が柳原範夫氏という訳である。
 当時は院長も病院の屋上を使い相当大掛かりな土佐金の飼育をされていたようであるが、この申請に氏名を載せた10年ほど後に故人となっている。
 真に申し訳ないが本人には勿論のこと、ご家族にも無断でお名前や病院名を乗せさせていただく事をお許しいただきたい。
 柳原病院は現在、その場所にはなく、その土地には他の病院(周囲の様子が変わったので多分服部内科だと思う)のビルが建っている
 次の申請書、というよりも、正式な「申請書」と書かれた書類で関係機関に提出された物はこれが初めてでは有るが、まあ、良いとして次の申請書はとしておこう。それは昭和42年8月に提出されている。
 この申請書は手書き(ガリ版刷)では有るが、様式に沿って書き込んでゆく形式で、B4の用紙を横に使い、左から右へ下記のような項目が印刷されている。
     高知県保護有形文化財指定申請書
   下記の物件を高知県保護有形文化財に指定されたく申請します
               昭和    年    月    日、
                     住所
                     氏名             印
   高知県教育委員会殿
                     記
、  (1) 種別、名称、員数
   (2) 所在地、所有者等
   (3) 形状
   そして、B4の右半分に移る。
   (4) 由来、年代等
   (5) 指定を必要とする理由
   (6) その他の参考
      (添付物、写真、所有者承諾書)
   関係市町村教育委員会経由意見書を必要とします。
 このような様式に万年筆と思われる筆跡で書き込まれている。申請日は昭和42年8月で、日は記入されていない。申請者は前述した通り、高知市東雲町1の5 土佐金魚会 野中進と署名され、24ミリ角の角判には「土佐金魚之印」と彫りこまれたものと、やっと読める程度の朱肉の濃さである。
   (1)種別、名称には「土佐金魚」と書き込んである。
 ここで、不思議なのは、高知市に現存する土佐金魚の会で、どちらもこの名称を使っていない事である。一つは「土佐錦魚保存会」であり、もう一つは『土佐錦魚愛好会』である。尤も平成の12年から『日本土佐錦魚保存協会」と会の名称が変わってはいるが、いずれにしても『土佐錦魚』の呼称を使っている。
 かつて、高知市の教育委員会から『一つに纏まれば表彰状が出せますが、二つの会があれば出せません」と言われた時、どちらかが『土佐金魚」の名前を使い、その下に会をくっ付けていたとすれば、その会に統一の依頼をされていたのかも知れない。
 そこが行政の頭の固いところである。多分トロフィーや表彰状作成の経費の煩わしさを省く為の手段だろうとは思えたが、殆どの『人間が造った組織」は何らかの考え方や進み方の違いから、分裂を繰り返し、逆にある時点から合併に向かう、むしろその方が人をひきつける魅力ははるかに強くなり、桜梅桃梨に長の資質のままに発展をする物であるから、二つあっても良いのではないか、と役所の言う統一に反論を試みた事を思い出す。
 「土佐錦魚」この「金」と『錦」の文字のスタートが何処かにある。そんな気がして県の職員を2時間余り釘付けにして探してもらったが、この2枚の申請書より外には一切存在しなっかった。
 何故、どの時点から、どのような経緯で土佐金魚を土佐錦魚と書くようになったか、今後の研究課題はまだ残っている。
    (2)所在地、所有者等の項目には
    高知市東雲町1の5   野中 進
    高知市新屋敷68     近森 実 住居表示が変わり現在は新屋敷2丁目4−40
 多分、申請者、もしくは代表者の意であると思われる。当時の飼育者のリストはないので分からないが、42年と言えば私も高知にしゃしゃり出て店を始めた年であり餌を求めて来てくださる愛好家の方々の名前を思い出しても5人や10人ではない事は確かであるから、所在地、所有者と呼ぶべきではなく申請者と言うべきだろう。
 野中進氏は現在もご壮健であられるが(平成11年故人となられた)如何せんご高齢で土佐金の飼育には携わっていないようである。高知市の中心よりやや東によった東雲町の道路の東側で鉄工所を経営されていたが、今は御子息の純男氏が鉄工所も土佐金の飼育や繁殖も受け継がれて、度々テレビで放映されたりもしている。又特筆すべきは『土佐錦魚愛好会』(現在、日本土佐錦魚保存協会)の副理事長の立場には有るが実際には会の運営や品評会、土佐金の飼育の相談、会の資金繰りまで敏腕を振るわれているようである。そして、近森実氏もご壮健(平成9年故人となられた)であられ、新屋敷のお宅で奥様とお二人で生活なさって居られる様である。
    (3)形状には
    肢体優美にして口元小さく愛嬌がありその尻尾は大きく反転して先端は体の半ばをこえ、優雅に泳ぐを見るにまるで牡丹の花の今を盛りと咲き匂う姿にも似ている。
 と称えて記載されてあるが、肢体とは手足や体の事であるから、もしかすると姿態と書くべきところだったのかもしれない。しかし肢体優美と称えれば、奥ゆかしい美しさを含んだ体や鰭(尾鰭、胸鰭、背鰭、尾鰭)を体から別れた部分と捕らえ、肢と表現しているのかも知れない。
    (4)由来、年代等の項目には
 300文字以上の説明書きがされており、B4の右半分の上部に位置しているために用紙の欄外、上一杯から書き始め
(5)の頭まで書かれているのでその全てを書き写す事とする。
 土佐金魚は大阪卵虫と流金とを交配してできたものの中より、その後の改良によって固定完成させた物で、これは元、南与力町山内家家臣須賀亀太郎(故人)氏のなしたものである。 現在、須賀家に残存している金魚の絵図は弘化2年よりのもので須賀家の先代がこの魚を固定しようと相当の苦心した事が伺われるも亀太郎氏に至りようやく完成したものである。
 その頃の(弘化2年頃)魚は固定した当時より遥かに体が長く現在魚のような優美さは見られない。固定当時の魚色は黄金と黒色の2種類に過ぎなかったが、現在は黄金、黒、濃い赤、赤白、白色である。しかしこの魚も南海地震で絶滅状態となっていたが、僅かにつがいの金魚を南与力町田村広衛氏(現存)が死滅より守り現在の繁殖のもとを作ったのである。
と書かれており、簡単に土佐金の生い立ちと、交配の歴史、魚形や色までも記入されている。
 最初に紹介した申請書には菅(すが)某と書かれていた人名がここでは弘化2年まで明白となり、須賀亀太郎と姓名が明確となっている。あえて記して置くなら弘化2年とは今年(平成9年)からさかのぼる事152年前になる。
 この1世紀半の間の様々な出来事に土佐金は遭っている。始めの申請書には戦争を、そしてこの申請書には南海地震を絶滅の出来事として記してある。
 何故、戦争と地震で申請を分けなければならなかったのか推量するしか道はないが初め(昭和40年)の申請書は近森氏が書き、この(昭和42年)の申請書は野中氏が書いたのかもしれない。
 いずれにしても高知大空襲は昭和20年の7月4日の事であり、南海大地震は昭和21年12月21日の事である。その間約1年半、高知市のはりまや橋より約500m東に位置する城見町から本町5丁目間は一面の焼け野が原で、目をさえぎる物は殆ど無かったと言う。
 焼夷弾による大空襲、爆撃は7月4日の未明から始まって、高知市を瞬時のうちに火の海に包み込み、そして見事な晴天だったらしく、昇る朝の太陽は血の塊のように真っ赤だったという。
 5歳を過ぎていた私も、四国の殆ど中心にある池川町の山の上から母たちが指差し話している「どうも高知が焼けよる』という言葉と、南東の山の峰が赤く薄明るくなっていた記憶は今も残っている。多分、4日未明、空襲警報によって叩き起こされ、直ぐ家の南に、祖父や母、兄が作っていた防空壕に向かう時、目に焼きついたものと思われる。
 その大空襲の18ヵ月後に、1330人が死亡する大地震が発生している。高知市で全壊家屋が1689戸、地震は真冬に発生する。阪神大地震もそうであったように、海水面が低下する冬期に起こるという。昭和21年12月21日午前4時15分、小さな揺れで始まり、だんだん揺れが大きくのろくなって行き、暫くそれが続き、急にドスンと来た時、何かわからないが、稲光のような閃光が走って、家がメリメリと音を立てて崩れてきた。南海大地震の思い出を語る人は決まってこのように表現する。そして漏斗のような形をした土佐湾の中央に位置する高知市には、浦戸湾の入り口に位置する、種崎海水浴場の後に防風林となっている松原の最上段の枝に、沢山のボロ布が引っかかっていたと当時の津波の凄さを説明する被害者も数多くいる。南海トラフの断層による地震やその津波は記録に残っているだけでも8回に登る。又、高知市内で倒壊した鉄筋コンクリートのビルが2棟(中央ビル、文化ビル)あったようで、その中の一つ文化ビルで遭難した熊倉氏は読売新聞社に勤めていたが「南海大震災誌」を発刊し地震の詳細な模様を伝えているが、戸外に出ることも出来ないような激しい左右の揺れが有ったようで「コンクリートの破片が顔一面にぶっかり視界はもうもうたる粉塵で真っ暗になった。それでも私の右手はかすかに長女の布団にふれた。と思った瞬間、私の体はコンクリートの床もろとも奈落の底に引かれていくように墜落していた。仰のけに投げ出された私の頭上遥かに廃墟の如くビルの残骸がそそり立っていた。窓は黒暗々としていた。私はそのまま意識を失ってしまった」とその瞬間を記している。氏は左腕を失い、脊椎骨折、婦人も脊椎を損傷、長女は2日後に掘り出されたが死亡していた。
 長々と二つの災害を引用したが、土佐金はこのような人間の命さえも危険な中、空襲の戦火の時は防空壕の中の丸鉢の中で、僅か2匹にまで減少している。幸いにして『つがい』が残った為に土佐金の命の糸は途切れずに現在を迎えている。又、震災にあったときも、それだけの揺れのなかで多分丸鉢の溜め水もほとんど無くなっていた事で有ろうに土佐金はその命脈を保ったのである。
 その功労者は北与力町の田村広衛氏となっている。この申請書には(現存)となっているが平成9年には故人となられている。
 今後も様々に土佐金に関わった方々の思い出や苦労、又夫々が実践している様々な飼い方まで纏めて置きたいと考えているが、短い時間の中で取材をしながらの記録となるだろう。早くも本文中に登場している近森実氏は平成9年8月に亡くなられたと聞く。時の経過と時代の変遷は誰も止めることは出来ないが、歴史と思い出、そして経験を一杯詰めた人生と呼ぶ記憶が一つ又一つと消えていく事が残念でならない。
 この記録を、取材しながら書き続けてゆくことは無理かもしれないと思ったりもする。その理由は野中進氏は高知医大に入院され、その後子息、純男氏を支えて土佐金の繁殖普及に尽力されていた澄夫氏の奥さんが脳卒中で倒れられ、完全に半身不随になってしまわれた。こんな事まで書いて良いのかどうかさえも心配しながら打っている。
 事業の鉄工所も奥さんの助けが無ければ大変な事であろうと推察する。事実は土佐金飼育の仲間から、どうも奥さんは近頃鉄工所に出ていない、もしかすると何処かが悪く入院されていて、家にはいないのではないか、ご主人の純男さんは何も言われないがそうとしか考えられない。との噂を耳にして大変戸惑った。それには訳がある。
 それは私の母が関係しているからである。平成10年1月13日高知市の表玄関高知駅より1Km,金田町で我が熱帯魚園の支店を経営してくれていた母が蜘蛛膜下出血で倒れてしまった。元々この店は準工業地帯に建っており、そこは都市整備、区画整理に指定され、まだその上に高知インターへのアクセス道路の開通にかかり、いち早く換地を言い渡され、家ごと平成7年7月に取り壊して、早くも3年になるが未だ換地先も決まっていない。兎に角、母は店と共に追い出され、そして小さな大川筋の我が家に移転せざるを得なくなった。そしてそこで2年半生活をしてくれた。毎朝仕事に向かう時必ず確認に顔を出してはいたが1月13日、その朝、口からあぶくを出している母、呼吸は吸うだけしかしていない母を見つけ、救急車で日赤病院に搬送、入院、手術という事になった。
 その日まで母がお世話になった方々に少なくとも母の現状をご報告する事が、ただ一人の息子としての努めであり、また母への義務でもあるだろうと考えた。お知らせしてお見舞いの心配等をされたらどのようにしょうかとそれも考えたが、丁寧に目的を書き、ただお世話になっていた母の現状を報告しようと思い、ワープロで打った。
 母が作っていた住所録を頼りに50通程投函した。電話での問い合わせはあったが、もう一度お知らせするので余り気にしないで欲しい等と書いたため却って受け取った方々のご配慮の事を心配もしたが、大したご迷惑もかけずお知らせだけはできた。
 妻は店を経営し、私は役所に市民相談対応に、そんな慌しい朝晩に日赤通いが加わった。
 そんな時、野中純男さんが『お母さんが具合が悪いとの事、その後どうですか』と来てくださった。申し訳ない限りである。どの様な事があろうとも笑顔を絶やさない人である。そして土佐金の世話は全く手を抜いていない。このような土佐の「いごっそう」が居たからこそ守り抜かれて今日まで、命脈を保ってきたのが土佐錦魚であると今更のようにいとおしく思うのである。
 ここまで読んでくだっさった訪問者が、どの位いるか疑問では有るが続けると書いた以上続けるしか有るまい。
 文頭にも書いたように土佐金の歴史に思いを馳せた方に矢野さんがおられる。この方は土佐錦魚保存会の第2代会長で高知高専の講師をされており、文も絵もともに達者な方であったらしく度々高知新聞(高知県のローカル紙)の要請に応じて原稿用紙10枚ほどの歴史や所感等を書き残されているが残念ながら今は故人となられている。その中の1文を転載させて頂く事とするがこの文は昭和59年6月6日(水)掲載のもので矢野城桜(きろう)氏の写真と共に矢野氏の描かれた土佐錦の絵も画像として取り込ませて頂いた。(画像が所定の場所に止まって呉れず悩んだ末最後尾に移動しました)

     題名須賀家文書とトサキン
先日、須賀家文書「土佐錦魚元祖」の実物大コピーが届けられた。これは弘化2年(1845)ー嘉永4年(1851)の須賀家での金魚飼育の記録を図示したものであった。
 高知城下の”化政文化”の中に円行寺のサツキとともにトサキンが位置付けられるものではないかと考え、昭和49年に地方史研究の資料探索中に、初代土佐錦魚保存会長野中進氏の協力を得て見出したものだ。拙著「土佐錦魚の四季」の中には一部収録済みのもので、当時高知市潮江新町1丁目の須賀カネ子さんが所蔵されていたと記憶している。
 トサキンはオナガドリや土佐闘犬と並んで土佐を代表するものの一つで、高知県天然記念物に指定されているが、環境の急変には対応しにくいため、手軽に持ち回って人に見せられるものでなく、又、その飼育に熟練を必要とすることから、なかなか普及が困難な美しい名魚とされてきた。しかし、保存会員の増加と努力により、最近は3年程度で子魚を取る人もあり、ひところに比べると、少しの注意で飼いこなせる人が多くなったように思われる。
 若葉の薫りに包まれながら、成長した親魚はもちろん、もう2センチを超す稚魚が遊泳しているのを眺めるのは、俗じんを忘れるひとときであるが、優秀魚をつくるために行うかわいい幼魚の選別も、忙中の閑というか、また楽しいものである。
 それにしても、現在飼育されているトサキンと、須賀家文書にえがかれた金魚とは全くちがっているのに驚かされる。
 戦前、絶滅寸前の危機にあったトサキンを復興、普及させ、先年亡くなった田村広衛項翁は、この絵を見て「これは名古屋地金のようだ」と言ったほどで、その言葉からしても、品種固定への困難な努力が、幕末の城下、南与力町の一隅でいかに長い間、行われていたのかを推測できよう。人によっては「非生産的な遊び」と笑うかもしれないが、須賀家文書には、それぞれの年の魚につけた『緋袴(ひばかま)・花野(はなの)・若葉(わかば)・唐錦(からにしき)・布引(ぬのびき)・関(せき)の戸(と)」など、多くの文学的な美称とともに、この名魚を生んだ人の心の美しさがにじんでいる。
 いつか、畏(い)友、高知女子大の谷岡久氏から『無価値の価値」という言葉を聞いたことがある。それは俗世間的な富や栄誉のみを求めがちな心の動きとはちがって、そのようなものに直結しない価値をひたすら追及してゆこうとする心構えを強調したものであろうが、このような価値を生み出してゆく努力は尊いものである。
 先祖代々が続けてきたトサキンの品種固定を明治になって完成させた須賀亀太郎翁は、昭和12年5月21日、八十二歳で死去しているが、5月21日はトサキン愛好者にとっては、亀太郎忌として記念すべき日であり、飼育者各自がその心を心として、この名魚の保存に取り組んでいかなければならないと思う。トサキンが高く売れるかどうかはまた別の問題である。
 以上が昭和59年6月6日付け高知新聞の内容である。ここに出てくる須賀家文書なるものを、また矢野城桜氏の著書『土佐錦魚の四季』を捜し求めてやっと見つける事ができた。『土佐錦魚の四季』の中に須賀家文書の写真も掲載されているので後日このページで紹介する事となるので乞うご期待である。
 さて、拙い文章で書き連ねてあると、気になる活字に出会うたび、それを挿入してしまう。お許し頂き、ここからは矢野城桜氏の「土佐錦魚の歴史」(昭和49年学芸高校研究報告大15号より転載)を載せさせて頂く事とする。
  まえがき  
 トサキンの歴史を探る時、特筆しなければならない3人の人がいる。一人は、その品種固定を成し遂げた須賀亀太郎。次は、南海大地震後それを絶滅の危機から救い、今でも品評会で審査員の主役を務め、トサキンとは切っても切れない人、田村広衛氏。第3には昭和44年8月8日、トサキンを天然記念物に指定させることに尽力し、現在、土佐金魚保存会の中心的世話役となっている野中進氏である。
 大和郡山の金魚は、江戸時代に参勤交代の際、江戸より持ち帰られたものがもととなって、今日の活況を見るに至ったと言われているが、土佐でもほぼ同じような事が一般に考えられている。
  品種固定の浅い金魚  
 トサキンは、その形態が美しく、形は琉金に似ているが、口は細く、特にその尾鰭が連続して水平になり、琉金のように中央と左右が分裂したり下に垂れたりしない。そして、静止した時、左右に直線に張った尾鰭の前べりに向かって後からかぶさるように丸く下にカーブする優雅な姿は、まさに金魚族の女王と言ってよい。だがこの金魚には随分と不完全なものが生まれるので品評会で優勝、一等となるのは孵化した稚魚の内で千に一つと思ってよい。俗に言うハネキン多い事は他に例のないことで、採卵には良い形の親魚を選ぶに越したことはなく、それ自体、品種固定の浅い金魚と言えよう。
 特に問題となるは尾鰭であって、尾さきの極度に切れこんだサクラも、中央の筋に沿ってツマミ上がったのも、幅が狭いのも、前後極度に短いのも駄目で、成長して俗に言う「横綱張り」と言う尾鰭になるのは、子魚のとき、如何にも品のある「ユトリ」を持つものでなければならない。しかし、その後の飼育過程がまた問題であって、そのまま順調に行けばよいが、いつの間にか片方へツリ上がったりするので困りものである。かと言って、遅くなって意外と良い形に変化するものもあり、そこにまた飼育の楽しみも多い。
  高知の土佐金魚保存会と東京のトサキン保存普及会
 この金魚をこよなく愛し育てる者の集いとして、高知では、昭和47年に結成された土佐金魚保存会が中心となって、毎年夏より秋にかけて品評会を行いその飼育を奨励しているが、昭和49年現在、この会へ加入している人は次の通りで、その数は僅かであり、高知市居住者が圧倒的に多い。
 吉田真敏  吾川郡伊野町是友       岡部忠孝  高知市愛宕町1丁目6−2
 吉田邦夫  高松市古馬場町9−1     笹岡幸喜  高知市介良1,200
 刈谷稲美  高知市筆山町10−11     前田竹行  高知市長浜門前
 下村秀男  高知市中秦泉寺138      宮地敬次郎 高知市帯屋町2丁目公設内
 吉田敏雄  高知市北高見町64−4    中野佐平  高知市百石町4丁目20−12
 安岡光夫  高知市弥生町4         池上 伸   高知市長浜梶ヶ浦
 中西昭二  高知市宝永町          間城秀夫  高知市長浜モズカタ
 矢野城桜  高知市高須504−17     影山忠一  高知市西久万186−15
 沢村修一  高知市城北町19        野中 進   高知市東雲町1−5
 田村広衛  高知市南与力町         近森  実  高知市西新屋敷68
 竹田  茂  高知市長浜西塩谷614    門田真澄  高知市長浜悶前90−3
(会長門田真澄・副会長野中進・近森実・審査委員田村広衛・沢村修一・会計升田茂)
 このように高知市内居住者が多いのは、金魚の餌となるミジンコやアカコ(糸ミミズ)が昔から高知市中のドブ池や溝に多かった事に原因するものであろうが、熱帯魚飼育の普及に伴って人工餌が多量に出回り始めた現在では、この飼育圏にも変化が予想される。事実、生活態様の変化と共に、洗剤その他の公害物質がふんだんに放出されるようになって、高知市内ではアカコがほとんど姿を消し、飛行機によって大阪から空輸されるものを待たねばならなくなって、金魚も自然食品より隔離されたと言ってよい現在、やむを得ず人工餌への切り替えを余儀なくされている状態ではむしろ全県下共通の条件に置かれたと言ってよいからである。只、子魚の時は、どうしてもアカゴを与えなければ、魚体にふくらみが付かないというのは、多くの飼育者の意見で、そこになお問題は残されている。
 果てしなく青い空と、強烈な日光に恵まれた土佐を出られないかのように、このトサキンは低温と日陰には弱く、自然とその全国的普及は困難視されてきたが、電熱その他の保温技術の進歩した現在では、色々と飼育が研究されていると見えて、その優美な姿をわが手にしようとして、東京にもトサキン普及保存会が結成されている。10月も半ばになると、高知でも昼夜の温度差が大きいため、夜はビニール障子をかけないと、日照度の少ないところでは水を澄まさずに置いた場合、魚体に白いネバリのかかることがある。なるべく荒い水・低温・少ない日光にも耐えられるように飼育の研究が行われなければ、単に姿態の美しさだけを研究しても、その普及には壁がある。トサキンの良い魚は、勿論、高知にはいる事は間違いないし、その誇りは持ってよいが、その技術を門外不出とし、徒に狭量になっては、新しい時代のトサキン飼育家の名に恥じることになりはしないか。この意味で東京のトサキン普及保存会の盛んになることを耳にするのは誠に喜ばしい事である。この会の役員その他、昭和48年度のメンバーは次の通りになっている。
 会長 木村 重  浦和市別所1−7−11             理学博士
 理事 落合 明  高知県南国市物部高知大学
                 農学部水族生理生態研究室     理学博士
     熊谷孝良  品川区大井6−16−17            慶応大生物学教室
     柴田  清  国立市東区2−20−18            日本水棲生物研究所長
     近森  実  高知市西新屋敷68               病院事務長
     長沢兵次郎 葛飾区水元小合町3347東京水産試験場 都水産試験場技官
     野中  進  高知市東雲町1−5               土佐金魚保存会副会長
     牧野信司  台東区御徒町3−3               日本熱帯魚研究所所長
     矢野忠保  高知市池字田島3072             金魚養殖業
 顧問 吉田松樹  葛飾区東新小岩5−14−7          日本観賞魚振興会会長 
     長瀬貫公  中央区日本橋茅場1−1日生ビル       日本観賞魚振興会理事長 
協賛会員中路英弐  千代田区富士見2−1−12          興和水槽社長 
     渡辺武次  豊島区南池袋1−21西部百貨店金魚売場 土屋商店西武百貨店売り場主任
     中村利一  千代田区飯田橋4−6−5           緑書房社長
     武田史郎       〃                       〃編集部 
     石津恵造       〃                       〃  〃
 会員60名中年令の判明している者33名年齢別内訳

50才代 40才代 30才代 20才代 10才代
3人 12

 会員60名の居住地分布

東京都 千葉県 埼玉県 神奈川県 栃木県 長野県 宮城県 静岡県 愛知県 滋賀県 大阪府 兵庫県 香川県 宮崎県
35人

 この会では、毎年7月と11月の2回、西部池袋百貨店屋上の金魚売場で品評会を開き、トサキンの保存と飼育の普及に努めている様で有るが、東京の会員名簿を右(上)のように分析して気付くのは20才代が12人となって若い年齢層の多い事と、10才代の学生が8人もいてそのうち5人が東京都内、他は兵庫県に2人、神奈川県に1人いることで、トサキンの普及と言う点で誠に好ましい現象であるが、全国的分布とは言え、この事実を社会学的にどう理解してよいか、今後の研究課題でもあろう。更に、生物学的に見た場合、会員分布の南限は宮崎県の北緯32度付近、北限は宮城県の38度付近、その中に長野県諏訪市のような、海抜760メートル近い中部山岳地帯の高冷地が含まれているのも今後の飼育技術上の参考となる。
 品種の固定
ー田村広衛氏の記憶ー
 トサキンの品種固定を成し遂げたと言われる須賀亀太郎と親交があり、トサキンを今日に伝える中心的存在となった田村広衛氏(高知市南与力町居住・当76才)の説明によると、嘗て淡水魚の研究家松井博士の依頼により、須賀家より資料1冊を借り、トサキンの成魚と共に同博士の宅に持参した事があったが、その後その史料は一向に返却されずにいた。そのうちに或る日、その史料と共にトサキンのことが朝日新聞の記事に掲載され、驚いた須賀荘介氏(亀太郎の長男・死去)が松井博士宅に出向いて、その史料の返還を受けた。それは現在須賀家(亡荘介氏妻チカ子さん、高知市潮江新町1丁目居住)にあるはずだが、それには絵は全く載ってなかった。須賀家は昔、南与力町の東はずれ北側に住居があって、亀太郎は須賀克三郎の長男に生まれ、家伝来の金魚を飼育していたが、そのうちに品種改良を思い立ったようで、今は幻の金魚と言われる大阪(関西)ランチュウ(帯屋町の今のスーパーの前で近森と言う人が飼っていたことが有り、口の細い非常に美しい魚で、尾の広がりの悪いところは、トサキンのハネものの一番よいところくらいの魚と思えば良く、今はいない)に、尾鰭の左右に張りの強い琉金を交配して、今のトサキンができたもの。須賀家は五石5人扶持で生活が苦しい為、代々金魚を飼って生活の足しにしていた様である。田村氏はもと大工であったが、このトサキンの美しさに魅せられて金魚屋になった。現在は、もと金魚池で広かった敷地に田村ビルを建て楽隠居であるが、終戦後の南海大地震の直後、鏡水桜主の自宅へ行った時、地震後、海水のさしひきする庭で、傾いた金魚鉢の中にトサキンが偶然にも僅かの水に生き残っているのを見つけ、酒の好きな主人との話で焼酎と交換する事となり、かつて疎開していた高岡郡の奥地まではるばると自転車で出掛け、焼酎を手に入れてきてこの取引に成功し、トサキンの子種を殖やしてきたという。勿論、城から西では、地震の被害が少なかったので多少は残ったであろうが、現在トサキンを飼育している人で、直接、間接に田村氏に関係のない人はあるまい。トサキンの品評会に付いて、田村氏の記憶では、大正の初め頃から、今回は石立の八幡様、次は高知公園の榎の下でというように開かれ始めた様である。記録は殆ど空襲の時に焼けているが、只一枚だけ昭和4年11月23日高知の新開地で催された会の結果を、土佐錦魚見競鑑として東西に分けて番付にしたもの保存しており、勧進元土佐錦魚会として筆者嶋村十十(とじゅう)(潮江の人で浄瑠璃語り、トサキン愛好家)と勘亭流で書き、役員その他に次の刷り込みがある。
 会長(蓮池町片岡)・副会長(中島町田嶋)・相談役(中島町須賀・潮江浜田)・検査役(江の口町森本・潮江浜田・中島町須賀・中新町田嶋・帯屋町久保)・幹事(井口小谷・帯屋町蒲原・堀詰川ア屋・紺屋町楠瀬・農人町秋沢・
 潮江矢野)・会計(梅の辻十十)・会員(西唐人町北村・本町小島・帯屋町西山・帯屋町久保・廿代町徳吉・山田町氏原・大正町由井・潮江山崎・小高坂和田・帯屋町山本・上新地池添・本町須賀・新町井内・江の口町浜川・中島町田村)
 トサキンは短期間に飼いこなして入選まで持っていけるものではないから、この番付表に記された人々が、恐らく大正から昭和の初めにかけての高知におけるトサキンの有名飼育者と見てよいのであって入選のものを人名別、魚類により分類すると次のようになる。トサキンの歴史の中では余り興味をそそるものではないのでカットさせて頂く)
 今回の調査に利用した須賀家の史料(ミニコピーによる写真版)を田村広衛氏に見せたところ、この史料は自分が見たことのない史料だと言う。和紙をとじた表紙に土佐錦魚元祖と墨書し、細かな注釈の所は別にして、大体各ページを2段に分け、下段がが絵、上段が自分の飼育してきた金魚に付けた名前と年代で、公か2年(1845)年から嘉永4年(1851)、須賀氏が75才になった時までの記録を一時に書いたものと推定される。表紙2枚を除き55ページ有るが、画かれた金魚の魚体を見て田村氏は、これは亀太郎の品種固定をしたトサキンとは違っていて、名古屋地金だと思う。恐らく、土佐錦魚元祖とは書いてあるが、自分が土佐で飼いならしたので、そのために土佐錦魚元祖と書いたものではないかと言う。このような思いつきが感じられる点を挙げると、第2ページに「水なとの動くにつけてのとかなり 松崖筆書」年、鶴を2羽画き、洞意画と添え書きしてあるが、洞意とは弘瀬洞意、すなわち絵金のことであるにも拘わらず、これを全く違った筆勢で、自分で画いたものに他人の名を借用したものと考えられる事。題46ページにも朱盃に亀を描き、観耕斎知雄七五叟筆とし「万年のぬるみや八十の漆人 魯松 」とある事。魯松幕末の土佐の宗匠であろうが、伊野町琴平山、琴平神社の境内に芭蕉の句碑があり「春の夜は桜に明けて仕舞いけり 芭蕉翁」の左下に「魯松敬」書と刻まれ、建碑の年は「嘉永五稔壬子之歳社中建之 初九 謹鐫」となっている。は菴の古字であって、須賀家文書の字はと誤っており、少なくとも本人なら固有名詞の文字を、誤る事もないはずで、観耕斎知雄七十五叟がこの史料の筆者で有るに違いない。となるとこの俳諧がまた魯松の作か否かも疑問視されるが、ともかくも、記録の最終年が嘉永四年(1851)でこの時に75才とすれば、安永6年(1777)の生まれであり、江戸後期の文化、文政の頃には、高知城下でも金魚を飼い生計の足しとしていた軽格の氏がいた事は推測される。
 南与力町とは、山内家の家老乾市正の与力(土佐で与力とは家老の家臣)の居住した所で、その頃から始まった町名と言われ、田村氏の記憶による五石五人扶持すなわち粳米五石は、軽格(下士)の士の内、新足軽・定小者・六尺などに当たる給与で、須賀亀太郎の家がこの給与を受けて南与力町に住っていたと言うのは、或いは与力の家に付属する軽格の者であったかも知れない。
 須賀亀太郎は、昭和12年(1937)5月21日82才で死去、その生年は安政3年(1856)、父克三郎は、文久3年(1863)38才で死去しているのでその生年は文政9年(1826)、亀太郎は克三郎31才の年の子である。それから計算すると、この史料の記録最終年となっている嘉永4年(1851)は、克三郎が26才の年の子となり、もしこの史料の筆者が克三郎の父だとすれば、克三郎は筆者某の50才の時に生まれたことになり、家代々金魚の飼育をしてきたものとみられる。克三郎死去の年には亀太郎は8才であるから、到底金魚の面倒を見る年令ではなく亀太郎以外の人の手によって飼われていたはずで、恐らく、須賀家は一家そろってこの事に専念していたものであろう。弘化年間に江戸と金魚の交流があった事は、史料第4ページに「弘化3馬年、末子、江戸魚、都鳥、雄、末3月5日求之」と記され、それが江戸魚であり、都鳥の名を付けたところからも、そのことは推察される。現在のように薬品の開発されていない時なので、魚の病気には大きな苦労をしたと見えて、第55ページには、「療治の事  一、鱗の中へ虱わきて苦しむことあり、是は烟草の吸殻を節々すり込めは治る事あり。 一、ぬまり病薄白くきぬを着たるようになる、これは赤土たてたる水へ節節入、壱廻り7日の中治す。」等、体験による治療法が述べられてある。
 田村広衛氏の言を待つまでもなく、この史料(松井博士より返されたはずの別の史料がないので、それには誰が何を記録してあったのか判からないが)の金魚は何れも魚体が長く、むしろ和金体形である。ただ、尾鰭は左右の鰭と中央鰭との切れこみが少なく、全体として水平状で現在のトサキンの尾とやや似通った所もあり、トサキン二は、或いは、須賀家が代々飼育してていたこの金魚の血も少しは混入しているかも知れないが、トサキンの直接の祖形に付いては、やはり、亀太郎と親交のあった田村広衛氏の言を信頼するのが本筋であろう。
 天然記念物に指定
 トサキンが天然記念物に指定されたのは、初めに記したように、昭和44年8月8日の事であるが、それに先だって、高知県教育委員会に対し、3回も申請書が出されている。第1回は土佐金魚会代表者野中進氏の名により、第2回近森実氏の名により、第3回は再び野中進氏の名により提出され、漸くにしてその価値を認められたが、この様に、申請に対する裁断の進捗しなかった原因は、県教育委員会の無関心さにも合ったようで、長い間、審議もされずに係員の机の抽出しに眠っていたと言う話もある。そして、この申請のきっかけを作ったのは、野中氏の遠縁につながる高知市桂浜、土佐闘犬センターの広瀬まさる氏のアドバイスであったと野中氏は言っている。こうしてトサキンは長尾鶏と同じく、単なる金魚としてではなく、人間によって造られた美しい姿態を持つ土佐の生物を代表するものとして、観賞魚界に異彩を放つことになったのはつい最近のことで有るが、その影には、1世紀以上にわたる土佐人の、美しいものを愛し育てようとする情熱と執念の歴史が潜んでいることを忘れてはならない。(矢野城桜氏が執筆された「トサキンの四季」には「土佐錦魚保存会会則」や「認定証交付規定」等が参考資料として7ページにわたって記録されているが読者の興味をそそる物でもないので打ち切らせて頂く)
      







      昭和4年11月の番付表           須賀家文書(1)(以下次号)

さて、暫くご無沙汰をしている間に
「高知警察署の中央公園交番所長、恒石章彦氏」から高知新聞の切り抜きをお借りできた。25回に及ぶ連載のコラムである。全てにカラーの写真が挿入され、筆者は故人となられたが「野中進氏」である。素晴らしい内容である。しかし、私の画像挿入が上手くないので全てはお見せできないのが残念である。
土佐錦魚  野中進
(1)  その歴史(上)
 土佐の先人がつくりだした「生ける造形美」で、世界に誇り得るものが二つある。一つはオナガドリ、もう一つは土佐錦魚(トサキン)である。トサキンは金魚の一種だが、金魚族の女王と言える優美さの故に、古来「錦魚」〔金魚〕の文字が当てられてきた。
 土佐錦魚は、大阪蘭鋳(ランチュウ)と琉金(リュウキン)の交配により、両方の長所を併せ持った魚の子を残し、またその子を残すと言うふうに、次々に品種改良を重ねてつくり上げた。
 話はおよそ、二百年前の江戸時代にさかのぼる。山内家家老・乾市正の与力(家臣)、須賀某が金魚を江戸から持ち帰り、飼育した。これが土佐錦魚の始まりと言われる。須賀家は高知城下の南与力町に住む軽格の士だったようで、代々金魚を飼育していたとみられる。品種固定したのは、同家の子孫・須賀亀太郎ああ(1856−1937)だ。
 「固定」とは、新品種を作出・決定することを意味する。亀太郎は土佐錦魚「生みの親」と言える。
 錦魚の固定には、土佐の青く澄み切った空と強烈な太陽、それに特殊な容器があったのが幸いしたと思う。青空の下、太陽熱で,金魚鉢の中の水温は真夏30度くらいまで上昇する。そこで、鉢の3分の一くらい板で覆いをすると、錦魚は泳ぐのをやめて、「前」(尾の先端の骨)を動かす。ちょうど人間が扇を使うか、扇風機をかけるようなもので、水中で涼を取っているのだと思う。
 このような動作を繰り返しているうちに、立派な錦魚に育っていく、須賀亀太郎はこの事に気付き、容器も考案して新品種を固定していったと思われる。最初に固定した品種は、海老前(えびまえ)と言って、左右の前骨が単に前の方に出ただけのもので、あまり派手さはなかった。(愛好家)
(2)  その歴史(中)
 須賀亀太郎により固定された土佐錦魚(トサキン)の品種は、まだ十分に立派なものでなく、死にやすい欠陥があった。特殊な容器なども必要で、また、日当りの良い庭か広い空き地でもなければ、到底飼育は困難だった。このため、飼育者、生産者共に少なかった。それでも、一部愛好家の間で飼われてきたのは「いごっそう」がたくさんいたためだろう。
 この土佐錦魚も昭和21年の南海大地震で絶滅の危機にひんしたことがある。危機を救ったのは、須賀亀太郎と親交があり、土佐錦魚を今日に伝える中心的存在となった田村広衛さん(故人)だった。
 こんなエピソードが残っている。田村さんは大地震で水浸しになった、高知市桜井町の鏡水楼主の自宅で、たまたま鉢の中に生き残った錦魚(きんぎょ)を見付けた。直ちに酒好きの主人と交渉し、高岡郡越知町の奥地まで自転車で走った。やっと焼酎を手に入れ、錦魚と取り替え、それから子種を増やしていったという。
 当時、ひとつがいの長生きした親魚は八歳だったという。田村さんは余程飼い方の巧みな人だったのだろう、12年間育てた魚を持っていた。それをある友人が分けてもらった。しかし、その翌日にはもう死なせてしまった。
 田村さんはもともと大工さんだった。ある朝、仕事に出かけようとすると、知人が錦魚を分けてほしいと頼みに来た。断ると、明くる朝またやって来る。来る日も来る日もその繰り返しで、仕事どころではなくなった。ほとほと困って、須賀亀太郎に相談した。とうとう「それではいっそ、金魚屋になれ」ーという話になったらしい。
(3)  その歴史(下)
 田村広衛さんの時代に、土佐錦魚は現在の「横綱前」(尾の先端の骨が、お相撲さんのしこを踏んだ形)に改良される。
 私が田村さんを知ったのは昭和33年ごろだった。須賀亀太郎ゆかりの高知市南与力町に住んでおられた。屋敷の南側に大きな金魚池があった。追手前高校時計台の前辺りで日曜市に店を出し、土佐錦魚を売っていた。ここで私の二男純男(現・土佐錦魚愛好会副理事長)が錦魚(きんぎょ)買ってきた。それが、私と錦魚との出会いだった。あまりの優雅さに、たちまちとりこになってしまった。
 それから錦魚に明け暮れて十年ほどたち、ようやく自慢の作も持てるようになった。しかし、こんなに美しい錦魚がいることは、高知県人でもほとんど知らない。飼育、観賞は一部の愛好家だけに限られている。何とかしなければ、と考えていたとき、土佐闘犬センターの広瀬勝さんのアドバイスで、県天然記念物の指定を県教委に申請した。
 最初に申請した時ははっきり覚えていない。まず土佐錦魚会代表の私の名で、次いで同じく近森実さんの名だった。何れも県教委からは何の反応もなかった。しびれを切らして再び私の名で申請したのが44年春。これが三度目の正直となり。44年8月8日、晴れて県天然記念物に指定された。
 指定をバネに、この美しい錦魚を世に広めねばと、矢野忠保さん(高知市仁井田)らの宣伝が奏効し、愛好家がだんだん増えていった。後には、皇太子殿下時代の天皇陛下に献上する栄に浴した。今では愛好家は、北海道から鹿児島県まで全国に広がった。アメリカへ輸出しているとも聞いている。今後とも県天然記念物の名に恥じない、もっともっと素晴らしい錦魚を育て、次代に引き継いでいきたいものだ。
(4)  1・2月の飼育
 1月は今年の産卵のための準備期間のような月で、日当たりの良い所で、容器の水温が下がらないように心掛けることが肝要だ。この時分になると、南国高知といっても、気温は零度を割る日もあるので、最低8度位にセットしたヒーターを容器に入れてやりたい。ビニールハウスを作っている人も多い。
 零度以下で氷が張る状態に何日も置くと、産卵しないようになる。逆に20度前後の高温を続けても、やはり卵は産まない。この時期は餌(餌)を与えてはいけない。また、容器の水替えもしない。
 このようにして、1月から2月中ごろにかけて、じっと待つのがよい。2月半ばなると、容器の水を半分くらい、1週間汲み置いた水と、今度は全部取り替える。そして餌をやる。水が濁ったままでは、決して与えてはならない。
 1,2月が終わり、3月を迎えると、早い飼育者はもう産卵を済ますケースもある。しかし、餌のミジンコや水温の関係でなかなか骨が折れるので、なるべく5月に卵を産ませるようにした方が得策だろう。
 産卵用の錦魚(きんぎょ)は主として丸2年ものを使う。前年の1年ものだと、不良魚が多く生まれるようだ。これは、私の経験から言うのであって、学問的なことは分からない。
 このシーズン、あちこちの飼育仲間から産卵のニュースが入ってくる。しかし、張り切って餌をやり過ぎてはならない。余り親魚を肥やすと、無精卵が生じたり、すぐ死ぬものが出てくるからだ。絶対に慌ててはいけない。落ち着いて、3〜5月にちょっと茶色がかった卵を産ますようにすると、必ず立派な子魚が取れる。
(5)  3月の飼育
 3月は割りと冷え込むので、水温の下降に気を付けてほしい、水替えも同温か1〜2度高い水を使うのなら構わないが、低いのは禁物だ。
 水温が下がると、錦魚(きんぎょ)の腹を冷やす。しかし、一生懸命世話をすればするほど、容器にふんが溜まると、どうしても水を替えて、きれいにしてやりたくなる。といって、これを度々すると、せっかく魚の腹が膨らんで産卵しようとするのを、人間が邪魔することになる。続けると、6月にならないと卵を産まない。
 私は初心者の頃、よくこの失敗をした。そのとき、この道の先輩にしかられたのを覚えている。「錦魚を人間に置き換えてみれば分かるじゃないか。女房が出産しようとするのに、腹に水を掛ける亭主がいるものか」。その通りだ。多少水が濁っても、水替えは極力避けるのが賢明だ。前回、置き水うんぬん、と言ったのは、どうしてもという場合だ。足し水なら、水温の降下をある程度防ぐことができる。本年子でも秋口に水替えをすると、雄の胸ひれに追星(斑点状の隆起小体)が現れる。
 産卵は雌1匹に対し雄2〜3匹の割合で準備をする。このときの雄は昨年子でも構わない。雌は丸2年ものの方が不良品の生まれる率が低い。もう一つ、注意してほしいこと。餌を与え過ぎると肥満児になり、卵を産んでもかえらない。
 餌は活き餌つまりアカコ(イトミミズ)が一番だ。アカコが無いときは、人工の配合飼料でもよいが、これはどうしても卵の数が少なくなる。産卵のための金魚藻またはホテイアオイも用意する。勤めている人は、産卵に時間がかかり過ぎるので、人工交配に備え雄を多く準備するとよい。
(6)  4月の飼育
 4月20日ごろには、水温は大体20度を超すようになり、すべての錦魚(きんぎょ)は盛んに産卵を始める。産卵は半日くらいかかる。終わると、雌と雄を別々の鉢に取りだす。有精卵は透き通った無色で、もち米のような白色のものは無精卵だ。
 産卵した鉢の水は、くみ置き水と入れ替える。気温が急に下がるのは要注意だ。水温20度前後で5日ぐらい待つと、有精卵の殻を破って稚魚が生まれる。稚魚は鉢底や藻にくっ付いて、腹の卵袋から栄養をとる。2日ほどはそういう状態で動かない。卵袋が無くなると、水面を泳ぎだす。
 だが、すぐに餌(えさ)を与えてはいけない。生まれた時刻の違いなどにより、大小さまざまの稚魚が入り交じっているので、遊泳を始めてから2〜3日たって、餌をやるようにする。弱肉強食を防ぐためだ。
 こうして約1週間、ミジンコを与えると、魚体にうろこが生じてくる。このとき、魚を60匹くらい選別して丸鉢に入れる。その際、不良魚は思い切って除く。それから3週間くらいして2度目の選別をし、約20匹に絞る。このころ餌をミジンコから生き餌(え)か配合飼料に切り替える。水替えは3分の1から2分の1へと、段々増やすようにする。魚の数も8匹、4匹というふうに厳選していく。
 錦魚の成長は、餌や環境に左右される。水の良しあしで、餌の食いは異なる。いくら良い餌でも、古い水で与えては、食べようとしない。広い場所と適当な水温と十分な餌があれば、錦魚はどんどん成長する。しかし、土佐錦魚は観賞魚だから、ただ大きければいいというものではない。また直径70センチの容器のような狭い所で、数多く飼育すると、完全な錦魚にならない。あまり欲張らず、良くない魚は捨てるべきだ。
(7)  5月の飼育(上)
  
5月の声を聞くと、もう高知ではミジンコやアカコが沢山捕れるので、餌(えさ)に苦労することはない。錦魚(きんぎょ)の産卵・ふ化には絶好の季節到来だ。4月末に産卵したものも、この時期に生まれる。
 錦魚を飼い始めたころ、先輩によく言われた。「錦魚も人間と同じで、子供のころは皆かわいい。しかし大人になると、親に似てくる。だから親をりぐれ。もう一つは、こういう稚魚を飼育したら、ああいう親になった。このことをしっかり覚えておくように」
 子魚を選別するときは、悪い魚はいずれ死ぬ運命にあるのだから、きれいな川へ放してやるのがよい。錦魚の飼育には、どうしても多くの殺生を免れない。このことで、面白い話がある。Y氏が自らあまり殺生が過ぎることを気にして、「ちょっと供養しなければ」と思い、日曜市で観音像を買って帰った。すると、かえって奥さんに「仏様を連れて来た」と、文句を言われたそうだ。愛好家の間で今も語り草になっている。
 事実、錦魚の選別となると、不良魚を大量に捨てるので、詰まるところ殺生せざるを得ない。こうして処分を繰り返すと、8月ごろには、直径70センチの丸鉢に2,3匹ずつくらいしか残らない。9月にも成れば、2匹にまで淘汰(とうた)されてしまう。このように絞り込まなければ、いい魚は取れない。
 錦魚は妙なもので、犬のように飼い主に似るものだ。私は経験からよく知っている。子魚は、例え同じ親から生まれても、飼い主次第で異なった性格になる。気性の激しい人が飼うと荒っぽい魚になり、上品な人が世話すればしとやかになる。仲間内の品評会で、熟練した審査員なら、あの人が飼育したのはこれこれ、と錦魚を特定することができる。
(8)  5月の飼育(下)
 親魚は1回3千個から三千五百個ずつ、会せて3回、1万個前後産卵するので、飼育者にとって、5月は大変忙しい。最初に生まれた子を一番子、二度目のを二番子と呼ぶ。こう言うと、随分たくさんの子魚が取れそうだが、実際は玉石混淆(こんこう)で、しかも雨に打たれて死んだり、病気で一巣全部だめになったりする。まあ、どうにか自分で飼育できる匹数を確保すれば上々というところだ。どうしても思うようにそろわないようなら、6月くらいまで子魚は取れる。しかし、私たちは商売でないから、6月の小魚は本当に困っている仲間にあげたり、廃棄したりするのが普通だ。
 このようにして、先に生まれた一番子か二番子を大事に育てることに専念する。餌は初めミジンコを与え、途中であかコに切り替える。その時期をいつにするかは、あまりこだわらなくでもよいと思う。昔のこと、ある人が自分だけミジンコだけで飼育していた。先輩のK氏が成り行きを見ていたところ、魚体が2センチか2,5センチになるまでミジンコだけでも支障はない、という結論になった。ミジンコを与え続けると、尾茎(尾の付け根の細い部分)が大きい、立派な魚になる。
 そして6月にかけ選別を繰り返しながら、毎日、朝または夕方に水替えをする。前にも触れたように、替える水は全部ではなく、魚が小さいときは三分の一、成長するにつれ二分の一と増やしていくのが、今日のやり方になっている。色変わりの早い雄、雌から種を取ると、稚魚も色変わりの早いものが出るようになる。
(9) 6月の飼育
 土佐錦魚(トサキン)は、生まれて間もなく餌のミジンコを与えられ、、大変よく食べる。朝やったミジンコを夕方にはもうすっかり平らげているほどで、魚体は日増しに大きくなる。錦魚(きんぎょ)の成長は、環境と飼料の種類・量の影響が大きい。前にも触れたように、生き餌(え)が最適だ。あまり小さい容器に、餌を大量に与え過ぎるのは、感心しない。
 6月も終わりごろになると、水温が上昇して飼育は非常に楽になる。しかし、錦魚は観賞魚だから、魚体をバランスよく太らせることを忘れないでほしい。
 6月には、毎日与えるミジンコを当日捕りに行く。餌取り場で錦魚仲間と出会い、飼育に関するいろいろなニュースを交換するのも楽しみだ。ベテランからは飼育法を気軽に教えてもらえる。その中には、次ぎのようなこともあるだろう。容器に雨水が入ると、水温が下がり、小魚の成長によくない。ビニールなどで水面を覆うといった工夫が必要だ。その場合、酸素不足を防ぐため、波板のビニールが役に立つ。
 このようにして、錦魚がだんだん成長すると、小さいとき分からなかった欠点に気付いてくる。魚体の膨らみが左右対称でない「片ばらみ」尾が桜の花びらのように切れ込んだ「桜」、しっぽにしわのある「しわつまみ」などが代表的な欠点だ。
 こういう錦魚は何度も言うように、どしどし取り除いていくのに越したことはない。とりわけ、尾の中央部にゆとりの無い魚は、根こそぎ廃棄してしまうとよい。尾にゆとりが無いとは、尾の中央線の張り切ったものを指す。泳いでいて、尾の左右の骨が前方に出たときに、この余裕が欲しいものだ。素人目に尾がぐにゃぐにゃしているように見えるのが、実は理想的だといえる。
(10) 7月の飼育
 土佐錦魚の飼育に、酸素の少ない井戸水や塩素の入った水道水は向かない。このことを知らない飼育者は、今どきいない。しかし、2日間ため置きした水で1日飼うのが、錦魚(きんぎょ)のために一番良いということは存外知られていないのではないか。その点、現在の飼育者が水替えをする際、魚が成長するにつれ、替え水の量を増やしていくのは、理にかなっている。
 このやり方が、今日の豪快な錦魚をつくることにつながったのではないかと思う。つまり、魚体に無理のいかないように育て、物言わぬ錦魚の長所を伸ばす方法が編み出されていった、ということだろう。
 1年かけて何十匹も懸命に育てても、気に入った良い錦魚は、1,2匹ぐらいしか取れない。しかし、6,7,8月と、選別により鉢の中の匹数を減らしていくうちに、親魚の種が良ければ、必ず素晴らしい子魚になるはずだ。これから飼い始める人は、このことをしっかり覚えてほしい。
 子魚を飼育する鉢として、丸鉢と角鉢がある。丸鉢は、5月から10月にかけ、「前」(尾の先端の骨)を決める(固定する)期間使う。丸鉢にはわん型とすり鉢型の2種類ある。鉢は錦魚を完成させるための補助的な役目を果たす。私は飼育し始めたころ、わん型を作って使った。長年飼育していた先輩が、勧めてくれたからだ。わん型なら失敗が少なく、多少日覆いが遅れても構わない、とのことだった。すり鉢型の方は、水温の上昇も早く、従って子魚の仕上がりが早いが、失敗も伴いやすい。
 前を決めた後は、角鉢に移す。角鉢は水温の変化が少ない。それに、大きいので錦魚が良く泳ぎ、成長を促進する。泳ぐと「前」が後方へ流れるのは骨が弱い証拠だが、2,3年飼ううちに強くなってくる。
(11) 7月の飼育
 この時期、金魚鉢に藻などいっさい入れてはいけない。錦魚(きんぎょ)が「前」(尾の先端の骨)を出すのを妨げるからだ。
 真夏の太陽が照りつけ、夜間も水温は下がらないので、餌を朝、昼、晩と与え、良く食べさせるようにする。
 毎日1回は水替えをしないと、鉢は酸素不足となり、どういう訳か一番良い親魚から死ぬ。たとえ晩酌を過ごして面倒だと思っても、水替えをしなければ、錦魚は必ず死んでいる。くどいようだが、4月下旬から9月半ばまでは、毎日水替えを忘れてはならない。水替えがおっくうなら、くみ置きの水を鉢の3分の1か4分の1ほど、継ぎ足してやってもいいだろう。
 錦魚は生まれたとき、黒っぽい色をしている。この時期になると、早いものは色変わりしてくる。色変わりの部分は頭からも、尾の先からも始まる。色は赤、白、赤交じりの白になる。赤なら、長時間太陽光線にさらすほど、色が濃くなる。
 2,3年は元の黒のままの錦魚も有るが、大体生まれた年の7月終わりから9,10月ごろまでに色変りする。中には、翌年の産卵期までに変るものもある。
 色変りの進行中は、成長が一時止まるように見えるが、大した影響はない。ともかく7,8月は、夜も昼も長いので、この際十分に太らせることだ。少々夜間飼いをしても、決して悪い結果はでない。私の場合は、屋上で飼っているので、冬は難しいが、夏場はやりやすい。ともかくこの時期は、錦魚が餌をたくさん食べ、バランスよく成長するように努めてください。しかし、急激に太らすと、魚体の均衡が崩れ、目玉が飛び出して、ガマの顔のような錦魚になるのでご用心。
(12) 8月の飼育
 8月は晴天が続き、夜間も水温が下がらないので、錦魚(きんぎょ)の飼育に全力投球の時期だ。
 成長の早いものは7月から8月にかけ、急速に色変わりが進む。日当たりの良い、殊に朝から晩まで良い所では、午前10時ごろから午後4時ごろまで、金魚鉢に直射日光を遮る覆いをしてほしい。覆いの広さは鉢の直径の3分の1くらいで、水面から30センチほどの高さにするのが理想的だ。
 錦魚を早く仕上げるには、円すい形の先端を水平に切った、アサガオ型の鉢が適している。餌は前にも言った通り、生き餌のアカコが一番適している。人工の餌だと、水が濁ってよくない。配合飼料は浮き餌のマス用10号が適している。この時期にやっておかねばならないのは、尾のしわになった部分を抜き取ること。8月20日ごろまでの、発育の最も良い時だとうまくいく。しわの中心から左右をできるだけ幅狭く除去し、残った両側先の方がくっつくようにする。幅広く除去すると根元から引っ付き、しわが元より大きなものになる。やり直すには、翌年まで1年待たなければならない。
 しわを取り除く道具は私の場合、鉄工所という職業がら手引きの鋸歯(のこば)を使う。
 8月は錦魚が一番良く太る。9,10月になると、だんだんと成長しにくくなる。錦魚は、このことを本能的に知っており、7,8月中に餌をたくさん食べる。
 しかし、8月は台風シーズンでもある。浸水地区では、鉢を高い所に置くなどして、錦魚を守る工夫が必要だ。風雨が強くなりそうなら、ビニール障子や板を掛けるのも一つの用心だ。思えば、これまで幾度か台風で、丹精して育てた錦魚が安住の鉢から流れ出て恐怖の濁流にのまれ、むなしく死んでいったことか。
(13)9月の飼育
 土佐錦魚(トサキン)の飼育に最も適した8月を過ぎ、9月に入ると太り具合は鈍くなる。そして、今年生まれた当歳魚が大部分、前を決め(尾の先端の骨を固め)だすのもこの時期だ。
 昨年生まれの明け二歳魚はこの時期、前が発達し過ぎているくらいがよい。遊泳の場合、骨がしっかりしていなければ、尾が後に流れて美しく見えないからだ。このため、前が発達していない錦魚は、2年目は良く見えても、3年目にはだめになることもある。私たち愛好家は3年、4年と長期間飼える錦魚を望んでいる。
 選別はこれまでも触れたが、大体8月の半ばから丸鉢一個に二匹残すのが、当歳魚を完成させる標準だ。たくさん残すと、錦魚同士の骨と骨とがこすり合うためか、前が出てくる立派なものに育たない。この際、自分の錦魚と他人のを比べてみてもよい。必ず得るところがあるはずだ。
 当歳魚は9月いっぱいでほぼ完成する。そこで二年後の種親(たねおや)のことを考える。種親にはどこか特徴のあるものを選んでほしい。金座(きんざ=尾の付け根のうろこ)が広いことも選択基準の一つだ。
 色変わりの点では、白になるのは、雄なら許されるが、雌はだめ。両親とも赤というのが一番だ。赤で、子出しの良い(たくさん産卵する)雌を選びたい。

 私が錦魚を飼い始めたころ、ある先輩に「あなたは品評会に出す錦魚が欲しいのか、それとも子魚を取るための錦魚が望みか」と言われた。当時は気に留めなかったものの、長年経験を積むと、確かに子出しの良い錦魚と悪いものがあることが分かってきた。
 卵を多く持っている雌は、尾茎(尾の付け根)が短く、体格ががっちりしているのに多い。雄は体の長いのが、最も熱心に雌を追うようになる。
(14) 10月の飼育
 10月の時期は暑い日が続くかと思うと、急に雨になり温度が下がったりする。錦魚は暑い日には良く餌を食べるが、温度が下がると腹を壊しやすい。夕方遅くには、餌を与えないことも大事だ。ともかく、錦魚の完成期なので、体調をくずさないよう十二分に注意してください。
 また、夜間は冷えるため、今まで正常に泳いでいた錦魚でも、朝見ると寝ているようなのがある。こんなのは、様子を見て処分した方がいい。
 無色透明なはずの尾が、夏に強い太陽光線を受けたせいで、この時期、白色に濁る場合がある。このような状態を「尾が焼ける」と言う。これはエルバージュという薬品で焼けた部分を洗浄すれば、元の無色透明な尾になる。薬品はかなり黄色になる程度に水に溶かし、その溶液を脱脂綿に浸して洗う。何度か試みるうちに、だんだん美しい尾の色を取り戻してくる。
 特に、明け二歳魚や親魚には、このやり方が向いている。これらは尾の面積が広いため、人間の肌と同じように日焼けする。日焼けさせないためには、鉢の水を深くすればいいようなものの、かえって病気になりやすい、といった問題があり、なかなかうまくいかない。しかし「前」(尾の先端の骨)を決めた錦魚は、水量が多く温度の変化が少ない角鉢に入れて、飼育するのが普通だ。
 どうこう言いながらも、錦魚は10月までは太るし、来年の飼育の事も考えて、十分に体をつくってやりたい。
 翌年の産卵に備えて、容器なども多めに用意しておくのも、この月の仕事だ。冬の寒さを避けるための囲いも用意する。鉢は北風を防ぐことができ、その上
 、なるべく日当たりの良い場所の置いて、翌年の産卵期までは動かさないようにしたいものだ。
(15) 11・12月の飼育
 11月半ばになると、温度はぐっと下がってくる。昼間に金魚鉢を見て回って、水の少なくなったものには、4〜5日くみ置きした水を足して満杯にすることを勧めたい。
 夜間水温の降下を防ぐために、こもなどを掛けることも心掛けたい。それも夕方遅くならないうちに掛けるよう、注意しなければならない。夜中に雨が降っても、雨滴が鉢に入らないようにしておくことも、忘れないでほしい。
 寒さが厳しい所では、ヒーターを使ってもいいだろう。その場合、温度を上げ過ぎてはいけない。大体8度くらいにセットしておけばよい。決して夏場と同温西内容。そうすると、私には経験がないが、錦魚は子を生まなくなるといわれている。
 逆に、錦魚を零度以下の低温に何回も当てると、これも子を生まなくなる。氷の張るような状態にしておかないよう、気を配ってほしいものだ。なにしろ錦魚自体には体温が無いのだから、冬場はなるべく暖かい環境にすることを考えてやってください。
 錦魚飼育の先人は、地熱を利用して温度の降下を防ごうと、自宅の庭に池を掘って飼っていた。しかし、地価が今のように高くては、池にする土地を手に入れることはとても望めない。やはりヒーターを使うのが早道だろう。
 また、洋ランのハウスのような温室を作って鉢を入れてやれると、昼間は窓を開け、夜間閉めるだけで済む。ハウスがなければ、防寒の囲みが必要だ。屋上などに鉢を置く場合は、はちの底部と周囲を発泡スチロールで覆うと、寒さは随分防げる。
 錦魚は冬場でもたまに高温の日になると、餌を欲しがるが、与えてはいけない。ひたすら翌年の産卵の時を待つのが、11〜12月の飼育だ。
(16) 病気(上)
 藻に産み付けられた卵がふ化すると、稚魚は金魚鉢の底に集まるが、そのまま死ぬことが多々ある。これは、急にたくさん生餌を与えられた肥満体の親魚から生まれた稚魚に多い。脂肪過多性の卵も、その卵から生まれた稚魚も、ともに真っ白だ。肥満体の雌はとのかく良くない。錦魚は、早く卵を生ませようと焦れば、太りすぎるものだ。
 稚魚は生まれて4〜5日たってミジンコを与えられるが、その餌が直接の原因で病気になることはない。しかし、ミジンコの中にヤゴやゲンゴロウの幼虫が交じっていることがあるので、気を付けてほしい。これらが成長すると、稚魚を食べるからだ。
 卵がふ化する時期は長雨シーズンと重なるので、エラ病(エラが赤く変色。エラ呼吸しなくなる病気)になりやすい。エラ病の錦魚は頭が大きく、尾がやせ細る。錦魚の子引き(子孫を増やすこと)をした人で、この病気の経験のない人はいないと思う。
 一鉢に病気が出ると、ほかの鉢にも次から次へと伝染し、長雨の中で何ともしようがなくなる。「こりゃあ、空気感染じゃあないだろうか」と心配した錦魚飼いの先輩もいた。病気に気づけば、一鉢全部捨てるのが手っ取り早い。錦魚飼いが「おれは殺し屋じゃあ」と言うのはこのことだ。
 錦魚を捨てた後の鉢は、クレゾールで消毒するのが最も良い。病気を予防する方法は、長雨までに魚体を大きくして、その上で鉢の中の匹数を少なくする以外にない。鉢に雨水を入れないことはもちろんだ。 人間皆それぞれ欲が深く、あれも立派な錦魚になりはしないか、これも良くはならないだろうかと、できるだけ多く残したいのが人情だ。だが、これでは錦魚の住みかは過密状態になり、いたずらに病気を招く温床となる。
(17) 病気(下)
  「松かさ病」という、うろこの立った錦魚が生まれることがある。これは小さい時には、非常に良いものに見えるが、大きくなると気味悪いことが分かる。整腸剤を飲ませたり、きれいな水に入れ替えたりする人がいるようだが、この病気は絶対に治らない。
 選別の際、うろこ立ちの錦魚を全部残している人が多い。私の場合は、異変に気付いた段階で、捨てるようにしている。長雨シーズンになる前に、大きく成長させることを心掛ければ、あまりこういう病気にならないようだ。
 錦魚は人間と同じように、風邪も引くし、皮膚病を患ったり、胃腸障害も起こす。あごの下や尾ひれに黒い斑点を生じたり、魚体に白い粘りができるのは風邪引きだ。病気を予防するには、清潔第一で病原菌を金魚鉢に入れないよう、自分の手も常にきれいにしておかねばならない。
 低温のために発生する白点病(魚体の表面に白いブツブツができる病気)などは清潔さと日光にさえ気を配れば、そう簡単に発病するものではない。それでも発病したら、鉢の水温を上げるだけで病原菌は魚体から離れて死ぬ。
 大抵の病気は鉢の水に食塩を溶かすと治る。いろいろな薬品を使うより、大いに食塩を活用してほしい。
 病気を治す間は、餌を与えてはいけない。
 最後に、鉢の灰汁(あく)について書いてみよう。鉢は大体セメントで作っているので、使い始めて4年くらいは灰汁が出る。新しいものは早くコケが生えるように、年越しする場合は水をいれたままにしておくとよい。
 灰汁はもう一つの病原菌で、初心者はしばしばこれで失敗する。知らず知らずのうちに、物言わぬ錦魚たちを殺してしまわないよう、くれぐれも用心してください。
(18) 門田重彦さん
 土佐錦魚の美しさに魅せられた人々を思い出す。
 その一人は門田重彦さん(故人)。
 私は錦魚を飼い始めた昭和30年ごろ、折りに触れ門田さんを訪ねた。お宅は高知赤十字病院の西北方向にあった。餌のアカコがたくさん取れる川の北側で、庭の日当たりも申し分なかった。その地面を掘って角鉢を埋め、それとは別に、鉢に入れる水をためるタンクも作っていたと記憶している。大きな錦魚に「花子」と名を付けて、まるで自慢の娘のように扱った。
 門田さんは事あるごとに繰り返した。「錦魚を上手に飼うかどうかは、記憶力の問題ぜよ。『あんな魚がこうなった』と、しっかり覚えておきよ」。ある時、私が門田さんの錦魚を分けてほしいと頼むと、「飼うに適したものかよ、子を取るにえいがかよ」と聞かれた。後で分かったが、確かにどんなに見かけが立派でも、卵はあまり産まない錦魚ががある。門田さんはきっと、そのことを言いたかったのだろう。
 門田さんはよく「私の錦魚はどれでも分けて上げよう」と口にしていた。当時、土佐錦魚に飼育にかけて門田さんの右に出る人はいなかった。しかし、飼っている魚が代々同じ系統のもので、新しい血を入れなかったためか、後に良い種が取れなくなった。そこで、門田さんの希望で、私が飼っていたいたのと2〜3匹取り替えたことがある。残念ながら、門田さんは品種改良を見ることなく、その年に亡くなった。
 門田さんは錦魚仲間の間に、こんな逸話が残っている。学生時代、小遣いを日曜市の錦魚ではたいてしまってバス賃がなくなり、春野町弘岡の家まで荒倉峠を超えて歩いて帰った。若い時から、それほど錦魚に入れ込んでいた。
(19) 門田真澄さん
 土佐錦魚飼育の先輩で、土佐錦魚保存会の会長も務めた門田真澄さん(高知市長浜)に品評会の思い出話を聞いた。
 門田さんは昭和3年ごろ錦魚を品評会に出品するようになった。会場は高知市役所西側にあったお宮だという。
 参加者は5〜6人で、主だった人は、門田さん、連載(2)「その歴史」(中)で紹介した田村広衛さん、門田重彦さんたち。めいめい、金魚鉢をリヤカーに積んだり、容器をふろしきに包んで背負ったり、思い思いの格好で集まった。
 品評会の後、だれかが田村さんに「どうしてわしの錦魚が負けたぜよ。おまん、このええがをちょっと見とうせ」と悔しがったそうだ。錦魚飼いは言い出したら聞かない性格の人が多いとあって、審査員も気疲れしたと思う。
 私が品評会に出品するようになった当時は、高知市中央公園を会場に、田村さんが娘婿と一緒に主催してくれていた。審査員は田村さんのほか、門田重彦さん、岡村万作さんの3人だった。昭和31年のことだったと思う。
 かれこれ40年たち、門田真澄さん以外の人は大体亡くなった。
 昭和62年、土佐錦魚保存会の一部会員や新しいメンバーが土佐錦魚愛好会を設立した。会員は現在46人。毎年8月と10月に品評会を催し、なかなか盛況だ。品評会は錦魚の保存、改良に役立ち、飼育技術を競い合う好機だ。
 先般の品評会に門田真澄さんをお招きしたところ「飼い方が随分上手になったなあ」と感心していた。確かに今日の技術は昔より何枚も上で、かって私たちが成し得なかった、豪快な錦魚をつくってくれた。これは、全体の技術水準が向上した成果だろう。「今時の若い者は」という非難めいた言葉は、土佐錦魚の世界では禁句だと思う。
(20) 矢野城桜さん(上)
 かつて土佐錦魚の品評会が高知市中央公園で開かれていたころ、口の小さい上品な錦魚を出品していた紳士が人目を引いた。この人こそ、錦魚の飼育仲間で知らぬ人のない故矢野城桜(きろう)さんだ。
 矢野さんは大正5年1月、土佐山田町生まれ。旧制高知高校から京大法学部を卒業。会社勤めの後、高知学芸高や高知高専で教えた。学問の分野では「土佐藩の法制」など著書のほか論文も多い。版画、油絵から三味線、マンドリン、盆栽、釣りと、趣味のデパートのようで、どれも玄人はだしの腕前。誠に多芸多才の人だった。
 錦魚飼育の方は、この道40年の私より先輩だ。お元気だったころ高知市高須の自宅で、それこそ家をぐるり取り巻くほど金魚鉢を置き並べていた。
 かつて私もしたことのある土佐錦魚保存会の会長を努めた。本来、学者だけに錦魚についても理論的に研究し、「土佐錦魚の四季ーその飼い方と歴史ー」を著した。同書には、奥さんの幸子さんのご好意で、この連載を書くのに随分お世話になった。
 この稿の冒頭に書いた、矢野さん飼育の「口の小さい上品な錦魚」だが、私はこの珍しい錦魚の種をぜひ保存したいと思って、お宅を訪ねたことがある。その際、濃い赤色の錦魚も飼っておられるのを見つけ、これにも一目惚(ぼ)れした。私のお願いに、矢野さんは二つ返事で口の小さいのも、濃い赤色のも分けてくれた。この系統の錦魚は今も、私が自宅で飼育している中に残っている。
 矢野さんは錦魚の人口交配。産卵の名手としても知られている。
 残念なことに、矢野さんは平成3年1月、74年の生涯を閉じた。県天然記念物としての土佐錦魚の作出に、執念を燃や続けた先輩だった。
(21) 矢野城桜さん(下)
 矢野さんが土佐錦魚の保存育成に果たした功績は、私たち愛好仲間の中で高く評価されている。矢野さんの錦魚(きんぎょ)を巡るエピソードの中から、幾つか紹介しょう。
 高知市高須のお宅の玄関前に、特製の大きい丸型金魚鉢が今も置かれている。鉢の外側に「昭和61年7月 皇太子殿下 土佐錦魚御鑑賞記念」と掘り込まれている。皇太子時代の天皇陛下が、献血運動推進全国大会にご出席のため来高された際、須崎市の県水産試験場で土佐錦魚をご覧になった。矢野さんの遺品の金魚鉢は、その錦魚を入れるために、わざわざあつらえたものだ。
 矢野さんの奥さんの回想によると、「これだけきれいな魚を育てるには、随分苦労をしただろうね」と、お言葉があったという。矢野さんは「南国高知は日光、水、えさの三つの条件に恵まれているのが幸いしています」と、ご説明申し上げたそうだ。
 この時、侍従筋から「錦魚を献上しては」との内意が会ったが、矢野さんはお断りした。その理由は「あちらで飼育の準備が何もできていないので、今差し上げれば、錦魚は帰京されるまでにきっと死ぬ。死んだら、間に立った侍従がつらい思いをするだろう」だった。
 奥さんは述懐する。昭和50年の水害で矢野さん宅も床上1メートルほど浸水した。矢野さんは畳や家財道具を上げることを忘れ、流れ出た錦魚を追って、泥海と化した団地をあちこちさ迷った。
 「いい錦魚をつくるには、うんと殺生せんといかん」というのが矢野さんの口癖だった。殺生とは選別の際、「はね錦=不良品」をどしどし捨てることを意味する。「供養をせんといかん」と、観音像を買ってきたY氏(連載F)は他ならぬ矢野城桜さん、その人である。
(22) 田村広衛さん(上)
 田村広衛さんの日曜市の店から、私の二男が土佐錦魚(トサキン)を買ってきた。昭和33年ごろのことで、それが私の錦魚(きんぎょ)との出会いだった。
 それからというもの、私が田村さんの店で、日曜ごとに買っては次の日曜までには殺す。しばらくこれを繰り返していたところ、だんだん私の顔を覚えてくれるようになった。とうとう見兼ねたのか、ある日、田村さんが「今度の日曜に来てみいや」と言う。出掛けて見ると、用意した30匹ほどの錦魚を分けてくれた。錦魚と苦楽を共にする私の生活は、この時から始まった。
 私にとって初めての品評会の前日、田村さんはわざわざ私の家まで足を運び、あれこれ指導してくれた。品評会当日、審査員は田村さんら3人。私の錦魚は審査員の目に留まり、見事入賞した。今考えると、田村さんの指導もさることながら、私の初出品に花を持たせてくれたのだろう。
 日曜市では、田村さんから錦魚に絡むエピソードをよく聞かせてもらった。その一つ。
 高知市堀詰A錦魚が大好きな歯医者さんがいた。ある年、この先生の飼う錦魚が誰かに持っていかれた。その夏、台風で知り合いの塀が壊れた。
 その人から田村さんに「隣家になかなか立派な錦魚がおる。ちょっと見てみいや」と連絡があった。行ってみると、この錦魚は歯医者さん宅から盗まれたものだった。さすが田村さん、以前の品評会で見た、その錦魚の特徴をちゃんと覚えていたのだ。警察でも田村さんの話が証拠となり、錦魚は無事歯医者さんの元に戻ったと言う。
 大きさや形、色が同じような錦魚は、なまじっかの錦魚飼いの目にはどれも同じに見えて当たり前だ。田村さんの眼力には、ただただ恐れ入るばかりだ。
(23) 田村広衛さん(下)
 名人芸の人にありがちなように、こと土佐錦魚(トサキン)に関しては、田村さんは非常な凝り性で、小魚の選別でも何でも、完全に納得するまで何回もやり直した。
 奥さんの回想によると、こんなことがしばしばあった。田村さんが仕事に出掛ける前に、錦魚(きんぎょ)の世話をあれこれ奥さんに頼んでおく。帰宅して確認すると、期待通りにいっていない。かっとなった田村さんの手から、金魚鉢に水を汲むための洗面器が、奥さん向けて何度も飛んできた。たまりかねた奥さんが「離縁してほしい」と言ったとか、言わないとか、錦魚仲間でまことしやかにうわさされたものだ。
 さて、高知市下知地区出身で宮地啓次郎さんという人がいた。若い時、体が弱かった宮地さんは、田村さんに勧められて錦魚を飼いはじめてから健康になった。田村さんに引けを取らないほど、錦魚飼いの達人で、殊に尾のしわの手術にかけては名人だった。
 私が知り合いになった昭和35、6年ころ、宮地さんは大橋通の娘さんの嫁ぎ先という家で、好きな相撲の雑誌を読んだり、錦魚を飼いながら楽しい余生を送っていた。残念ながらそのころ耳が不自由だったので、私は飼育の極意を聞き出すことはできなかった。
 この宮地さんと田村さんの間で、もっと頻繁に意思の疎通が図られていたら、と今更ながら悔やまれる。
 田村さんには、何回目かの審査をお願いしたところ「私にとって最後の機会だから、誰も口を差し挟まないよう」といって、一匹一匹理論的に批評してくれた。翌57年も依頼にあがった時はお留守だった。亡くなったのは、その年だったと思う。
 品種固定された土佐錦魚を今日に伝えるのに、中心的な役割を果たした田村さんだった。
(24) 懐かしの仲間
 私が土佐錦魚(トサキン)を飼い始めたころ、アドバイスしてくれた一人、池沢さんから、金魚鉢の水深は21〜36センチ目安で、これより深いと錦魚(きんぎょ)が病気になるーなど、いろいろ習った。鉢の鋳型を貸してくれたのもこの人だった。
 私が参加した最初の品評会で知り合った御荘さんさんは,特徴のある錦魚を出品していた。御荘さんもあの田村広衛さんに「おまんには、もう錦魚は売らん」といわれた。私と同じ経験の持ち主だ。田村さんの日曜市で錦魚を分けてもらうと、次の日曜までには必ず死なせてしまう。また買う。やはり殺す。裏返しに言えば、私が知り合った頃の御荘さんは、こうした努力が実ったればこそ、ひとかどの錦魚飼いになっていた。
 土佐錦魚保存会の3代目会長で、土佐錦魚「生みの親」須賀亀太郎の長男、荘助さんには、県天然記念物指定を申請する際、須賀家に伝わる藩政時代の貴重な資料を貸していただくお世話になった。
 県外の飼育者にも熱心な人が多かった。中でも、京都の剣道家、小川範士と根元七段は特に印象深い。お二人とも、高知市で開かれた剣道大会に参加したとき、たまたま門田重彦さん自慢の「花子」に出会ったのがきっかけで、錦魚を飼い始めたという。
 お二人は剣道大会で来高する度に、私の飼育場も見学に訪れて勉強した。土佐錦魚は良いものが容易に出なくて、おまけに死にやすい。だからこそ、飼育に挑戦するファイトがわくんです」と熱っぽく話したことを懐かしく思い出す。その心意気に、私は「いごっそう精神」を見て取り、われわれ土佐人と同じ思い入れなんだなあ、とつくづく感じたものだ。
 どなたも、敬愛してやまない仲間たちであった。
(25) 健康の秘けつ
 最良の土佐錦魚(トサキン)は、最低二年間は飼ったものでなければ、一般の人には分からない。まる二年を過ぎた錦魚(きんぎょ)は尾の左右の先端の骨が、鳥が翼を広げた形で魚体の前のほうに突き出し、袋状になった部分がえらの直前に位置する。尾の広がりが左右対称で、これをバランスよく動かして泳ぐ。こんなのが理想の土佐錦魚だ。
 こうして錦魚を見ると、本来美しいものを愛する人は、その不思議な魅力に酔うに違いない。錦魚の飼育者は理想の、そのまた理想の錦魚を作り出そうと、日々努力を続けている。
 産卵から5日後に子魚が生まれるようにいろいろ手当てをする。生後4,5日で餌を与える。その後、選別を繰り返して、最良最高の錦魚に育て上げようと、10月ごろまで努力を重ねる。その後も、2年くらい懸命に世話しないと、専門家の鑑賞に堪え得る錦魚には仕上がらない。
 この間、これまで述べたように、水温、日覆いの管理やえさやりなど大変な苦労の連続だ。だが、飼育者はむしる苦労を愉楽と受け止めて、ただ優美な錦魚に育てたい一心で打ち込む。今年良い錦魚ができなければ、来年に希望を託す。どんなにして子魚を取ろうかと、明けても暮れても錦魚のことが頭を離れない。
 仕事でも趣味でも何かに熱中することは、健康で長生きする秘けつだと思う。長生きするには、何か目的を持つことが大切で、その達成に没頭すれば、つい月日のたつのも忘れてしまう。私の場合、錦魚を飼育して35年、趣味を持つことのありがたさを今更ながら痛感している。錦魚を飼えば早起きしておいしい空気を吸えるし、適度の運動にもなる。終生続けるつもりでいる。