研究会記事一覧

研究会記録へのリンク 会誌・特集テーマ等 主な共同調査・大会・シンポジウム等
設立準備期
(2002年度)
1号      
2003年度
2号
 
2004年度
3号:特集「四国遍路」
「四国遍路」共同調査,シンポジウム「四国遍路と地域社会」(共催)
2005年度
4号
「海部地方の民俗」共同調査
2006年度
5号:特集「海部地方の民俗」
地方史協議会第1回徳島例会に後援,「海部地方の民俗」共同調査,シンポジウム「海部地方の民俗」
2007年度
6号
地方史協議会第2回徳島例会に後援,地方史協議会第58回大会に協賛(高松)
2008年度
7号:特集「地神信仰」
「地神信仰」共同調査(アンケート調査),徳島地方史研究会・徳島地理学会・徳島地域文化研究会・考古フォーラム蔵本 第3回合同研究例会「暮らしのなかの祈り」
2009年度
 
 

※本研究会の年度は,各年の4月1日から3月31日です。

研究会記録(2002年度)

■第1設立準備会

2002年5月19日(日) 13:30〜16:30

徳島大学総合科学部文化人類学(高橋)研究室

参加者・・・近藤直也、森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の議題について検討が行われた。

 1)会の名称

 2)会の目的

 3)会員資格

 4)活動の拠点(事務局の位置)

 5)活動方針

  イ、例会の回数・場所・日時・プログラム、年会の開催について

  ロ、交流の問題(県内の隣接諸科学研究団体、全国各地の民俗研究団体、国外の民俗研究団体)、交流誌の保存・活用

  ハ、共同研究、行政調査への関与について

  二、ホームページ開設について

 6)会誌の問題

  イ、紀要の名称・形態などについて

  ロ、定期的な通信誌の発行について(回数・内容)

 7)経済的諸問題

  イ、会費について

  ロ、寄付金など資金源の確保について

 8)会則と運用

■第2回設立準備会

2002年8月3日(土) 13:00〜15:30

徳島県立博物館・講座室

参加者…近藤直也、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

 1)議題・決定事項の整理

 2)会の名称の決定→徳島地域文化研究会

 3)会則の検討

 4)会誌および会報

 5)第1回研究会

■第3回設立準備会

2002年9月7日(土) 13:00〜15:30

徳島県立博物館・講座室

参加者…高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)会誌『徳島地域文化研究』刊行計画→巻頭言、研究論文、調査報告、資料と通信、書評・新刊紹介、文献目録、研究会記録、会則、投稿規定・執筆要領、編集後記、奥付といった構成。

2)入会申込書、名簿の整理

■第4回設立準備会

2003年3月13日(木) 15:00〜16:30

徳島県立博物館・講座室

参加者…高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

 1)チラシ等の発送

 2)会誌の配布

 3)第1回総会・研究会

 4)その他

研究会記録(2003年度)

第1回研究会(2003/4/29)  第2回研究会(2003/8/3)  第3回研究会(2003/12/14)


■第1回総会および研究会

2003年4月29日(火) 13:30〜16:30

徳島県立博物館博物館・講座室

参加者…18名

◎総会

1)役員選出

 代表理事 近藤直也

 理事 森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

 編集担当 高橋晋一

 事務局・会計担当 庄武憲子、磯本宏紀

2)会長挨拶(近藤直也)

3)事務・会計連絡

4)その他連絡

◎研究発表1

 発表者:庄武憲子(徳島県立博物館学芸員)

 発表題目:「徳島県の盆棚」

[発表要旨]

 会誌第1号掲載の「徳島県の盆棚」の記述に基づく発表をした。

 盆棚をめぐる研究史では、柳田国男の「先祖の話」以来、盆にまつる、先祖・新仏・無縁仏の三種の霊の位相をめぐる議論が展開されてきた。その議論の中に、全国各地の盆棚の様式を比較検討する方法があり、徳島県で見られる盆棚をめぐる習俗が度々とりあげられてきた。このような状況を受け、徳島県内での盆棚の事例をとりまとめ、特徴を見出し考察することを試みた。

 徳島県内の盆棚の事例を先祖、新仏、無縁仏とまつる対象ごとに区分して見ていった結果、特徴として、盆の新仏のまつりと葬送儀礼との重なりが見られること、また、新仏の供養として仏教行事の盆施餓鬼会が結びついていることを窺わせる事例がみられることがあげられ、盆棚で新仏をまつるにあたっては、柳田が指摘した、死者に対する「死穢への恐怖」があり、「死穢への恐怖」を強く感じる新仏のために仏教行事の盆施餓鬼会を行うことを取り入れ、無縁仏のまつりも行うようになった流れが、盆行事にあったと考察した。

 二つめに、先祖のまつりも本来屋外でまつられていたと考えられる特徴があげられ、先祖ももともとは新仏と同様に「死穢への恐怖」を感じるものと考えられていたとし、後押しするものとして、屋内でまつる先祖の霊の前に、おおいをするという事例が由岐町と海南町でみられることをあげた。

 まとめとして、盆棚とまつる霊の本来が何であったかと考えた場合、「死穢への恐怖」を生者に抱かせる、死者の霊全般を区別せず、屋外でまつっていたのが本来であったと結論付けた。今後、盆棚の習俗と葬送儀礼の比較が必要であることを述べた。

(文責・庄武憲子)


◎研究発表2

 発表者:近藤直也(九州工業大学情報工学部教授)

 発表題目:「『死人の正月』の発見−愛媛県新宮村に於けるタツミの意味ないし墓前の設備などについて」

[発表要旨]

 今から10年ほど前に、新宮村のほぼ全域にあたる28地区で、いわゆる仏の正月の聞き取り調査を行った。ここで得た資料を基に、その行事の全体像を浮き彫りにする作業を行った。すべての項目を網羅するにはまだ充分でないため、今回は全体の4分の1程度の分量に抑えた。今後、3・4回にわたって本誌に連載する予定である。今回は、副題にもあるとおり、タツミの意味や墓前の設備をはじめ、行事の名称・タツミの案内・墓に立つ門松・注連縄と注連飾りの事柄に焦点を当てながら、タツミの本質を探る一助とした。

 「行事の名前」では、圧倒的にタツミの名称が多く、日取りは専ら12月の最初の辰の夕方からミの日の夜明け前後に行われていた。以上の事柄から、日取りがタツミという行事名に大きく影響している事を明らかにした。

 「タツミの意味」では、新仏サンのお正月と説明する所が圧倒的に多かった。しかし、「新仏」とは元来初盆の概念であり、タツミの場合曲りなりに「正月」を意味する点から、「新仏」では納まりが悪い。また、一般的に言われる「仏の正月」では、1月16日の「念仏の口開け」と混同しやすい。そこで、両者の矛盾を克服するべく「死人の正月」を分析概念として採用する事を提唱した。この背景には、「死人」から「仏」への通過儀礼としての意味を反映させたいという狙いがあった。子供の「初正月」または「初誕生」の儀礼に相当するものが、死者に対してもあって当然であるし、また無いほうがおかしいのではないかという事をここで考えてみた。

 「タツミの案内」では、原則として親戚に案内を出すものではない事を明らかにした。これは、親戚の人々が普段から気をつけていて、死んだ年の12月の最初のタツとミの日は、死者に対して正月を祝う行事があるものという大前提があったからである。村人たちは、タツミの家から何の連絡がなくても、押しかけてでも行く事が礼儀であった。これは、「あなたの家の人の死を私はずっと忘れずに、心の中で死を悼んでいましたよ」という意味の意思表示となる。死人を出した家がもし連絡などをすれば、死人の正月に参加する事を強要しているようで不躾と見做す人々の価値観を明らかにした。

 「墓前の設備」では、死人を対象とした正月らしく、墓前に注連縄・門松・ワカバが三大必須アイテムであった事を明らかにした。なかでも「墓に立つ門松」では、死人の正月であるため、普通の正月の門松との差別化が見られ、芯松ではなく枝松、三蓋ではなく一蓋または二蓋としている点に注目した。

 「墓前のシメ縄とシメ飾り」では、注連縄の下がり(オシメの足と土地の人々はいう)が、正月では七・五・三である場合は意図的に少し違えて一・五・三にし、普通の正月で一・五・三の場合は四・二・三または四・二・四とここでも差別化がはかられている点を明らかにした。特に、四・二の数は「死に」に通じ、常には忌避されるのであるが、これを敢えてここに持ち出す点に、何らかの意図が隠されている事に注目した。ウラジロも常の正月とは表裏が反対になっており、ワカバも葉の付け根が赤いものではなく、敢えて白いものを選んで注連縄に差し込んでいる。これをイヌワカバと呼ぶが、イヌとは似て非なるもの、劣るもの、無駄なもの、卑しめ軽んじて下らないものという意味を言外に含み持っている。「正月」とは言うものの、祝うものの対象が死人であってみれば、不祝儀で悔やみ事であることを演出するために、門松の蓋の数をはじめシメ縄の足の本数をはじめウラジロ、ワカバの細部に至るまで様々に死者を連想させる仕掛けが施されていた事を明らかにした。

(文責・近藤直也)

■2003年度第1回打ち合わせ会議

2003年6月8日(日) 18:30〜19:30

徳島県立博物館・講座室

参加者…高橋晋一・庄武憲子・磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)会誌第3号(2005年3月刊行予定)の特集テーマについて→「四国遍路」に決定。

2)共同調査

3)研究会ホームページ


■第2回研究会

 2003年8月3日(日) 16:30〜18:00

 徳島大学総合科学部1号館305講義室

 参加者:14名

◎研究発表1

 発表者:中野紀和(萩国際大学国際情報学部助教授)

 発表題目:「変貌する都市における記憶─民俗調査の現場から」

 [発表要旨]

 急激な変化を遂げる現代社会のなかで、民俗調査と現場とのズレに戸惑う声をよく耳にする。聞き取り調査において、教育やメディアによる知識が介入している状況に出会うことは多い。おそらくこの状況は今後ますます加速することと思われる。生活のあらゆる事象が変化のなかにあり、その変化の担い手の動態を明らかにするために、ミクロなレベルでの民俗生成の動きを、祭礼のなかで対象化し、それが地域社会における民俗の動態にどのようにつながるのか考えてみたい。

 小倉祗園太鼓は八坂神社の夏季大祭であり、すなわち神社祭祀であるが、現在は神社自体が資本との関わりのなかで揺れ動き、カミなき祭りの様相を呈している。宗教性の希薄化に対し、祭礼の中心的組織になったのが、小倉祗園太鼓保存振興会である。それに伴い、1980年代以降は企業や有志の存在が大きくなっている。町内に代表される旧来の参加者層と小倉内外から集まる新しい層の間では、祭礼の主導権をめぐって激しい葛藤が繰り返されている。

 祗園太鼓は始まった当初から現在のような形態をとっていたわけではない。江戸時代はお囃子や当番町による踊り屋台、山車や踊り子が登場する「まわり祗園」が中心で、太鼓は一本の六尺棒につるされており、それを前後に担いで歩きながら打ち、自分の町内をまわっていたが、けっして今のような太鼓が主役の祭礼ではない。幕末から明治にかけての動乱で、曳きものの舞台人形や踊り屋台など祭礼道具が失われ、町内をまわっていた太鼓が行列に参加し、山車の前後に入り込んでくる。明治中期には太鼓は山車の前後に据付けとなり、現在のような太鼓が前面に出る形ができあがる。1958年(昭和33)の文化財申請の際には今日の「小倉祗園太鼓」という名称で申請されている。

これらは町内単位での参加が基本であり、メンバーは「正調」といわれる打法を町内の年配者から教わり、町内ごとに腕を競う。それゆえに「祗園は町内のもの」と主張し、この打法を習得できる町内こそがイニシアティブをとるという意識が強い。このような立場を1)とすると、近年では「祗園は町内のもの」と言いながら、それ以外の参加チームも認める2)の立場も登場する。2)の立場は、参加者は「小倉城下の町内」というこれまでの空間規定をなくす。さらに、「正調」を基盤としつつも創作も受け入れるという立場をとる。小倉で生まれ育った10代から20代の若者層にこの立場の者が多い。親は1)、子どもは2)という場合も多い。このような動きは、さらなる新たな参加者を生み出し、「正調」を基盤としつつも、見せることを意識した創作主流の若者層3)の出現を促すことになった。この報告では3)についての詳しい言及はしていないが、土地を離れた抽象的な和太鼓へと変貌していていくことが考えられる。

 本発表で注目したのは2)である。1)のような歴史性を帯びた実際の空間(space)を実感しにくい均質化の進む都市で育った居住者に、「小倉」という場所性が確認されていることを、打法をとおして明らかにした。彼らは「正調」を軸にしつつも音楽(パフォーマンス)としての要素を取り込み、外部世界の価値観に照らし合わせながら地域伝統を創りだしていく。その際に、衣装や舞台上のパフォーマンス等のなかに、地元が舞台となった映画の人物を巧みに取り込んでいく。同時に打法の型や人間関係を通して、歴史性を強調する1)とのつながりも意識する。

 1)とのつながりを意識するのは、逆説的に、空間としての「小倉」を描くことのできる1)の立場と、2)の間につながらない断絶があることを示している。だからこそ、2)の立場は打法の微妙な型の相違を見分け、そこに1)とのつながりを見出そうとする。それは関係的、主観的なものであるが、そこにある種の共有される感覚の創造をみてとることができる。祗園太鼓が地域内に閉じるのではなく、グローバル化が進むからこそ、小倉の独自性につながる何かを求めようとする。祗園太鼓における打法の習得とその意味付けは「小倉」を体験し身体化していく過程なのである。そして、民俗学において生成される都市の民俗を捉えようとするとき、このような都市居住者たちがその内部から生じさせる動きにこそ注目する必要があると報告者は考えている。

(文責・中野紀和)

■第3回研究会

 2003年12月14日(日) 15:00〜17:00

 徳島大学総合科学部1号館・ゼミナール室

 参加者:14名

◎研究発表1

 発表者:磯本宏紀(徳島県立博物館学芸員)

 発表題目:「潜水漁と漁場認知─伊島の事例から」

 [発表要旨]本発表では、2003年5月より継続している伊島の潜水漁と村落空間、環境利用に関する調査にもとづいて報告し、調査結果を整理した。大きくわけると、「漁期と生業複合」「共同漁場管理と利用」「潜水漁における漁場利用をめぐる言説」の3点について報告した。それを踏まえて、潜水漁における漁場利用の共同性と個別性に関する分類を試みた。

伊島における潜水漁は、建網漁、釣り漁など他の漁種と組み合わせることにより経済性を確保し、生業として成立させている。また、男性の多くが海上での生業に従事するのに対し、女性は山の畑での耕作や、磯での貝類藻類拾いなど陸上での生業に携わる。したがって、伊島の場合潜水漁は、男性が海上から、女性が陸上からという環境利用に大別できる。次に、共同漁場管理として、稚貝放流、オシアゲ慣行、伊島専有海域のヤマミ法を例示し、潜水漁における海上での環境利用の共同性を指摘した。

 他方で、潜水漁を行う際には個別での作業が前提となる。ヤマミをして海上での共同漁場での空間を特定して生業をはじめる。しかし、ひとたび潜水漁を開始すると、もはや個別の体力、漁場認知、技術によってのみ漁は成立する。ここでは、潜水漁従事者の言説を資料として、海底における個別の漁場の存在、またその場所への他者の不干渉を提示した。

 整理すると、潜水漁における海上での漁場の共同性、共通理解があるのに対し、海中の実際の漁場での個別性、個別認識を指摘でき、これを環境利用の水平的共同性、垂直的個別性と分類した。

 課題も残った。個別性の理解のために、共同認知のための手段でもある「言説」のみを資料としていた点で、十分な理解が得られるとはいえない。この点に関してはインフォーマントらに空間の個別認知の図化作業、詳細な空間に関する聞き取り等で補う作業を進めていくことで論証を試みようと考えている。

(文責・磯本宏紀)

◎研究発表2

 発表者:日野智子(徳島大学大学院人間・自然環境研究科人間環境専攻 修士課程二年)

 発表題目:「香川県佐柳島における両墓制の変容」

 [発表要旨]

 日本民俗学において両墓制研究は、まだ両墓制の術語が成立していないうちから注目されていた。大間知篤三によって両墓制という術語が確立されると、両墓制研究は活況を呈することとなった。しかし、現在までに膨大な研究が残されてきたにもかかわらず、両墓制は未解決の問題を多く残している。そして現在では両墓制をめぐる環境は大きく変わり、両墓制という制度自体の崩壊が起きてきている。それに伴い、両墓制研究もなぜ両墓制が崩壊したのかという問題を取り扱うようになった。本報告では、香川県仲多度郡多度津町佐柳島を事例に、両墓制が崩壊する論理、持続する論理を考察した。

 佐柳島の墓地は、集落に隣接する形で設けられており、集落に近いほうから詣墓、埋墓と並んでいる。両墓の並びは福田アジオの分類に従えば両墓隣接型に分類される。現地での両墓の呼称は埋墓はウメバカ、詣墓はセキトウ・セキヒとなっている。墓参りは両墓に対して行なわれる。また、佐柳島の伝統的な葬法は土葬である。

 佐柳島の伝統的な葬法・墓制が移行していくきっかけになったのは多度津町の火葬場の建設である。これにより、佐柳島でも火葬の選択が可能となったが、土葬は禁止されなかったため、佐柳島では火葬か土葬か、葬法を選択する必要が出てきた。そして、葬法の選択とともに、墓制も選択できる可能性が出てきたのである。

 実際に佐柳島では、どのように葬法・墓制を選択したのか。まず、葬法の選択とその論理を見ていくと、火葬を選択する論理は管理者の利便性の追求の結果であること、土葬を選択する論理は伝統的な遺体観が根底にあることがわかる。また墓制の選択とその論理は、単墓制を選択する論理は管理の利便性の問題、両墓制を選択する論理は伝統的な祖霊観・遺体観を重視した結果によるものである。

 佐柳島の葬法・墓制は土葬・両墓制→火葬・両墓制→火葬・単墓制へと移行していったが、佐柳島のすべてのイエの葬法・墓制がこのような変遷過程をたどったわけではなく、実際にはそれぞれのイエごとに、最適と考えられる葬法・墓制が判断、選択されていったのである。

(文責・日野智子)

■2003年度 第2回理事会

2004年3月21日(日) 18:30〜19:30

徳島県立博物館・人文研究室

参加者…高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容で検討された。

1)会誌印刷代の支払いについて

2)会誌送付計画について

3)次回研究会について

4)次回総会について

5)研究会ホームページについて

6)会誌3号特集「四国遍路」について

7)会の活動について

8)その他 


研究会記録(2004年度)


2004年度会議記録   第2回総会および第4回研究会(2004/5/2)  第5回研究会(2004/8/29) 

第6回研究会・公開シンポジウム「四国遍路と地域社会(2004/12/5)


■2004年度 第1回理事会

2004年11月14日(日) 16:00〜17:30

徳島県立博物館・講座室

参加者…森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容で検討された。

1)公開シンポジウム「四国遍路と地域社会」について

2)会誌3号の編集について

3)会誌4号について

4)次回研究会について

5)研究会の会計について

6)その他

■2004年度 第2回理事会

2005年3月6日(日) 14:00〜15:00

徳島県立博物館・・講座室

参加者・・近藤直也、森本嘉訓、高橋晋一、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

 1)会誌『徳島地域文化研究』3号について

 2)会誌次号『徳島地域文化研究』4号(2006年3月発行予定)について

 3)今後の会誌編集方針について

 4)次会総会・研究会の開催予定について

■第2回総会および第4回研究会

 2004年5月2日(日) 15時10分〜17時30分

 徳島大学総合科学部1号館1階北棟・ゼミナール室1

 参加者:13名

◎総会

 1)会長挨拶(近藤直也)

 2)役員選出

  代表理事 近藤直也

  理事 森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

  編集担当 高橋晋一

  事務局・会計担当 庄武憲子・磯本宏紀

 3)事務・会計報告

 4)その他連絡

2004年5月2日(日) 15時10分〜17時30分

 徳島大学総合科学部1号館1階北棟・ゼミナール室1

 参加者:13名

 発表者:細倉和樹(徳島文理大学大学院)

 発表題目:「『醒睡笑』と『宇治拾遺物語』比較」

[発表要旨]

 本発表は『醒睡笑』を底本資料として収録されている話を調査すると共に『醒睡笑』よりも古い時代の作品に収録されている話、その中で今回は『宇治拾遺物語』を比較し話の類似性を見つけ出し、そこから編集背景や『醒睡笑』が成立した当時の笑いの意識を探ろうと試みた。

 『醒睡笑』とは浄土宗の僧侶であった安楽庵策伝が青年期の布教活動の際に用いた笑話を当時の京都所司代、板倉重宗の勧めなどにより、1623年(元和九)に八巻八冊にまとめ、1628年(寛永五)に重宗に献呈されたものである。特色としては同時代の『戯言養気集』や『きのふはけふの物語』などと比較するとこれらが二百話程度であるのに対して『醒睡笑』は1030話余りを収録している。また比較対象である『宇治拾遺物語』は鎌倉初期に成立したとされる説話集である。
 『宇治拾遺物語』には『醒睡笑』多くの類似した話が見受けられ、ほぼ同じ話である「同一型」、何らかの補いが見られる「補成型」、一つの話が分割された例である「分割型」、話が短くなっている「短縮型」と四タイプを示した。「同一型」は『醒睡笑』巻之三・清僧の七話と『宇治拾遺物語』巻九の二話「宝志和尚影事」の例。「補成型」では『醒睡笑』巻之四・唯ありの二四話と『宇治拾遺物語』巻五の一話「四宮河原地蔵事」を挙げ、『醒睡笑』では歌が補足されていた例。また「分割型」では『醒睡笑』巻之一・謂へば謂はるる物の由来の二一話と『醒睡笑』巻之六・推はちがうたの三五話が『宇治拾遺物語』巻一の三話「鬼ニ瘤被取事」の分割した形をとっている例。そして「短縮型」として『醒睡笑』巻之二・賢だての一二話は『宇治拾遺物語』巻一五の一〇話「秦始皇自天竺来僧禁獄事」の短くなった話である例を挙げている。
 『醒睡笑』の序文に「策伝某小僧の時より耳にふれておもしろをかしかりつる事を反故の端にとめ置きたり」と記されており収録話は口承によると策伝自らが示しているが、他作品との比較により書承による収録も伺える。この笑話の変遷を踏まえて戦国期から江戸初期の民衆の「笑い」という感情の観念を考える事ができるのではないかと考える。なお『醒睡笑』は笠間書院発行の静嘉堂文庫版、『宇治拾遺物語』は岩波書店発行の古典文学大系本を使用した。
(文責・細倉和樹)

◎『徳島地域文化研究』第2号についての意見交換

  (ここでは主要な質問・意見のみ掲げた)

1)研究論文についての質問・意見

・高橋晋一「地神塔と三神塔」について、地神塔についての先行論文には、三神塔について述べたものはなかった。価値ある論文であると思う。今後、『徳島地域文化研究』掲載の研究論文の位置づけをより明確にするた めに、それぞれの論考に対するコメントを付ける方向を考えた方がいいのではないか。

・近藤直也「魔または聖なる時空としてのタツミ─愛媛県新宮村における新仏の正月の事例(タツの夕方から墓へ行く直前までの詳細)から」に ついて、「タツミの正月」の分布地域と大西覚用(?〜1578年)の 勢力圏と重なりがあるように思うがどうか。

2)調査報告についての質問・意見

・高橋晋一「新仏を祀る盆棚─徳島県美馬郡半田町の事例より(続報)」について、実際に棚で祀りを行っているのは盆のいつか。

─半田町では、8月14日に行うのが本来の形と考えられている。

3)その他会誌の内容についての質問・意見

・小野光晴「四国における『首切れ馬』伝説の分布」について、分布図には記載されていないものが、まだあると思われる。データの一覧は貴重な資料となるので、続けて作業を行ってもらいたい。また、「首切れ馬」 と「夜行さん」については、明確に分類する必要があると思われる。首切れ馬は興味深いテーマなので、今後の研究を期待する。

・庄武憲子「那賀川町の猿幟」について、鹿児島県の指宿では「ヨモンザイ」という括りザルを幟の下につける。また、大阪府の祭礼の神輿に、猿幟と同様の猿をつけ下げている例があった。香川県伊吹島では、3月節供に、那賀川町の猿幟と類似した幟をあげている。

(文責・近藤直也)


■第5回研究会(神山町での石造物見学会)

 2004年8月29日(日) 13時30分〜16時

 神山町農村環境改善センター(名西郡神山町神領中津132)

 講師:大粟玲造(神山町史編集委員)

 参加希望者:11名

※当日、台風接近のため中止。当日配布予定であった資料は以下のとおり。


神山の石造文化を訪ねて(神領大埜地地区)      

                                                      大粟 玲造

1)一石五輪塔  二基 向かって右(北) 高四七・五センチ

           向かって左(南) 高五〇センチ

 板碑       一基 高六六センチ 巾二七センチ 厚三センチ

           阿弥陀三尊種子

 おふなとさん

2)板碑       一基 高五二・五センチ 巾一九・四センチ 厚二・五センチ

            阿弥陀三尊種子

 庚申塔      一基 笠付形 四手 二猿 二鶏

            おのじみやう 宝永六年(一七〇九)

            猿の位置

 一石五輪塔   一基 高四二センチ

3)五輪塔      三基 高一二二センチ 天和三年(一六六八)

            七八寂

            高一三三・八センチ 三月十四日菩提是也

4)古い井戸     文化年間(一八〇四〜一七) 分間地図

 地蔵        像高三八センチ 蓮華座一七センチ 台石高三二センチ 延享五年(寛延元年)(一七四八)

            (文化六年神領村棟付御改帳)

            高橋源藏 御鉄砲小頭 歳四十五 ・・・椎茸作方裁判人ニ被仰付・・

5)宝篋印塔    中世? 塔芯なし

 五輪塔      たくさん 古い形 大そてつの中

 五輪塔      二基 高九〇センチ  砂岩

           高一〇八センチ 花崗岩

           (町指定文化財)

 一石五輪塔   高五二センチ

 板碑      高三八センチ 巾二〇センチ 厚さ二〇センチ

          下部欠

6)長法寺    阿川勧善寺大般若経(県指定文化財)

          第五八・五九・六〇巻の奥書

          嘉慶第二林鐘二二日長法寺住僧 良意

 地蔵      像高六三センチ 台石高三九センチ 巾四一センチ

          宝暦一三(一七六三)癸未三月日

          名西郡神領村長法寺 願主 智年尼

 庚申塔    文化七年(一八一〇)三月 六手 三猿二鶏 一鬼  尾野地名

 五輪塔    二基 (東) 高六九センチ 砂岩? 赤みあり

          (西) 高九九センチ 花崗岩

 ヒノキ     町指定名木

 庵       特異な建物 本尊 阿弥陀如来

 大谷      益田豊後 幽囚

7)六地蔵    一石二段 六体 年号なし

          高四三センチ 巾二〇センチ 厚(上部)八センチ

          (下部)一三センチ

          宝暦八(一七五八)戊寅年十二月六日

          甲寅 五才 為菩提也

 宝篋印塔   文化十一(一八一四)甲戌十月十四日

          一切聖霊生極楽

          菩提行願不退転

          一切如来心秘密全身

          舎利宝篋印陀羅尼・・・(以下梵字)

 半鐘銘     大野地名□□氏子中

          天保二卯年(一八三一) 七月十六日

          実相本然

          四月二十五日 玉蓮公□童子

          九月十八日  宇太郎童子 喜代太

          浮大法船信士 浄心代彫 虎之助彫之

8)道しるべ   明治廿三年丑年正月

          右 焼山寺道 四十三丁

          世話人 上岡久米吉

          上山村ちの名 原 元右

          東一のみやみち 四ツ八丁

          西つるぎ山みち 七リ

          高八二センチ 巾(上部)三九センチ (下部)

          二九センチ 厚(上部)三五センチ(下部)二九センチ

9)五輪塔    高五二センチ 凝灰岩

 おふなとさん

10)供養石    文政十三寅天(一八三〇) 庚六月吉日

 狛犬      明治廿二年 世話人 響 織太 北尾喜太郎

 地神塔     明治廿六年巳二月吉祥日 大野地名中

 スギ       町指定銘木


■第6回研究会 公開シンポジウム「四国遍路と地域社会」

 徳島地域文化研究・徳島地理学会共催、徳島大学後援

 2004年12月5日(日) 13時30分〜16時30分

 徳島県郷土文化会館5階小ホール

 会場運営係以外の参加者…125名(徳島地域文化研究会会員13名、徳島地理学会10名を含む)

[プログラム]
 13時30分 開会の挨拶
 13時35分 高橋晋一(徳島大学総合科学部・助教授)
        「四国遍路へのアプローチ─巡礼者からの視点/地域からの視点」
 13時50分 平井松午(徳島大学総合科学部・教授)
        「阿波五街道の成立と遍路道の定着化」
 14時20分 稲田道彦(香川大学経済学部・教授)
        「納経帳から見た遍路道の変更」
 14時50分  休 憩
 15時10分 萩原八郎(四国大学経営情報学部・助教授)
         「お遍路さんへの経済効果アンケートから」
 15時30分 水野一典(徳島地域文化研究会会員)
        「接待講の諸相」
 16時00分 浅川泰宏(日本学術振興会・特別研究員)
        「地域社会の巡礼者認識─『オヘンロサン』と『ヘンド』について」


◎研究発表1

 発表者:高橋晋一

 発表題目:「四国遍路へのアプローチ─巡礼者からの視点/地域からの視点」

[発表要旨]

 近年、さまざまな学問分野から四国遍路にアプローチがなされているが、そうした一連の研究は、「歴史的視点からの研究」「現代的視点からの研究」に大別できる。歴史的な視点とは、四国遍路を過去から現代に受け継がれた文化遺産として見る見方、現代的視点とは、四国遍路を現代の生きた文化現象として見る見方のことを言うが、近年徐々に後者の視点からの研究が増えてきている。
 また、これまでの四国遍路に関する研究を、ゲスト=巡礼者(巡る側、遍路)に焦点を当てた研究と、ホスト=巡礼者が訪れる地域(巡られる側)の側に焦点を当てた研究という二つのカテゴリーに整理し直すことも可能であろう。巡礼者を迎え入れるホスト(地域)は、具体的には、札所、遍路道、宿泊施設、地域住民などから構成される。
 巡礼者=ゲストに焦点を当てた研究の例として、巡礼者の属性、巡礼に出る動機、巡礼者の行動、巡礼者の心理に関する研究などが、また地域=ホストに焦点を当てた研究の例として、札所の歴史や立地、遍路道の形成過程、巡礼者の宿泊施設、地域住民と「お接待」、地域住民の遍路観、四国遍路の経済効果、四国遍路と地域づくりに関する研究などが挙げられる。ゲスト研究に比べ、ホスト研究の蓄積は多くない。特に、現代的視点からホストにアプローチした研究はまだ少なく、今後の課題と言えるが、本日のシンポジウムは、とくにこのホスト=地域社会の視点から四国遍路にアプローチしようというものである。
 なお、ゲスト(巡礼者)/ホスト(地域)に加え、両者の間をつなぐ「媒介者」の存在も看過できない。現代社会において、マスメディア、旅行業者、先達など媒介者の存在が、ゲスト/ホストの行動様式に少なからぬ影響を及ぼしている(同時にゲスト/ホストの動きが媒介者に影響を与えている)ことは間違いない。
 このように、四国遍路をゲスト(巡礼者)/ホスト(地域)、両者をつなぐ媒介者という三つの要素が相互に作用し合うことによって絶えず変化し続ける動態的なシステムとしてとらえ直すことによって、四国遍路の姿をよりダイナミックにとらえる視座が得られるのではないだろうか。
(文責・高橋晋一)

◎研究発表2

 発表者:平井松午

 発表題目:「阿波五街道の成立と遍路道の定着化」

[発表要旨]

  国文学資料館史料館の蜂須賀家文書「阿波国海陸道度之帳」(正保四年(1647))には、川北本道(撫養街道)、淡路本道、讃岐本道、伊予本道、土佐本道が記されている。その内容は、前年12月作成の正保度阿波国絵図(史料館所蔵)と合致することから、正保三年までに徳島城下を起点とする「阿波五街道」が成立したとみられる。
 こうしたミニ五街道の成立は、島原の乱を契機とした幕府の交通政策のあり方や、さらには寛永一五年(1638)の阿波九城の破却と、それに伴う翌一六年頃の徳島城下町の再編や同一七年における郡奉行制度の導入、正保元年(1644)以降における国境における「口留番所」の整備などとともに、領国経営再編の一環として位置づけることができる。
 一方、徳島藩では慶長三年(1598)には主要街道沿いに駅路八ヶ寺を設け、「当寺(駅路寺)之義往還旅人為一宿令建立候之条専慈悲可為肝要或辺路之輩或不寄出家侍百姓等行暮一宿於相望者可有似合之馳走事」(『阿淡年表秘録』)とあるように、「遍路」に対して寛容な政策がとられた。しかし、当時の遍路道は「巡礼の道すじに迷途多おほきゆへに十万の喜捨をはげまし、標石を建おくなり、東西左右のしるべ并施主の名字彫刻入墨せり」(宥弁真念『四国遍礼道指南』、貞享四年(1687))といった状況であった。高野聖とみられる真念が活躍した17世紀中半は、阿波五街道が整備された時期であり、その後に活躍する武田徳右衛門、照蓮、中務茂兵衛らによって多数の遍路道標が建立され、近世期に遍路道の固定化が図られたといえる。
 徳島藩による阿波五街道整備が公的機関によるものとすれば、遍路道の整備は喜捨を功徳とする修行僧や民衆によったものである。他方、平地部の遍路道は概ね阿波五街道と一致しており、阿波五街道の整備が近世期における遍路の隆盛(大衆化)の一端を担ったとも言えるのではないだろうか。

(文責・平井松午)

◎研究発表3

 発表者:稲田道彦

 発表題目:「納経帳から見た遍路道の変更」

[発表要旨]

一 はじめに
 一般に信者が寺院を参拝し寺院に経を納める行為を納経という。そして寺が参詣し納経した者に受け取りとして寺の宝印等を押し本尊名や寺号等を記した紙を綴じた帳面が納経帳である。納経は参詣者が自ら写本した経典を納めるものから、読経によって口頭で経を納める形など形態はいくつかある。現在では参詣して読経して納経することが一般的である。逆に考えると、納経帳は庶民の残した四国遍路の旅の記録として扱えるのではないかと考えている。納経帳に記載されている遍路の巡礼路を調べると、当時の遍路の旅がトレースできるのではないかと考えている。道中日記などを残さなかった庶民層の遍路の旅を知ることのできる一つの資料となるのではと思い、各地で納経帳を見せてもらった。それが表1(当日配付資料)である。表1のように閲覧可能な納経帳を調べた。その中で、ある時期の納経帳にきわめて妙な納経印がおされていることに気づいた。
 それは「土佐十七ヶ寺遙拝処」という納経の記述と宝印である。この一頁分の納経で、土佐国一国分の巡礼を果たしたことを意味しているというのである。土佐国に参らない四国遍路が出現した。四国を回るから四国遍路といい、八八の寺院を参拝して回るのが遍路であると思っていた。その前提に従わない遍路がいたことは、一体四国八十八箇所とはどういう巡礼で、何に参拝するのか、前提に関わる問題を提起しているのではないかと思い始めた。四国八十八箇所の聖地とは何なんだろうか?
 私が調べた範囲では、表紙に嘉永二(1849)年と嘉永三(1850)年と書かれている納経帳は四国を巡礼していた。しかし嘉永四年(1851)年に四国遍路の旅に出た吉田屋伊輪氏の残した納経帳の記載から、特異な遍路の旅が始まる。現在の納経帳のスタイルと違って、当時の納経帳には何年何月何日に納経したのかという日付を書き込む寺院が多数あった。吉田屋伊輪氏は表紙に嘉永二二年と書いている。また寺側が納経の日にちとして記した年月より、嘉永四年(1851・亥年)と安政四(1857)年に遍路の旅を行っている。ただし、ここでの議論は納経帳への記帳は参詣した順番に前の頁から順に記帳したという前提にたって、論を進めている。一部紙をとばしたあとで、ひっくり返って納経してもらうという多少の事例を含んでいることを認めた上での議論である。
 吉田屋伊輪の納経帳の最初頁には、香川県多度津にある第七十七番の道隆寺から遍路をはじめている。それから、香川県を東回りに回る巡礼を行い。結願寺八十八番大窪寺を過ぎて、徳島県にはいり、一番霊山寺から番号通りに札所寺院を参拝し、二十三番薬王寺の後、高知県に入り、第二十四番土州東寺の納経を亥年3月5日に行っている。そして突然旅を中止している。これで嘉永四年の遍路の旅を終了している。彼女は2回目の遍路行を安政四年巳年11月8日に、阿波国の番外寺院箸蔵寺より再開している。箸蔵寺は当時金比羅宮の奥の院と言われた寺院で、阿讃国境の山岳寺院である。その後彼女は阿波・讃岐・伊予三国境の位置にある寺院の雲辺寺を過ぎ、そして吉野川を遡り、愛媛県の番外寺院である仙龍寺で納経を受けた。法皇山地を越えて、瀬戸内側を西に行く。そして六十番の横峯寺を過ぎて第四十四番大宝寺の納経を次に行う。このコースは横峯寺の南側の石鎚山を越える山道を通ると大宝寺へ至る道になる。それから北の松山へ向かう道を取る。四十七番八坂寺を過ぎてから、第四十二、四十一、四十、四十三の南伊予にある寺院で納経を受けていることになっている。但し実際の寺院には赴かないで代理の寺院での納経である。四十二番は仏木寺に代わって文殊院、四十一番は龍光寺に代わって円福寺、四十番は観自在寺に代わる真蔵院光明寺、最後に四十三番は明石寺ではなく伊予八幡山神宮寺がそれぞれ納経印をついている。その後松山平野を過ぎて伊予路を東に向かい、西讃岐の寺々を参詣し遍路を終えている。
 この事例が遍路の巡礼路の問題として提起している点は、‡@土佐国へ入国しないことと、その代替措置として、土州十七ヶ寺の納経印を押す寺院が出現したこと。‡Aその後遍路は阿波路を引き返し、讃岐阿波伊予三国境にある雲辺寺をめざす巡礼路を取る。吉野川を遡る経路か山を越えていく道を取ったかはまだ分からない。‡B阿波から東伊予を西に進んだあと、横峯寺の後に石鎚山を越えた位置にある大宝寺の山越えをするコースをとった。‡C土佐国と同じく南伊予にある四ヶ寺を遙拝するという四つの寺院で納経印を受けている。これが従来の遍路の巡礼路と大きくはずれている点である。正しい巡礼路を守っている納経帳の最後の事例が、嘉永三年(1850)であり、再開は明治七年(1871)である。この巡礼経路からの逸脱が見られるのは嘉永四年から明治四年までである。このような巡礼路変更が行われた正確な時期についても疑問点としてあげられる。

二 納経帳にみる遍路の巡礼路の変更の可能性
 これと同じ経路をたどる納経帳を探した。表1(略)のように、現在まで八八冊の納経帳の既述等を調べた。この中で先に述べた吉田屋伊輪氏と似たような巡礼経路を変更したものは、私が見ることができた安政五年以降の計11冊の納経帳の全部に伺える(表1)。しかもこの期間の前の嘉永三年までの納経帳とこの期間以後の明治七年以降の納経帳は札所の順番通りに四国全土を一周している。11冊に限り、共通の巡礼路の変更が見られる。表2のように、この間に巡礼を行った遍路の納経帳全てに以下の特徴が見られる。繰り返すと、前記‡@の土佐国入国と‡C南伊予の参詣を果たしていない。‡Aと‡Bの問題に関してはそれぞれの納経帳に異同が見られる。‡Aに関していえば、土佐国への入国を果たさない遍路は徳島県の西部へ至る道をたどった。可能性として、山の稜線越しに西部に行く道と徳島平野に帰って、吉野川を遡るルートが想定できる。遍路がこのようなルートを取ったかどうかと言う問題を含めて今まで述べられたことのない説である。‡Bに関しては石鎚山は山岳修験の石鎚教の行者が修業していた地であり、それと遍路の修業が重ねて考えることができる遍路の巡礼路に新しい要素を加えることになる。

三 土佐入国禁止の問題について
 歴史資料を調べていくと、遍路に冷淡であった土佐藩の政策に至る。土佐藩は遍路の通行を制限しようとする制令をたびたび出している。 
 土佐藩に連動する形式で宇和島藩にある四ヶ寺にも遍路が参詣しないことが納経帳の納経の記録から伺える。土佐藩と同じく宇和島藩が遍路の入国を禁止したのであるか。それに対する説明はまだ不確かであるが、宇和島藩海岸部の三浦地区の庄屋の備忘録に、安政二乙卯年八月廾四日に遍路入込被差留之事の記事が見える(田中家文書調査会、2001、530頁)。これは要件のタイトルのみを記しているので、果たしてこのお達しの内容まで詳細に分からないが、何らかの遍路の入国を制限する法規が出されたと想定している。
(文責・稲田道彦)


◎研究発表4

 発表者:萩原八郎

 発表題目:「お遍路さんへの経済効果アンケートから」

[発表要旨]

 四国大学では四国巡礼についての全学的な研究活動に取り組んでおり、経営情報学部として四国巡礼の徳島地域への経済波及効果に着目した。社会調査実務士資格取得のための「アンケート作成とフィールドワーク」の野外実習を兼ねて、平成16年2月から3月にかけて二番札所極楽寺においてお遍路さんへの経済効果アンケート調査などを行った。
 四国巡礼の経済波及効果に関しては、これまでに本格的な研究はほとんど見あたらない。一般に年間15万人くらいと言われるお遍路さんであるが、その実数を正確に把握した調査報告はない。そこでまず、お遍路さんの動向を量的に把握するため、3週間の週末計6日間にわたって極楽寺への全参拝者数をカウントしたところ、8117人で男女比は4対6であった。駐車場での車両調査では、観光バス(6日間合計で136台)、自家用車(レンタカーを含む:1469台)、タクシー(63台)などが全国から来ていることがわかった。6日間計で1357人に対して行ったアンケート調査では、属性(性別、年齢、職業、住所)、旅の形態(交通手段、人数、日程など)、消費動向(宿泊、飲食、遍路用品、土産)などについて質問した。
 アンケートの集計から、女性が多い、年輩の方が多い、全国から来ている、といった一般に言われているいくつかのことが裏付けられ、旅の形態や消費動向についてもある程度の傾向が明らかになった。一方で、アンケート調査をしてみてわかったことは、ツアー(団体)と個人旅行が区別されずに答えられたり、アンケート項目が多すぎ、かつ細かく聞きすぎたために、消費金額についてあまりよいデータが得られなかった、ということである。
  お遍路さんに直接接してみて、四国巡礼の歴史と文化について考え、無形の観光資源の重要性を見直す機会になった調査でもあった。
(文責・萩原八郎)

◎研究発表5

 発表者:水野一典

 発表題目:「接待講の諸相」

[発表要旨]

 接待講とはその字のように接待を行う講のことであるが、その姿はさまざまなものがあり、接待を行うために組織された講もあれば、大師講や念仏講といった信仰の集まりが母体となって行われるものもあり、また集落の行事として行われている例もあって、実体は多種多様である。また講の中にはセッタイヂ(接待地)といった財源を持っている組もあって、そこからの収入を接待の費用にしているところもあれば、セッタイグサ(接待草)といって田の草取りを請け負ってその礼金を接待の費用にした処もあって、その姿は多種多様である。                   また接待にやってくる講は札所の地元や近隣の村といった四国島内の他に紀州接待講や有田接待講(和歌山県)、道越講中や道に講中(岡山県)といった海を渡ってくる接待講もあり、これらは阿波讃岐にその事例が多いのは、やはり古くから海上交通がひらけていて交流があったからであろうと思われる。また讃岐の場合、多度津近隣の札所が多いのは、多度津の港が備中以西からの金比羅参詣の上陸地として栄えていたためで、接待に来るのも備中備後の村が多かったのは、港の利用地域との関係がうかがえて興味深いものがある。
 今回の発表はここ数年の見聞を中心に阿讃の接待講のあれこれを報告したものである。接待講の現状と聞文による時間をとりすぎて尻切れトンボに終わってしまったが、接待をする人及び受ける遍路さんの心意の変化についても(昔と比べて)どう変化してきたかということについても言及しておけばよかったと、今になって思うことである。
 (文責・水野一典)


◎研究発表6

 発表者:浅川泰宏

 発表題目:「地域社会の巡礼者認識─『オヘンロサン』と『ヘンド』について」

[発表要旨]

 本発表では、「四国遍路」を語るなかでしばしば登場する「ヘンド」という言葉に着目する。これは、時に遍路と区別され、時に同一視されるなど、焦点が定まらない謎の概念であった。これまでの研究者は主に方言と理解してきたが、本発表では、より詳細に検討することによって、四国遍路における巡礼者認識の構造に切り込んでいくことを目指した。
 まず、徳島出身の作家、瀬戸内寂聴氏のエッセイより、「オヘンロサン」と「ヘンド」を語り分けた部分を整理し、表にまとめた。そして、前者は敬意に結び付く+の傾向を持ち、後者は蔑視に結び付く−の傾向を持つ一種の認識カテゴリーであると理解した。
 次にこの二つが、実際のフィールドでどのように運用されているかということを議論した。とりあげたのは、県内のA町F家を訪れたある遍路者が、F家の嫁と姑によって、それぞれ「オヘンロサン」と「ヘンド」と別々に認識された事例である。このように遍路者の認識に関しては、同一の場においても、しばしば認識が交錯したり、あるいは、後に再解釈されたりするなどして、必ずしも一意に決定されない。
 最後に、このような流動的な巡礼者認識を読み解くモデルとして、大師信仰などの民俗宗教に立脚し、接待と利益との関係を保持する「伝統」的遍路観と、近代合理主義に立脚し、接待と利益との関係を否定する「近代的」遍路観とが、地域社会に併存しているという仮説を提示した。「近代的」遍路観は、一定の基準を満たさない者を巡礼に無関係な存在(例えば「乞食」)として排除する。しかし同時に、蔑視しながらも巡礼空間に留めようとする「伝統的」遍路観が反作用として働くという動態論的モデルを通して、「ヘンド」という概念は理解しうるという考えを示した。
 (文責・浅川泰宏)

研究会記録(2005年度)

2004年度会議記録   第3回総会および第7回研究会(2005/05/21)  第8回研究会(2005/08/07)

 共同調査「海部地方の民俗」座談会(2005/09/04)   第9回研究会(2005/12/04)

会議記録

■2005年度  第1回理事会

2005年5月21日(日) 14:00〜15:00

徳島大学総合科学部1号館ゼミナール室1

参加者・・高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)総会報告・決定事項の確認

2)共同調査「海部地方の民俗」/会誌5号(2007年3月発行予定)特集

3)次会研究会の確認

 

■2005年度 第2回理事会

2005年6月25日(土) 13:30〜15:00

徳島県立博物館・講座室

参加者・・森本嘉訓、高橋晋一、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)「海部地方の民俗」共同調査及び会誌五号特集について

2)「海部地方の民俗」座談会について

3)会役員の見直し

4)次会研究会の日程確認

■2005年度 第3回理事会

2006年2月19日(日) 14:00〜16:30

徳島県立博物館・講座室

参加者・・森本嘉訓、高橋晋一、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

 <報告>

1)2005年度事業報告

2)2005年度会計報告

3)会誌4号について

 <議題>

1)二〇〇六年度事業計画

2)研究会役員選出について

3)次会総会について

4)次会研究会について

5)共同研究「海部地方の民俗」について(打ち合わせ会、研究成果報告会の件など)

6)会誌五号の編集について(特集、締め切り日)

7)研究会ホームページ

8)会費納入状況について

9)その他

 

■第3回総会および第7回研究会

2005年5月21日(土) 15:00〜17:50

徳島大学総合科学部一号館ゼミナール室?

参加者…13名

◎ 総会

1)役員の改選

 代表理事(代理) 近藤直也

 理事 森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

 編集担当 高橋晋一

 事務局・会計担当 庄武憲子、磯本宏紀

2)2004年度の事業・会計報告

3)会誌五号特集「海部の民俗」に向けての調査について

 

◎ 研究発表1

発表者・・橘 禎男(徳島民俗学会会員)

発表題目・・「峠の地蔵信仰について」

[発表要旨]

 峠は、山を越える交通路の一部で、道の最高地点を指している。越・タオ・峠など多くの呼称を持っており、長い間交通路として人々の暮らしに深く関わってきた。しかし、昭和30年代からのモータリゼーションの波により、道を取り巻く環境は激変した。

 車社会に対応して、峠にはトンネルが掘られ、二車線の直線道路が通じた。また林道が至る所に開設されて、古い峠道は寸断された。こうして、生活のために歩いて山を越える人はなくなり、峠道は過去の遺物として、人々の生活と無縁のものとして忘れ去られた。しかし、道には必ず歴史があり、人々の暮らしから生まれた文化が残っている。

 ところで、徳島県内にはいくつ峠があるのだろうか。名前が付いている峠を拾い出すと、平成17年5月1日現在で371を数える。その中で、石造物のある峠は220ある。これらの石造物は、山村の住民や峠を通行する人々との長い関わりを示す文化財であるが、現在では祀られることもなく、峠道とともに消えようとしている。

 峠の石造物の中で最も多いのは地蔵尊で、220の峠の内129の峠に祀られている。地蔵尊の総数で見ると171体に上る。これら峠道の地蔵尊から見える地蔵信仰を今回の発表テーマとした。

 その内容として、建立年代が判明している7,8体の地蔵尊についてみると、地蔵尊の建立は江戸時代中期から後期にかけてが5,6体と全体の7割を占めている。これは平野部の地蔵尊とも共通しており、庶民信仰の広がりの時期を知ることが出来る。

 ところで、県内になぜ地蔵尊が多いかについては、仏教との関係に触れなければいけない。一般に言われることは、死後の六道輪廻の世界と仏による救済の話である。特に地蔵尊は、現世利益をかなえてくれる仏として庶民信仰に広く受け入れられてきた。そして真言宗の僧や山伏によって地蔵信仰が広められたといわれている(田中久夫『地蔵信仰と民俗』)

 峠の地蔵信仰例として、スライドを交えながら、1柴折りさんと往来安全(高休場・小屋峠・朝休場)、2村中安全(ソフエノタオ・八重地峠)、3治病(亀尻峠・後山峠)、4子育て(川平峠・二双峠)、5供養(コサデ峠・トゴエ)などが挙げられる。また、現在も行われている小島峠の地蔵まつりについて紹介した。(文責・橘禎男)

 

◎ 研究発表2

発表者・・高橋 晋一(徳島大学総合科学部)

発表題目・・「徳島県における山車の形態と分布」

[発表要旨]

 本発表では、徳島県の山車をその形態を指標として、曳くタイプ(だんじり/船型だんじり/山鉾)、担ぐタイプ(屋台/太鼓屋台)の五類型に分類し、それぞれの類型の分布の状況をもとに、県内における「山車文化圏」の構造とその形成過程について検討を行った。

 徳島県の山車は、先述した五類型で言うと「だんじり」「屋台」が九割以上を占めている。分布状況を見ると「だんじり」は県南・県西、「屋台(小型屋台を含む)」は県北の吉野川流域(県西を除く)に集中しており、「だんじり文化圏」(県南・県西)/「屋台文化圏」(県北)という二つの大きな山車文化圏を設定することができる。「だんじり」と「屋台」とでは、だんじりの方がより山車文化の基層(古層)を伝えるものと考えられ、近県の事例などをふまえて考えると、近世後期以降祭礼の華美化が進み「見せる要素」が強調されていく中で、「曳く山車」に加え「担ぐ山車」が出現、普及をみたものと考えられる。こうした要素はおそらく都市(徳島城下)に発生し、当時藍作を基盤として経済的な発展を遂げていた吉野川流域に伝播していったものと推察される。

 「船型だんじり」は県東海岸地帯に点々と分布するが、この種のだんじりは藩主の御座船を模したものと言われ、「加子」を輩出した地域と深く関連する。また漁民の船に対する信仰との関連も看過できない。「山鉾」は海部郡宍喰町・八阪神社にのみ見られるが、これは京都との文化交流(中世祇園会の流れを伝えるとされる)を示す重要な事例である。「太鼓屋台」は県南海岸地域(海部郡)、県西部(三好郡池田町・山城町)に特徴的な分布を示し、「太鼓屋台文化圏」を形成している。県西の太鼓屋台は讃岐・伊予から、県南のそれは阪神圏から海を越えて近世後期以降に移入したという伝承を持つところが多く、県境部における文化交流の姿を知るうえで貴重な資料と言えよう。

 今後の課題としては、県内における山車の時間・空間的展開のさらなる検討、だんじりのサブタイプに関する検討、祭礼における山車の「序列化」の問題、囃子の構成・奏楽に関する検討などが挙げられる。当然のことながらこうした検討は、史料調査と現地調査をふまえて実証的に行われる必要がある。(文責・高橋晋一)

■第8回研究会

2005年8月7日(日)16:30〜17:30

徳島大学総合科学部1号館312講義室

参加者・・13名

◎ 研究発表

発表者・・加藤 正春(ノートルダム清心女子大学教授)

発表題目:北部沖縄の葬墓制をめぐるいくつかの問題

[発表要旨]

 1960年代以前の、火葬が定着する前の沖縄の葬送・墓制は、洗骨改葬をともなった複葬制として理解され、墓(石造墓とされることが多い)への葬送とそこでの死体処理の手続きに、ある程度標準化されたやり方が行われていたとみなされることが多い。

 死者を墓室内の「シルヒラシ」(一次葬の場所)に安置して骨化し、数年後に洗骨・改葬を行って、洗骨骨を納めた骨甕を墓室奥の段上に安置するというそのやり方は、しかし、近代以降になって一般化した葬法のように思える。19世紀末から20世紀初めくらいにかけての沖縄では、多様な葬送・墓制が行われていたことが報告されているのである。

 私は別に、20世紀初頭以前の北部沖縄の葬送・墓制のあり方について、民俗資料を提示して検討を加えたことがある(加藤n.d.)。それによれば、かつての北部沖縄では、海岸辺のアダン等の薮を葬地として用いる葬法や、地上に安置した柩の周囲を石積みで覆い草屋根をかぶせる葬法、浅い埋葬、森の木から柩を吊り下げたり、洗骨後の骨を袋などに入れて吊り下げる葬法、森の木の台上に柩を納めた屋型をのせる葬法、森の木の根元を葬所として用いる葬法、木造の掘建小屋を墓として用いる葬法などがみいだされ、それらが一次葬、二次葬、ないし三次葬の手段として用いられていたのである。以上の葬法に、さらに崖葬や掘込式の横穴墓、あるいは積石墓や石造墓への葬送という葬法を付け加える。ならば、知られるかぎりの沖縄の葬送・墓制のかなりの部分をカバーすることができるように思われる。

 この発表では、以上の考察に新たな資料を加えて、北部沖縄の葬墓制の多様性にかかわるいくつかの問題を検討する。ここでは、佐喜真興英が報告した旧久志村(現名護市)汀間の大正時代の葬墓制の記述をてがかりに、洗骨骨を袋などにいれて吊り下げる葬法(二次葬)、木造家型墓の問題、死者をふたつきの竹かごなどに納めて吊り下げる葬法(一次葬)について考えることにしたい。

参考文献

加藤正春 n.d.「北部沖縄の墓制とその変遷−単葬墓制と木造家型墓−」『沖縄民俗研究』22号・未刊(沖縄民俗学会)

 ※なお、この発表の内容は、「北部沖縄の葬墓制をめぐる若干の問題」として『ノートルダム清心女子大学大学院開設10周年記念誌』(仮題)に掲載している。興味のある方は、ご連絡いただければ抜き刷りないしコピーをさしあげます。

〔連絡先〕

〒703−8258 岡山市西川原340-9 ノートルダム清心女子大学

電話番号 086-252-3184(研究室直通)

(文責・加藤正春)

 

■徳島地域文化研究会・共同調査「海部地方の民俗」座談会

2005年9月4日(日) 13:30〜15:30

海南文化館大会議室

参加者・・12名

◎ 研究会案内

◎ 共同調査趣旨説明

◎ 意見交換と共同調査参加者テーマ紹介

・ 海部地方には、皆が互に助け合って仕事を進めていくなど素晴らしい昔からの共同体生活の気風がある。一方、海部を誇りにしている人が少ないと感じる。また、市町村合併によって、地域間にひびわれが起きていると感じる。海部地方をまとめ、誇りに思えるような、例えば古代史に出てくる「海部」の起源にせまるようなことが知りたいと思っている(黄田真和)

・ 海部地方の婚姻習俗を調査してきた過程の中で、海部地方の特色、重要な文化要素として「ワカイシ」などの年齢階梯制の存在があげられると考える。そのほか海部川流域の「イレオドリ」での男女交流の場、かつてあった阪神方面へ奉公など、とりあげておくべきテーマだと考える(岡田一郎)。

・そのほか、海部地方の地名(北原國雄)、海部地方の地神の悉皆調査(森本嘉訓)、ノミの製作を切り口とした海部地方の潜水漁(磯本宏紀)、海部地方の講の特色または女性の民俗(堀部るみ子)、由岐町での御鍬講について(大橋孝)、日和佐町の特色(大杉洋子)、海部地方の年棚と盆棚(庄武憲子)、峠の石造物ほか、生活で使われてきた道とその道の保全の重要性について(橘禎男)、遍路などに代表される、土地の文化に密着した環境遺産への取り組みについて(白石高啓)、海部、海南に見られる葬送儀礼の重要性について(近藤直也)など、各人の興味、取り組みについて話し合いがおこなわれた。(文責・庄武憲子)

■第9回研究会

2005年12月4日(日) 15:30〜17:40

徳島大学総合科学部1号館1階北棟ゼミナール室1

参加者・・6名

◎研究発表1

 発表者・・多喜田 昌裕

 発表題目・・「徳島県の中華そば(ラーメン)戦前・戦中・戦後史」

[発表要旨]

 1、呼称の問題。共通語では「ラーメン」=「中華そば」=「シナそば」だが……

 2004年3月発行の「徳島地域文化研究」第2号所載の「徳島県の中華そば史(大正時代〜終戦直後)」で1947年(昭和22)までの徳島県の中華そば(=ラーメン=「シナ」そば)の歴史に関する報告をおこなったが、今回の発表は、その補足となる。

 徳島県以外から来た人々は気づいていると思うが、徳島市とその周辺市町村では「ラーメン」と「中華そば」と「シナそば」は別の食べ物であると主張する人々が一部におり、日本の標準語の「ラーメン」という言葉には「中華そば」と「シナそば」も含んでいるという知識を持つ人々との間で「ラーメン」論議をおこなったときに言語が通じなくて意思疎通に困難をきたしている。このような言語傾向は和歌山市や香川県の一部にもある。これが方言の部類に入るのかどうかは疑問だが、全国調査が行われてはいないために他の地域にも同様な傾向があるかどうかは不明である。このあたりは徳島市とその周辺などでは個別に確認の上で聞き取り調査を行う必要がある。

 今回の発表では、標準語を採用し「中華そば=ラーメン=シナそば」として言葉を使用する。

 2、「徳島ラーメン」の呼称と概念の「発見」

 1999年(平成11)に東京発の新聞や出版物やテレビ放送などで全国に紹介された「徳島ラーメン」は、徳島市とその周辺市町村にある全国的にも特異なラーメンを指して「新横浜ラーメン博物館」によって造られた概念である。

 神奈川県にある、ラーメンを題材とした展示館兼食堂街の「新横浜ラーメン博物館」が、1998年から徳島市などで調査し、1999年9月から翌年5月までの間の同館で「徳島ラーメン」をパネル展示し、徳島市内から1軒のラーメン店(中華そば店「いのたに」)を招き臨時店舗を館内に設置し、現物の試食も可能にして、全国に発表した。

 同館が指摘した「徳島ラーメン」の最大特徴は次のようなものだ。

 ●濁った黒っぽい(焦げ茶色)スープ。

 ●チャーシューではなく甘辛く煮込んだ豚バラ肉を具に入れる。

 ●生卵を好みで入れる。

 ●麺はストレート麺(まっすぐな形の麺)で、細いが短い。

 また、同館は、「徳島ラーメン」の歴史を徳島県史上で初めて調査をおこない、徳島市の「徳島ラーメン」のルーツは南隣の小松島市で1949年(昭和24)ころに小松島市に戦後にやってきた故・二木弘(にき・ひろむ)が屋台で開始した豚骨の白っぽいスープのラーメンらしいと発表した。

 しかし、「新横浜ラーメン博物館」のホームページなどでの「徳島ラーメン」に関する報告文にある「小松島発祥(仮)説」の箇所を読むと、全国的にも特異な「徳島ラーメン」の起源が戦後の小松島らしいとする説であるのか、または徳島市や徳島県のラーメン(=中華そば=「シナ」そば)の発祥地を戦後の小松島らしいとしているのか、この二つのうちのどちらの起源説を書いてあるのかは読み手には判断できない。

 このことに関する疑問を私が調査すると、徳島県三好郡山城町では昭和一桁代に、また同郡池田町や徳島市や小松島でも遅くとも昭和10年代にはラーメン(当時はこれらの地域ではシナそばと呼ばれていた)の屋台や店舗が複数存在していたことが当時の経営者の子孫や当時の客であった高齢者層から聞き取ることができた。これらは2004年3月発行の「徳島地域文化研究」第2号所載の「徳島県の中華そば史(大正時代〜終戦直後)」で1947年(昭和22)までの報告済みである。今回の発表は、その続報と補足となる。 

 3、戦前・戦中の事情についての補足

 1936年(昭和11)から1939年(昭和14)の現・西大工町二丁目の電話局で夜勤の最中に電話局脇道路に来ていたラーメン屋台のことが、「徳島電報電話局史」(徳島電報電話局・1973年(昭和48)発行)の「朝帰りと夜泣きそば」という題名の回想記に書かれている。

 当時、大阪逓信工務課徳島出張所の通信技工であった長島正行が、西大工町の電話局の建物で宿直のときに、めんどうなので勤務場所である二階の窓から篭を紐で吊り下げてそれに丼を入れてもらって食べ終われば篭に空の丼と代金を入れて吊って返すということをおこなっていたことが本人によって書かれている。 

 現在のところ、私は徳島県のラーメンに関しての戦中や戦前のリアルタイムの新聞記事や広告などを見つけることができてはいない。大正時代や昭和一桁代の中国料理店の広告はあっても、その店のメニューの詳細が不明なのである。そういう中では戦前戦中の記憶がまだしっかりしている昭和40年代にかかれた「徳島電報電話局史」は貴重であろう。

 4、戦後のラーメンの興隆は製麺業の発展による

 戦前や戦中のラーメンは戦争拡大による食料の配給制度の強化で材料の入手が困難となり姿を消してゆくが、戦後のラーメンの復活にはこの配給制度が関係している。戦後の米の配給所には大雑把に言って「米」以外にも「砂糖」「小麦粉」があって、どうしても「砂糖」や「小麦粉」の必要な人は「米」の配給分を減らして、それの代わりに「砂糖」または「小麦粉」を配給してもらうことができた。交換には公式な比率が規定されていた。

 しかし、「砂糖」はともかく、「小麦粉」に変える人は少なくて、ほとんどの「小麦粉」が配給所に残ってしまった。この小麦粉を「入手することができるだろうか?」と、配給所である徳島市丈六町の米屋を訪問した同市多家良町の山田宗春が、その余った小麦粉を使って、まずは素麺を作り、続いて中華麺を作り、遅くとも1949年(昭和24)には中華麺の販売を開始している。  

 この山田の「山田中華そば」が1955年(昭和30)に発足した「徳島中華製麺有限会社」の基の一つとなる。さらに、他にも中華麺の製麺所が徳島市にはできたために、一般の食堂などのメニューに中華そば(ラーメン)が加わって、やがて、中華そばの専門店なども登場してくる。

 5、徳島ラーメンの特異性の根拠は謎

 この過程で、徳島市とその周辺市町村の中華そばは、全国的にも特異な「進化」を遂げる。

 最大のものは、約40パーセントの店では「チャーシュー」とは違って事前に薄く切った豚バラ肉を甘辛く煮付けたものが乗っていることと、好みによって「生タマゴ」が月見ウドンのように乗った中華そばが注文できるように「タマゴ」または「タマゴ入り」というメニューがわりと多くの店に提示されているということである。この「タマゴ」は特に注意書きが無いかぎりは「茹タマゴ」ではなくて「生タマゴ」である。 

 このような他県では例の無い徳島市の特殊な様式の具が登場した理由は、ひとつには、1951年(昭和26)に屋台で開業した徳島市の「銀座一福」によると、客の中に生タマゴを持ってきて割って乗せて食べる人がいたので店側も生タマゴを用意しておくようになったと言う。また、当初は徳島市在住の中国人コックに中華そば(ラーメン)の作り方やチャーシューの造り方も教わって開業したが、チャーシューの味が初代の経営者の味覚の好みに合わなかったので改良する中で、薄く切ったバラ肉を醤油で煮付ける方法に至ったと「銀座一福」の二代目経営者は語る。

 さらに、もうひとつは、「山田中華そば」が中華麺の販路を開拓する中で、一度も中華そば(ラーメン)を食べたことも調理したこともない食堂などに売り込むときに、チャーシューを造るのが面倒な場合は、具は何でもかまわないというようにアドバイスしたことで安い豚バラ肉を煮付けたものなどが食堂側に採用されていったという経過もあるらしい。

 当初は、「チャーシューを自作する技術が無いので豚バラの煮つけを入れているのだ」というように一部の心無い料理人からは笑われもしたが、豚バラ肉を採用する店「広東」が昭和40年ころ店舗を開き、さらに郊外にありながらもまもなく1日に1000杯を越える売り上げを記録したことから、「広東」の味付けや具の様式を模倣する店が増えていった。

 生タマゴも同様で、「広東」に「生タマゴ入り」があったために一気に模倣で多くの店に普及していったらしい。

 チャーシューよりも豚バラの煮つけのほうが調理は簡単で短時間であったために普及したように、「生タマゴ」は家族経営規模の店でもメニューにすぐに採用することが可能であったという。冷蔵庫が高価であった時代には店の冷蔵庫で経営者の家族用の食材も保管していたので、冷蔵庫内にはいつでも家族用の生タマゴが入っている。その生タマゴが業務用に流用できたという理由だ。  

 このような説明の一つに、徳島市などのラーメン(中華そば)にはスープの温度があまりにもぬるい店もわりとあるということへの説明がある。赤ん坊が手を入れても平気なような温度のスープもある理由としては、「熱いとすぐに飲めないが低めだとすぐに飲めるという親切心から低い温度にしてあるのだ」という説明である。ただ、これは変だ。この理屈が正しいのであれば日本全国でもスープがぬるくなくてはならないが、少なくとも多くの人々は赤ん坊が手を火傷しないような温度のスープというものが徳島市以外には存在しないであろうと判断している。

 このスープ温度説は徳島市では通用しても徳島県内の他市町村や他都道府県では通用しない「理屈」である。そういう視点でみると、「チャーシュー」では無い「豚バラ煮付け」説や「生タマゴ」説も、徳島市とその周辺部ではともかく、なぜ全国に同様な様式がないのかということを説明はできない。

 このように、徳島市などでは通用しても、日本全土の人々には、特異なラーメン(中華そば)の様式が徳島市などで受け入れられている理由については、説得力のある説明はできない。発生についてはおおよそのルーツが判明するものの、それを「良し」として受け入れた側の徳島市民などの価値観の根拠は不明なのである。

 6、忘却状況に次々突入している徳島県の近代化史

 「徳島県の中華そば史」研究は、高齢者や関係者からの聞き取りの報告や、古い新聞などの記事の発掘報告の羅列にならざるを得ない。これらは現在ではあまり価値が無いものではあるが、100年200年という単位でみたときに、20世紀末から21世紀初頭に全国に紹介されて全国ブランドになった徳島の名物料理「徳島ラーメン」に関する同時代の人間による記録や歴史調査として後世の歴史研究者には価値を有するものとなろう。そういう意味では、我々は、古文書を調べる側では無く、後世に残す古文書を書く側でもあるのだ。

 なお、この数年に、郷土史を研究する人々に聞いてまわると、明治維新以降の徳島県の外食産業の近代化史というものは、西洋風肉料理や洋食の発祥などについてわずかに記載があるくらいだという。

 つまり、そのセンスは明治時代の「脱亜入欧」的である。もう一つの食文化の近代化である中国料理の徳島県での普及史がまったく欠落しているのである。その中でさらに中国料理の大衆版とでもいえるラーメン(中華そば)の徳島県の戦前・戦中史は、二〇〇四年三月に「徳島県の中華そば史(大正時代〜終戦直後)」を私が発表するまでは誰も報告を書いてはいなかったらしい。

 ところで、「徳島県の中華そば史(大正時代〜終戦直後)」の発表以降に、同報告に登場する戦前・戦中・終戦直後の徳島県のラーメン・中華そばの歴史を見聞きした世代で私の調査に協力してくださった人々が複数亡くなられている。これが他の分野の研究調査であれば、やがては文献調査だけの研究となるのだろうが、文献化されていないであろう徳島県の中華そば・ラーメンについては、戦前を知る高齢者の人々だけが頼りであるのだから、調査はさらに急ぐ必要がある。これは明治から昭和時代などへの近代化史全般にいえることではあるのだが……

 

◎研究発表2

発表者・・高橋 晋一

発表題目・・「祭りに出る鬼−徳島県南部地域の事例より」

[発表要旨]

 県内のほとんどの地域において、お練り(神輿渡御)の際に神輿を先導するのは「猿田彦(天狗)」であるが、県南の一部地域(阿南市南部、海部郡由岐町、日和佐町)では、「鬼」が神輿を先導する。県内の祭りに出る鬼は「鬼面型」と「天狗面型」の二つに分類できる。前者は鬼面(赤・青)を被り鬼の衣装(赤・青の上下)を着け、青竹のササラを持つ。後者は天狗面(赤・青)を被り鬼の衣装(赤・青の上下)を着け、手に長い木の棒を持つ。「鬼面型」の鬼は主に由岐町、「天狗面型」の鬼は主に阿南市南部見られる。

 

研究会記録(2006年度)

会議記録   第4回総会および第10回研究会(2006/06/10)   第11回研究会(2006/08/05)

地方史協議会編第1回徳島例会(2006/11/18)   連続講座第1回(全3回)(2006/12/27)

■2006年度  第1回理事会

2006年6月10日(日) 13:30〜14:40

徳島大学総合科学部文化人類学教室 高橋研究室

参加者・・森本嘉訓、高橋晋一、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)総会報告・決定事項の確認

2)共同調査「海部地方の民俗」/会誌5号(2007年3月発行予定)特集

3)次会研究会の確認

■2006年度 第2回理事会

2006年6月25日(土) 13:30〜15:00

徳島県立博物館・講座室

参加者・・森本嘉訓、高橋晋一、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

1)「海部地方の民俗」共同調査及び会誌五号特集について

2)「海部地方の民俗」座談会について

3)会役員の見直し

4)次会研究会の日程確認

■2006年度 第3回理事会

2007年1月17日(水) 19:00〜20:30

徳島県立博物館・・講座室

参加者・・森本嘉訓、庄武憲子、磯本宏紀

以下の内容が検討された。

<報告>

1)2006年度事業報告

2)2006年度会計報告

3)会誌5号について

<議題>

1)2007年度事業計画(研究会)について

 ・地方史協議会5月例会(5月19日)

 ・地方史協議会高松大会(10月末)

 ・8月の例会は近藤直也氏の連続講座

 ・シンポジウム「海部地方の民俗」

2)来年度以降の共同研究(特集など)

  →再度、メーリングリスト等で意見を募り、総会時に集約、決定

3)研究会次期役員選出(案)について

4)その他

 次回総会は4月1日に海南文化村でのシンポジウム前に実施する。

■第4回総会および第10回研究会

2006年6月10日(土) 15:00〜17:50

徳島大学総合科学部1号館ゼミナール室1

参加者・・10名

◎ 総会

1)役員の改選

 代表理事(代理) 近藤直也

 理事 森本嘉訓、高橋晋一、庄武憲子、磯本宏紀

 編集担当 高橋晋一

 事務局・会計担当 庄武憲子、磯本宏紀

2) 2005年度の事業・会計報告

3)2005〜2006年度共同調査「海部地方の民俗」について

4) その他連絡事項

◎ 研究発表1

発表者・・白石 高啓(本会会員)

発表題目・・「風景の源流−環境デザインからの視点−」

[発表要旨]

 それじたいには使いみちはないかもしれない。でもその「使いみちのない風景」は別の何かの風景に・・・おそらく我々の精神の奥底にじっと潜んでいる原初的な風景に・・・結びついているのだ。そしてその結果、それらの風景は僕らの意識を押し広げ、拡大する。僕らの意識の深層にあるものを覚醒させ、揺り動かそうとする。(村上春樹 一九九八 『使いみちのない風景』中央公論社)

風景は上記のように、脳細胞に刷込まれた原風景と重なり、それが心を和ませたり、苛立たせたりと、日常世界に多大な影響を与える。

 風景はいつ頃から人々の意識に刻まれるようになったのだろうか。日本では地理学的には志賀重昂『日本風景論』や和辻哲郎『風土』と共に近代的風景、風土論の根底をなしている。確かに学術的考察ではそうなのかもしれないが、もう少し情緒的、文学的には、風景の源流は金毘羅参詣道、四国八十八カ所遍路道や紀伊山地の霊場と参詣道、東海道五十三次等の巡る旅の過程で、文化的景観(山河、海、里山、棚田、樹木、祭礼、巡礼、社寺等)が形成され共通認識景となってきた。

 例えば東海道五十三次、近江八景、富嶽三十六景などの浮世絵、参詣曼荼羅(那智参詣曼荼羅など)によって全国にイメージが定着していった。それによって庭園計画に名所の風景が見立てられたり、風景を求めて旅に出るきっかけになっただろう。かつて私が歩き遍路体験をした時、肉体的過酷の中、札所から札所へ巡る過程で、癒される風景との出会いは、正に自然の畏敬の念、「風景の源流」ではなかったろうか。季節感と人々の謙虚な生活環境は柔らかく「使いみちのない風景」かもしれないが、自然とのほどよい調和保ちながら、こころも豊かになる。日々巡礼を重ねるにつれ、五感が清浄になり、日常的空間は濃密なアニミズム空間へと反転してゆくように思えた。このような体験は、自然環境の厳しい風土、天空の都チベット(西蔵)ラサ(海抜3650m)のポタラ宮(観世音菩薩の住む場所・世界文化遺産)周辺にもあった。このように自然への畏敬の念を持つことによって、風景の源流の近づくことが出来、そこからきっと新しい持続可能な日常の瑞々しい生活空間が生まれてくるのではなかろうか・・・(文責・白石 高啓)

◎ 研究発表2

発表者・・水野 一典(香川民俗学会会員)

発表題目・・「地神信仰の諸相−讃岐の事例から−」

[発表要旨]

 民間信仰における神仏の諸相は、その地域では詳しく調査され情報量も多いが、他の地域となると近隣でも案外知られていないことが多い。そうした近隣の資料情報の一つとして讃岐における地域信仰の諸相を発表させていただいた。

 阿波と比較した讃岐の地神さんの特色としては第一に形状があげられる。讃岐の地神さんは石柱・自然石・祠その他の三種類があり、石柱は五角柱が最も多いものの他に四角・六角・八角・円柱などがみられる。自然石は全県に分布しており、五角柱のもの以外は自然石だったものを新しく建立したという土地もあって、石柱が分布する以前の古い形だったようである。なお分布状況としては、石柱は県東部や南部山間地域、祠や小社は県西部に多く見られる。五角柱が県東部や阿讃山脈沿いに多いというのは阿波からの影響かとも思われる。

 刻まれた神石としては天照大神・大已貴命・少彦名命・稲倉魂命・殖安姫(彦)命の五神が主であるがこれ以外の神名(水波女命・猿田彦神・大國主命・大歳神等)が刻まれたものや梵字が刻まれたものもあり、また自然石のものは単に五大神と刻まれたものや社稷と刻まれたものも見られ、地神信仰を持ち伝えた者の姿がうかがえるのも一つの特色である。

 祭祀組織は免場(自治会)や組毎に祀っている場合が、江戸時代の村にあたる大字で一つの処や氏神の境内に祀ってあって氏子全体で祀っているものなどさまざまな形がみられ、祭祀組織の変遷がうかがえる。

 地神さんの祭りは春秋の社日で、幟を立てて神職を呼んで神事を行うがこれ以外にも餅まきをしたり、相撲をとったり、獅子舞や神楽奉納を行うところもある。また丸亀市近隣では社日百手といって社日に百手を行うところがみられ、更に地神さんを祀っている地区は百手を行わず、百手をする地区では社日の神さんを祀らないという地域もあって、百手と農耕儀礼の関係を考えるうえのよい資料になっている。

 以上とりとめもない内容に終始してしまったが、阿讃の地神信仰の調査研究の一助にでもなれば幸甚である。

(文責・水野 一典)

■第8回研究会

2006年8月5日(土)16:20〜17:20

徳島大学総合科学部1号館312講義室

参加者・・6名

◎ 研究発表

発表者・・三谷 香子(慶應義塾大学大学院研究生)

発表題目:エスニック規範の「創出」−横浜中華街における華僑女性のポリティックスより−

[発表要旨]

 本発表では、横浜華僑社会における華僑女性の婚姻を通して、エスニックバウンダリーがいかに再構築されるか検討を行うものである。調査対象として、戦後から日中国交回復(1972年)までの横浜中華街を中心とする華僑社会(華人含む)とし、特に、広東人女性の婚姻を対象とした。

 これまでの華僑華人研究において主に取りあげられてきたのは、男性、もしくは男性を中心とした研究である。例えば、横浜華僑社会を例に取ると、横浜華僑社会の形成・組織・祭祀芸能等の先行研究があるが、それらのほとんどが男性を中心とした研究である。女性を研究対象としたものはわずかしかない。

 しかし、女性の側から婚姻を見ることで、どのようなエスニックバウンダリーが存在していたのか、またそれが送出国・受入国の社会変動の中でいかに再構築されていったのかを見ることができるのではないだろうか。いかに再構築されていったのかを見ることができるのではないだろうか。例えば、宮原は、セブ島の華人社会を事例として、エスニックバウンダリーを越えた通婚は、「華人」としてくくられる人間集団の内容、とりわけ次世代の関係、さらには個人のアイデンティティを撹乱する要因となりかねないからである」と指摘している。本研究において、横浜華僑社会における「女性」特に「婚姻」に着目した理由はここにある。

 そこで、本発表では、まず社会背景として、横浜開港に始まる横浜中華街の歴史を述べた。そしてその後で、その背景の中で華僑女性の婚姻がどのような変容を遂げていったのかについて、特に横浜華僑に特異的な社会変化であった、大陸(中華人民共和国)支持者と台湾支持者の衝突の一つである「学校事件」とその結果生まれた中華学校をサポートする女性の組織「婦女会」に着目して整理を行った。

 その結果、婚姻形態の変容を通して、横浜華僑社会を取り巻く環境の変化をうけて、エスニックバウンダリーがいかに変容しているのかを見ることができるだけでなく、「婚姻」がその再構築の一端を担っていることを示した。更に、その過程に、「女性」や「婦女会」が婚姻の斡旋などを通して、重要な役割を果たしたことについても言及した。

 このことは、これまでの男性を中心に研究されてきた華僑人研究における、「女性」を研究することの可能性をしめすものである。

参考文献

宮原暁「通婚とエスニック・バウンダリー−フィリピン・セブ市の華人社会の事例から」『アジア経済』39(10),1998.

(文責・三谷 香子)

■ 地方史協議会第1回徳島例会(本会共催)

2006年11月18日(土) 13:30〜16:45

徳島大学常三島キャンパス 工学部共通講義棟2階K206講義室

 木原克司(徳島地理学会・鳴門教育大学教授) 「吉野川下流条理の再検討」

 重見高博(考古フォーラム蔵本・藍住町教育委員会学芸員) 「勝瑞の発掘成果−調査成果からみる守護町勝瑞の景観−」

 根津寿夫(徳島地方史研究会・徳島城博物館学芸員) 「城下町徳島の社会史−民衆的世界の展開−」

 高橋晋一(徳島地域文化研究会・徳島大助教授) 「徳島県における祭礼山車の展開−文化交流史の視点から−」

■徳島地域文化研究会・連続講座第1回(全3回)

 2006年12月27日(水) 19:00〜22:30

 徳島県立博物館3階 講座室

 ◎研究発表

 発表者:近藤 直也(本会会長)

  発表題目:櫛の精神史−祖谷の投げ櫛・モノモライ・辻占から記紀神話へ−

  参加者・・7名

[発表要旨]

 西祖谷山村の葬送儀礼の中で、野帰り時、葬家の中に入る時、箕の中に入った塩やコマアシをまたいで手で取って清める習俗の中に、投げ櫛がある点に注目した。塩払いと平行して、箕の中の櫛を手で取り、これで髪をくしけずり、その後、うしろ向きのまま箕中に櫛を投げ込み、入り口の柱と箕の周りを三回左に回る。この所作を参加者全員が行うが、結果的に参加者全員は、櫛で三回くしけずり三度後方の箕の中へ投げ込む所作を繰り返すことになる。この極めて奇妙な習俗が、村内六地区に伝承されていた点に注目した。

 この類例は、岡山県蒜山地方・沖縄県読谷村・伊豆新島にもかつてあったことを報告書等で明らかにし、かつて投げ櫛は、沖縄から四国・中国地方を経て伊豆諸島にまで広範に分布する一つの大きな文化圏を構成していたことを明らかにした。

 また、櫛伝承は葬送儀礼だけでなく、モノモライの呪方の一つとして櫛の端を畳の縁にこすりつけその摩擦熱で熱くなった箇所を患部に当てたら治るという伝承があるが、これが日本神話のイザナギ・イザナミの黄泉の国での別れ(死[死のケガレ]の起源神話)や、山幸と豊玉姫との別離(豊玉姫の出産神話[産穢の起源神話])とダイレクトに結びついていたことを指摘した。櫛の男柱を打ち欠いて、ここに火を灯して見れば、そこは異次元空間なのであり、これを逆手にとって利用したものがモノモライの呪法であったことを指摘した。

 このほか、神隠しにあった人を見つけ出す呪法として伏せた枡の角に櫛の歯を当ててこすり、妙な音を立てること、また神隠しにあった人が帰ってくるように、その人が普段使っていた櫛を敢えて隠し、持って行かれないようにする点を指摘して、櫛と人の霊との、切っても切れない密接な関係、櫛は使っていた人の魂の分身であることを指摘した。

 このルーツは、スサノオの八岐大蛇退治時のクシナダヒメにあり、スサノオがオロチを退治したのではなく、櫛(クシナダヒメ)によってオロチを退治するのが元の姿であったこと、この事は、岩手と富山に現在でも伝承されている、櫛によって大蛇を撃退した伝説と密接に関連しあっていることを明らかにした。

 今回の話題提供は、連続三回講演の第一弾であり、第二弾で「辻占」の櫛、第三弾で「別れの櫛」を論ずるための布石であることを予告しておいた。

 最後に、西祖谷山村にわずかに残されている投げ櫛伝承は、神話時代以来現在に至るまで連綿と継承されてきたきわめて貴重な文化遺産であり、これを残さないで何を残すのかということを強調した。地元の心ある人々に注意を喚起し、日本中どこを探してもすでに櫛投げ儀礼は西祖谷山村以外どこにも見当たらない事、唯一無二の貴重な文化遺産を今ここで消滅させてはならない事を力説した。

(文責・近藤 直也)