戦後35年の訪韓(前編)今年は戦後70年ということで、いわゆる歴史認識問題など、色々と喧しい。歴史認識問題といえば、テーマのひとつとして、広島・長崎で被爆した韓国・朝鮮人の問題がある。日本による植民地支配のひとつの帰結として被爆を負った彼らの存在は、「唯一の被爆国」としてもっぱら日本の「被害者」としての側面のみが語られがちな原爆投下にまつわる歴史の、もうひとつの側面を照らし出している。
だが、今回私が語るのは、そんな重い話ではない。広島・長崎で被爆したのち韓国へ戻ったいわゆる在韓被爆者たちの聞き取り調査を、ある市民団体が1980-81年頃行った。私はこの調査に参加して3回ほど訪韓したのだが、考えてみればあれは戦後70年のちょうど半分、戦後35年のことだった。今回紹介するのはこの時のこぼれ話。アホ話の類である。
第1回目の訪韓は1980年8月。関釜フェリーで釜山に入り、特急セマウル号で大邱、ソウルと3都市を訪問した。当初は釜山の後、光州へ行く予定だったが、この年の5月、韓国現代史上の大事件「光州事件」が起き、余韻さめやらぬ中で光州行きは取りやめになったのだった。
訪韓初日の夜。釜山のホテルで私たちはトランプに興じていた。ゲームに熱中していて夜12時を回った頃だった。フロントからの電話が鳴った。電話口の向こうで何やら言っているのだが、あいにくわれわれは韓国語があまり堪能ではない。ただ「チョンギ、チョンギ」としきりに言っているのが分かった。事態を理解せぬわれわれに業を煮やしたのだろう。電話が切れてすぐ、フロントのおばちゃんが部屋にやってきて、ドアを開けるなりすごい勢いで突進してきた。そしてまたチョンギ、チョンギと叫びながら天井灯のひもを引いて消灯した。その瞬間、われわれ全員が理解した。チョンギ=電気だと。
当時、韓国には灯火管制があり、夜12時には消灯が義務付けられていたのであった。われわれはそのことを知ってはいたのだが、皆すっかり失念していたのだ。「戦時下」の韓国での調査初日。われわれの平和ボケぶりが痛感させられた。(続く)